肆・第三章 閑話
儂がこの世に生を受けてから、五十余年。
その時間の殆どは……剣と共にあったと言って過言ではない。
不幸にもこの力こそ全ての世において、体格に恵まれなかった儂は……ただ一つ、剣の「技量」のみに全てを賭けた。
誰よりも早く、誰よりも鋭く……そして、誰もが防ぐことすら叶わない剣を。
ただそれだけを求めて生きてきた儂は、いつの間にか千人の兵たちを束ねる地位にあり……そして、戦場で出会ったどんな相手だろうとただの一振りで屠り続ける日々に、増長していたのだろう。
──『王』という名の、化け物。
身の程を弁えず……儂は、ソレと対峙してしまったのだから。
元々、『黒剣』様の治めるこの島も、幾度となく刃を交えた『血風』の島も……五十余りの島が浮かぶと言われるこの世界全てから見ると、そう大きな島とは言い難い。
そんな小さな島の「王」である『血風』だからこそ、儂は自分の剣で何とかなると考えた。
だからこそ、二つの島がぶつかり合う戦の混乱を狙って千の配下と共に王へと襲い掛かり……そして、儂は格の違いを思い知らされ、成す術もなく敗北した結果、無惨にも光を失ったのだ。
──愚かにも程がある。
──アレは……命があるだけ、マシ、というものだった。
それほどまでに、王の刃は鋭く……圧倒的だった。
そもそも、王という存在は『神果』と呼ばれる果実を口にして人間を超越した者のみが到達すると言われる超人か、もしくはその超人さえも刃一つで圧倒する存在のみがなれる、人の到達できる強さの最高峰なのだ。
──儂でさえ打ち合えたのは、僅かに三合のみ。
──千人もいた部下は一合を交えることすら叶わず、一振りの刃が風を起こす度、彼らは血と肉へと化していった。
──そんな『血風』でさえ、小さな島の王にしか過ぎないのだから。
──世界は、本当に、広い。
そして、その敗北によって儂は地位を追われ……黄の姓をはく奪され、戦奴にまで身をやつしたのだが……
幸いにして、儂には「目で見ずとも相手の動きを察する」という、稀有な才能があったらしい。
学のない儂には詳しい説明など出来る筈もないのだが……それらしく言葉を重ねるならば、相手の魂魄の形を視る能力、とでも言うのだろうか?
この能力のお蔭で、儂は戦奴に落ちぶれても剣技を損なうことなく、相手を破り続け……ついにはこの『黒剣』の中で五指に入る商人、劉玄の下へとたどり着いたのだった。
──だが。
今日、儂は初めて……自分を今まで生かしてくれたこの才能をただ呪うことしか出来なかった。
「餓鬼共が相手、か。
ただの殺戮で客共を喜ばせる……下衆の極みだ。
正直……気が進まぬな」
これから始まる戦いに、先鋒として出る若造……龍が、そう呟く。
実際、この長剣を使う青年はなかなかの好男子で……真正面から技を競う戦い方を好む好男子である。
だが……言っていることは、的外れにも程がある。
この若造には、『視えない』のだろうか?
小さな身体の子供が四人と……その真正面に立つ、あの桁外れの化け物が。
この比武の場に反響し続けている「空気の波」が教えてくれる情報は、眼前の「化け物」はさほど大きくない少年の形をしていると告げているものの……
──あんなのが、現実に、存在する訳がない。
──現に、他の者達は意にも介していない。
──いや、だが……儂には『視えている』のだ。
儂の魂が察知するあの化け物は、この『黒剣』の島よりもまだ大きく、如何なる刃をも通じぬ鱗を身に纏い、世界の全てを切り裂けそうな鋭い爪を備えた二つの腕に、何もかもを薙ぎ払う巨大な翼、生きる者全てを喰らうかの如く凄まじい咢を備えている。
その挙句、まるで化け物に寄り添うかのように、膨大な数の蟲と、雲霞の如き蚊の大群が化け物の周囲に群がっているのである。
あんなのに……人が、敵う、筈もない。
「まぁ、苦痛を味わわせることなく、あっさりを終わらせてやるか。
……行ってくる」
だと言うのに、龍はまるで散歩に出向くかのように気軽に、その化け物のところへと歩み寄って行くではないか。
──馬鹿な。
──命が惜しくば、今すぐ逃げよ。
儂はまだ先のある若造に向け、そう告げようと口を開く。
だが……その声は儂の口からは発せられなかった。
あの化け物がこの比武の場に訪れた時から、その存在感だけで儂の身体は震えが止まらず、一切の命令を受け付けなくなってしまっているのだ。
──これ、は……恐怖に、身体が竦んでいる、のか。
──新兵がかかるような病が、今頃になって……
儂の中の冷静な部分が、己の身体の現状をそう分析する。
だけど……それが一体何の役に立つのだろう。
そうしている間にも、龍は無謀にもあの化け物へと立ち向かって行き……そのまま、存在を散らしてしまう。
あの皇帝という名の化け物は、余興のつもりなのか、獲物を弄んでいたのか、少しの間は剣舞に付き合ていたようだが……踊りに飽きるや否や、あっさりとその顎門にて、龍の魂を喰らったのだ。
「マジかよっ!
