肆・第三章 第七話
「ぅぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!
兄者っ!
兄者ぁあああああああああああっ!」
「うわぉっ?」
立ち上がった俺に襲い掛かってきたのは、次の対戦相手である翼……さっきの長とかいう巨漢を、更に横に一回り大きくした、凄まじい筋肉質の男の、身体に比例したような泣き声だった。
雄叫びと言っても過言ではないその声に、長の敗北で怒号を上げていた観客たちすらも口を噤む。
あの司会者ですら耳を押さえて蹲っているの見れば……その声が如何にやかましいかは一発で理解できるだろう。
「てめぇっ!
てめぇがっ!
てめぇさえ、いなければぁああああああああああっ!」
一通り嘆き終わったのだろう。
突如、その翼という名の巨漢は狂気に満ちた血走った瞳で俺を睨んだかと思うと……そんな怒号を上げ、こちらへと走り込んできた。
その手に持つのは、蛇矛……いつぞやに俺も使ったことのある独特の形をした矛で、巨漢はその太い腕を、筋肉によって更に膨れ上がらせ、蛇矛を大きく振りかぶってくる。
その間にも俺は、歪み捻じれて使い物にならなくなっている六角金棒をその辺りへと放り捨てると、近くに転がっていた青竜偃月刀を拾い、構える。
何やら先端部にひびが入っていて、刃が変な方向に歪んでいたが……歪んだ六角金棒よりは扱いやすいに違いない。
──一体、何を斬れば、こんなに……
──ああ、俺の顔面にぶつかったんだったか、コレ。
何となく左手で青竜偃月刀がぶつかった鼻先をさすりつつ、俺はその武器を肩に担ぐ。
こうした方が、振りかぶる時に扱いやすいのだ。
「てめぇええええええっ!
兄者の、形見をぉおおおおおおおおっよくもぉおおおおおおおおっ!
ぶっ殺してやらぁあああああああああああああああああああっ!」
「五月蠅ぇえええええええっ!」
翼の振るってきた蛇矛の衝撃に備えて歯を食いしばりつつも、俺は防御を完全に無視して、手にしていた青竜偃月刀を力任せに直下へと振り下ろす。
──相打ち覚悟のカウンター。
顔を憤怒で赤く染め、怒り狂った大振りの一撃を振るってくる相手に、俺が選んだのはソレだった。
破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能に絶対の自信がある俺だからこそ使える、相手からしてみれば理不尽極まりない、不等価交換。
「う、ぐ……」
お互いの一撃を交換し合った結果は……当然のことながら、俺の思い描いた通りだった。
巨漢の放った蛇矛は俺の耳にぶつかった衝撃でへし折れ……逆に、俺の振り下ろした青竜偃月刀は、男の肩から胸へと突き立ち、そこで先端が砕けてへし折れる結果となったのだから、多少の思い違いはあれど、予想通りと言えるだろう。
「馬鹿が……。
てめぇの兄者とやらも、人様の命を奪って生きてきたんだ。
……負ければ殺されるくらい、当然だろうが」
あまりにも狙い澄ました通りの結果が訪れた所為だろうか?
久々の「快勝」という事実に何となく感慨深くなった俺は、巨漢の返り血が服を汚していることも意に介さず、そんな格好つけた言葉を言い放つ。
「信じられませんっ!
如何なる対戦相手も、全て一撃でっ、まるで牛を屠殺する如く屠ってきた、『屠夫』と恐れられたっ!