あの龍がっ、ヤられやがったっ!」
我ら五人の中で最も気の荒い翼が、信じられないとばかりに叫ぶが……
──今さら、何を……
その声に儂は、首を横へ振って応える。
どうやら目の見える若造共は……あの化け物の存在に気付かないらしい。
あれほど強大で、あれほど絶望的な存在に、である。
……救いようがない、とはこのことだろう。
そうして儂が首を振っている間にも、もう一人の同僚である起は、相手の隙を突くべく、あの化け物の生贄になりに、音もなく走って行ってしまった。
「その方ら、早く、逃げよ。
逃げられぬ、なら……全力で、行かないと……無駄に、死ぬ、ぞ……」
「馬鹿、な。
大恩のある劉玄様の命を受け……逃げられる訳がない、だろう?」
ようやくひねり出した儂の忠告に、巨躯を誇る長は、静かに首を横に振る。
「当然だっ!
あんな餓鬼なんざ、兄者に敵う筈がないっ!」
長と同じほどの巨体を誇る翼が大声でそう叫ぶものの……声を発したその前で、先ほど走り去っていた起は、あの化け物に触れられるだけで、その命を散らそうとしていた。
「……馬鹿、なぁあああ。
目が、目がぁああああああっ!」
格が違うとは、このことだろう。
あの化け物が何かをした訳じゃない。
ただ、あの化け物が身じろぎした拍子に、身体を覆う気に触れただけで、起は眼球を奪われ……無惨にものたうちまわる羽目に陥ったのだ。
そのまま、あの化け物は、起の魂に喰らいつき……
──っ!
その瞬間、儂は耳には聞こえない、魂の絶叫を聞いた気がした。
恐らく、あの化け物に魂を喰われると……未来永劫、苦痛を味わったまま死に続ける。
理由も根拠もないままに、儂はその自分の推論を確信していた。
アレは……人智を超えた、そういう人に仇為す類の化け物だと、理屈もなく理解できる。
「……なら、次は自分が、やらせてもらう。
ただの小僧じゃないってことは、よく分かった。
自分でも真正面からじゃ、ちとキツそうだが……勝算くらいは見い出せるだろう」
次に順番を割り振られていた長は、静かにそう告げると化け物のところへと向かって行ったが……結果など、見えずとも分かる。
──愚かな。
──アレは……人が、どうにか出来る相手ではない。
この世界中に存在する、人外の存在……王であっても、アレを屠るなどは不可能だろう。
儂はこれでも身の程を弁えず王と相対し、敗北した身ではあるが……だからこそ、王の強さというものは、身をもって知っている。
それを含めても……あの化け物は、格が違う。
世界の果てにあり、世界を支えていると言われる『神樹』に座す、この世界を創りし戦神か。
もしくは、死者が向かうと呼ばれる地獄を治める地の神ならば……あの化け物を滅ぼせるのかもしれないが……
「ぅぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!
兄者っ!
兄者ぁあああああああああああっ!」
そうしている間にも、長は策を弄する間もなく喰われ……その長を義理の兄と慕っていた翼も憤怒に我を忘れてあの化け物へと向かっていき……
巨漢の、人の身を極限まで用いた決死の特攻は、されどあの化け物には何の効果も発揮せず……ただその魂を餌として捧げただけに過ぎなかった。
──だから、儂は言ったのだ……
「何と言うことでしょうっ!
勝負が終わったと思ったところを、死体の頭を潰すとはっ!
残虐非道っ!
冷酷無比っ!
人の行う所業とは思えま……ぶべっ」
そうしている間にも、あの化け物はつまみ食いとばかりに、この比武を騒がす役割を持つ者へと喰らいつき……
そして、儂へとその目を向ける。
──勝て、ない。
──いや、勝てる、筈がない。
その瞳を向けられた瞬間……儂は逃れようのない己の運命を悟っていた。
このままでは、あの化け物に魂を喰われ……絶望と苦痛の中、死に続けなければならない、だろうと。
抵抗する術も、逃れる術も、ありはしない。
何しろ儂は、あの神に目をつけられた……ただの餌、なのだから。
──いや、違う。
──儂は、人、だ。
確かに儂は……儂という脆弱な「人」如きでは、あの化け物に対して、抗う術など一つも持ち得ない。
だが、儂は今まで矮躯の者として、弱者として……この世界に、身体に恵まれぬ弱者であるという運命に抗い続けてきた。
その儂の矜持が、叫ぶのだ。
──死が、逃れられないにしても……
──せめて、人として死にたい。
あの化け物の餌になるのは……まっぴら御免なのだ。
例えそれが運命だとしても……儂は、餌として永久に苦痛の中でもがき苦しむような、死よりもまだ悲惨な終わり方を迎える気など、さらさらない。
その運命に抗えるなら……精一杯、抗ってみせる。
──だったら……
──採るべき選択は、ただ一つ、か。
そう決めてしまえば、後は簡単だった。
幸いにして儂の腕は剣を操る術に長け……今まで数十数百の敵を屠ってきたのだ。
人の何処をどれだけ斬りつければ命を奪えるなんて、知り尽くしている。
「ひぃいいいいいいやぁあああああああああああああっ!」
覚悟を決めたつもりの叫びは……恐怖にかすれ、酷く間抜けな響きを放っていた。
だけど……それも、仕方ないことだろう。
それは、この化け物の顎門から逃れるために……恐怖という鎖によって縛られた、己の身体をただ一瞬だけでも動かすために、今の儂に出来る精一杯の抵抗だったのだから。
そうして叫びによって金縛りを抜けだした儂は、腰に差していた剣を抜き……一気に己の首筋へとその刃を叩きつける。
──これが、儂の……
──人としての、精一杯……
──見た、か、化け物、めっ!
首筋から血が吹き出し、脳を流れる血が抜け、薄れゆく意識の中……
儂は、餌を逃して悔しそうに叫ぶ、化け物の怒りの咆哮を、耳にした、ような、気がしたのだった。