あの、翼をっ!」
俺の言葉を聞いて、ようやく自分の役割を思い出したのだろう。
えらくやかましい司会者が、脳みそを揺らすほどの大声を叫びだした。
しかし、そんな鼓膜に害を与えるだけの叫びも、何度か聞かされる内に「この声を聞けば試合が終わったもの」だと考えるようになったらしい。
俺は手に握りしめていた青竜偃月刀の柄……刃が壊れて既にただの棒とかしたソレから、手を放す。
そうして、俺はその司会者の絶叫を聞き流しつつ、戦いが終わったことに、安堵の溜息を……
「僅か、一合も打ち合わぬ間に屠ってし、ま……」
次の瞬間、だった。
俺の顔面へと、左から『何か』が突き刺さる。
「ぶっ?」
青竜偃月刀の手応えを感じ、完全に気を抜いていた俺は、その不意打ちの一撃を受け……押された頬から空気がはみ出した所為か、口からそんな見っとも無い音を出しつつも、ようやく我に返る。
──っとと。
身体が左へと持って行かれていることに気付いた俺は、慌てて爪先と腹筋背筋に力を込めて、何とかその場に踏みとどまる。
尤も……殴られた所為で、身体のバランスを崩してしまったとは言え、破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能に守られた俺には、痛みなど欠片も感じなかった。
とは言え……顔面をいきなり「押された」不快感は、隠しようがないのだが。
「て、め、っぐぁっ?」
怒りに顔を上げた俺を待っていたのは、真正面からの拳だった。
その一撃を顔面に受けても、殴られたという感触や痛みはなく……ただ「顔の前で何かが潰れる感触」程度にしか、俺は感じない。
……だけど。
「目が、目がぁああああああああっ!」
潰れたその肉塊……翼とやらの拳から噴き出した『血』までは、俺の権能は防いではくれなかったのだ。
幸いにして右目にしか血は入らなかったらしく……俺は背後にバックステップをしながら、唯一残された左目を見開き……
──馬鹿、なっ?
その左目に入ってきた光景に、思わず内心でそんな叫び声を上げていた。
何故ならば……そこには「鬼」がいたのだ。
青竜偃月刀の刃を左肩口から胸辺りまで食い込ませているのに、全く怯まず、拳が砕けて血が噴き出しているにも関わらず、その拳を叩きつけて来ている……全身を真紅に染めた、まさに鬼としか思えない存在が。
「ぉおおおおおおおおおおおおおっ!」
「う、うわぁあああああああああああああっ!」
翼という名の巨人の雄叫びと、俺の悲鳴が重なる。
正直……怖かったのだ。
この、明らかな致命傷を受けているにも関わらず、拳が砕け甲の骨が皮膚を突き破るどころか、もはや手の形すらも留めていないにも関わらず、破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能に侵された傷口は塩と化し、恐らくは腐泥の毒も回り始めているにも関わらず……それら全てを意にも介さず、鬼の形相のまま攻撃を続けてくる、このイカれた男が。
……だから、だろう。
巨人の右拳を顔面で受け止めながらも俺は、一切の手加減を考えることなく、ただありったけの力を込めて、最も信頼できる武器……即ち、『右の拳』を渾身の力を込めて振り抜いたのだ。
「……ぴっ」
響いた音は、ただそれだけで……右拳に返ってくる筈の、「人を砕いた感触」は、まるで感じなかった。
ただ俺の渾身の一撃は、眼前の巨人の胸骨を砕き、肺と心臓を抉り、そのまま左下方へと円弧を描き、臓物や脊髄を引き裂き……左脇腹の辺りから飛び出てくる。
どうやら何も考えずに拳を振るった所為で、打ち下ろし気味のフックになってしまったようだったが……まぁ、結果オーライだろう。
胸の辺りを大きく抉られた翼という名の狂戦士は、流石にその損害には耐えられなかったらしく、傷口から血をまき散らしつつもようやく崩れ落ちた。
その姿を見た俺は、安堵の溜息を吐く暇もなく、右足を大きく上げ……
「らぁっ!」
倒れたままの死体を……いや、死体に見せかけて「死んだふり」をしているかもしれない、巨人の頭蓋を、躊躇いなく砕く。
──やっと、おわ、った……
そうまでして、ようやく俺は安堵の溜息を吐いていた。
……そう。
正直な話……俺は、コイツが怖かったのだ。
胸に大穴を開けたくらいでは、まだ起き上がってきそうで……だが、流石のこの化け物も、頭を砕いた以上、起き上がることはないだろう。
「何と言うことでしょうっ!
勝負が終わったと思ったところを、完全に相手を倒したところをっ!
更に、ダメ押しとばかりに死体の頭を潰すとはっ!
戦士の尊厳を何だと考えているのでしょうっ!
残虐非道っ!
冷酷無比っ!
人の行う所業とは思えま……ぶべっ」
ついでに、人様の行動にケチをつけてきた司会があまりにもムカついたので、近くに落ちていた青竜偃月刀の柄を投げつけてやる。
……ちょっと力を込め過ぎたらしく、抗議のつもりで投げたその一撃は、あっさりと司会者の頭蓋を叩き割り……まぁ、そのお蔭で、あのやかましい声にもう二度と悩まされることはなくなったらしい。
──兎に角……これで、あと一人。
俺は静かに顔を上げ……敵側にいた五人の、最後の一人の方へと視線を向ける。
そこには、俺とそう大差ない体格の、かなり年老いた爺さんが剣を片手に立っていた。
その剣を構え慣れたような、凄まじい達人を思わせる立ち姿は、その達人が醸し出す雰囲気とやらを除いても、何処となく違和感を覚えさせるもので……
「やっと『盲剣』……漢の出番か。
これで、あの餓鬼も終わりだな」
「ああ。
いくらあの餓鬼が強かろうが……未だに負けどころか苦戦すらしたことのない、盲目にして最強の戦奴が相手じゃな」
「光を失う前は、百人を……小隊を率いる長だぞ?
あの『血風』に単騎戦いを挑み……敗れて目を奪われはしたものの、それでも生き延びて生還したほどの剛の者だからな。
言っちゃ悪いが……他の戦奴とは、格が違うさ」
司会者がいなくなった替わり、というつもりでもないだろうが、俺の頭上に位置する観客席のあちらこちらから、そんな……対戦相手を紹介する声が聞こえてきた。
──盲目の剣士、か。
そして、その声を聴いた俺は、ようやくさっき覚えた違和感の原因を悟っていた。
あの漢という名の剣士は……俺ではなく、「俺の遥か頭上」をじっと見上げているのだ。
それもこれも、見えないならば仕方ないことだろう。
ただ、そうして上を見上げたまま、微動だにせず固まっているってのはどうも気になるものの……
「……さて、と。
今のうちに……」
爺さんが動かないのを良いことに、俺は自陣へと戻り……地面に突き刺したままだった武器を適当に左右の手でつかみ取る。
と言っても、大体、一戦に一本ずつ破損させてきたお蔭で、もうろくに武器は残っておらず……俺が手に取ったのは、右手に矛と、左手に長剣だったのだが。
──ん?
そうして準備を整えた俺が試合場の中心部へと歩み寄ったにも関わらず、漢という名の爺さんはまだ俺の頭上を見上げたまま動かない。
何故か爺さんは滝のような汗を流し、その血色の悪い口元は震えているようにも見える。
「……おい?
そろそろ、始めるぞ?」
流石に異常を感じた俺は、震え続ける爺さんに向けてそう問いかけてみた。
実際の話、その爺さんは結構な老齢で……戦うどころかいつぶっ倒れてもおかしくないように思えるのだ。
そして……幾ら数多の死体を築き上げてきた俺でも、殺し合いもしない内に心臓病でぽっくり逝かれるのは、精神衛生的によろしくない。
……声をかけるくらいは、すべきだろう。
そして、その声が聞こえたらしい、漢という名の爺さんは、急にビクッと震えたかと思うと……
「ひぃいいいいいいやぁあああああああああああああっ!」
爺さんは突如、そんな奇声を放ったかと思うと、鞘から剣を一気に抜き放ち……欠片の躊躇いもなくその剣を使い、『自分の首を深々と切り裂いた』のだ。
「……は?」
俺は、その訳も分からない行動に、全く反応出来ない。
ただ俺に出来たのは……爺さんの首筋から真紅の血が吹き上がるのを、呆然と見つめることだけである。
──え?
──ちょ、っと、待て?
そうして、一秒ほど真紅の噴水が地を汚したかと思うと……血液が足りなくなって意識がなくなったのか、それとも失血によって「立つ」ための筋力すら維持できなくなったのか。
漢という名の、剣を扱うためだけに鍛え上げられた爺さんの肉体は、ゆっくりと前へと倒れ込み……そのまま動かなくなってしまう。
「……何が、起こった?」
そうなってもまだ俺は……ただそんな言葉を呟くことしか出来ない。
……だって、そうだろう?
彼我の戦闘力差に気付かない馬鹿ならば兎も角……それを理解して、勝てない相手だと悟ったなら、逃げれば良いのだ。
命を懸けて戦うってのは格好良いかもしれないが……死ぬために戦うってのは愚の骨頂だろう?
まして……勝てないと分かったからって、その場で自刃して果てるなど。
──理解、出来ない。
──あの爺さんは、何がしたかったんだ?
思いもよらぬ決着を見せたその戦いに……俺はただ呆然と横たわる死体を見つめながら、立ち尽くすことしか出来なかったのだった。