肆・第二章 第四話
「……くっ」
車ほどの速度で身体が後ろへ持って行かれる感覚に、俺は思わず歯噛みする。
──油断、したっ!
あの聖樹の上で何度も経験していたのに……俺の膂力に「武器が耐えられない」なんて簡単なことを予測出来なかったとは……
……普通なら、死んでいる失態である。
まぁ、実際のところ、この凄まじい巨体のヘラジカが放った渾身の一撃すらも俺の持つ破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能を超えることは出来ず……俺が被ったのは「ちょっとした衝撃」と、「身体を後ろに持って行かれる気持ち悪さ」程度のダメージだったのだが。
──く、そっ。
後ろへ身体が持って行かれる……遊園地のバイキングとかに乗ったらこんな感じだろう気持ち悪さに、俺は歯を食いしばりながら、手を前に伸ばす。
……この、イラつくヘラジカの頭蓋を握り潰すつもりで。
だけど……生憎と、コイツの角は思った以上に長く、俺の手は届かない。
──ちぃっ!
──どう殺せば……
そうして手が届かない事実に、俺が一瞬だけ悩み、手を止めてしまう。
そんな俺の躊躇を意に介した様子もなく、ヘラジカはニンジンをぶら下げられた馬のように、角に引っかかった俺を角で貫こうと、前へ前へと走り続ける。
──いい気に、なりやがってっ!
──止まった時に、その顔面を潰してやるっ!
現状では腕が届かない事実を認めた俺が、眼前のヘラジカが足を止めた後、「どうやって屠殺するか」を今、そう決めた。
……その瞬間、だった。
「ダメっ!
布っ!」
……背後から、そんな声が聞こえてきたのだ。
「~~~なっ?」
考えてみれば……このヘラジカは、車とほぼ同じ程度で走っていた。
つまり、現代日本で子供が車に撥ねられるくらいの確率で、この世界の子供も撥ね飛ばす確率がある、ということで。
背後から聞こえた叫び声に振り返ってみれば、俺の家で保護していた餓鬼の一人……まだ五歳くらいの、農作業すら出来ない子供が、このヘラジカの進路の上で呆けたようにこちらを向いている。
その近くにいる鈴は……その子供へと駆け寄ろうとしているものの、彼我の速度から考えて、間に合うとは思えない。
──や、めっ……
それに気づいた俺は、慌ててヘラジカの突進を止めようと力を込めるものの……身体ごと持ち上げられている俺に、何かが出来る筈もない。
「ぁっ?」
ヘラジカの進路上にいた小さな子供が上げたのは、そんな小さな声だった。
……そんな、声しか、上げられなかったのだろう。
気付いた時には、俺を運んでいたヘラジカの蹄は、小さな子供をあっさりと跳ね飛ばし……地面に叩きつけられた子供の首は、明らかに、おかしな方向を、向いていた。
「……ぁ」
その事実に気付いたのだろう。
子供へと駆け寄ろうとしていた鈴が、その死体を前にして、へたり込んだのを……俺は、視界の端に捉えていた。
──死ん、だ。
頭蓋が粉砕されて脳みそが出ている訳でもない。
腹腔が破れて臓器が噴出している訳でもない。
ましてや身体が二つにちぎれた訳でも、首がちょん切れた訳でもないのに……何故か、俺はその事実を確信していた。
……そして。
──何で、だよ、畜生っ!
子供が死んだ事実に……俺は、何故か、脳髄が燃え上がり、腹の奥が煮えたぎるような感覚を味わっていた。
とは言え……別にあの死んだ子供のことを、俺は大事に思っていた訳じゃない。
そもそも、餓鬼の一人一人なんざ、名前すら覚えていなかった。
だからあの餓鬼が、俺の寝床を汚した餓鬼かどうかすら分からないし、そんな無力な雑魚が死んだところで、俺が何か困る訳でもない。
……ない、のは、分かる、が。
「てめぇええええええええええええええっ!」
何故か、俺は無力な子供が死ぬ……その事実が、許せなかったのだ。
「うぉおおおおおおおおおおおおおおっ!」
怒りの理由すら分からないままに、俺は自分を突き刺している……俺の身体を前へ前へと運んでいるヘラジカの角へと右手を伸ばすと……
ただ心の赴く前に吠えると、渾身の握力を込めて、その角を……人体をあっさり貫く、剣のように鈍く光るその角を、力任せに、握り潰す。
「キィイィイイイイイイイイイイイイッ!」
己の最大の武器である角がへし折られたことが信じられなったのだろうか?
俺が角を握り潰した途端、そのヘラジカは足を止め、俺を振り払う。
「うぉっ?」
さっきまでは、自動車並の速度から突き落とされるのが怖くて、ヘラジカが足を止めるまで待つつもりで、「こう」しなかったのだが……生憎と今の俺は、怒っている。
走行中の車から飛び降りる程度の恐怖など……意に介さない程度には。
「っとと」
振り払われた俺は、危なげなく……とは言えないものの、地面に叩きつけられて一回転した後、何とかその場に踏みとどまり……多少ふらつく身体を無理やり起こすと、真正面のヘラジカを睨み付ける。
角を一本失ったその巨大な生き物は……俺との力の差を感じているだろうに、それでもこちらを睨み付けていた。
自分より強い相手を見ても逃げ出さないところを見ると、野生の動物ではなく……戦いに特化して調教された、戦闘用生物なのだろう。
そもそも鳴き声からして、どうも鹿というより猿の一種っぽい訳で……まぁ、俺は根本的にヘラジカの鳴き声なんて知らない上に、眼前の生き物はヘラジカっぽいとは言え、鱗なんか生えているのだ。
地球のヘラジカとは微妙に違う生き物なのだろう。
まぁ、正直なところ……この生き物が何であれ、関係はない。
……どうせ、もうすぐに死ぬのだから。
「さぁ、かかってこいよ、雑魚」
角を失ったにもかかわらず、殺意を向けてくる戦闘用生物に向けて、俺はそう挑発して見せる。
言葉は通じなくとも……俺が挑発しているのは分かったらしい。
そのヘラジカみたいな生き物は、残る一本の角で俺を貫こうと、まっすぐに突っ込んできやがった。
……だけど。
今の俺は、その突進が来るのを、待ち構えているのだ。
──馬鹿の、一つ覚えがっ!
俺は内心で動物の浅知恵を嘲笑うと……突っ込んでくる角に向けて、右手を突き出す。
……少し強めに権能を込めて。
それだけで、人体をあっさりと貫くだろう、その戦闘用ヘラジカの角は、右手のひらの皮膚一枚すら傷つけることなく火花を散らし……
乗用車よりも威力があるだろうその突進は、俺の右手一本で食い止められていた。
その事実を目の当たりにしたヘラジカの瞳が恐怖で濁った、ような、気がした。
……どっかの動物博士じゃあるまいし、鹿の感情なんざ、俺に分かる訳もないが、まぁ、この辺りはその場の勢いというヤツだ。
「こん、畜生がぁああああああっ!」
そうしてヘラジカに絶望的な力を見せつけた俺だったが……それで餓鬼一人を殺された気が収まる訳もない。
ただ湧き上がってくる激情のままに、ヘラジカの角を右手で掴むと……そのまま、膂力任せにその巨体を持ち上げ……
直下に叩きつけるっ!
──っと。
そうして叩きつける瞬間に気付いたのだが……どうやらこの辺り一帯は、俺たちが世話していた畑だったらしく、穂を付けた植物が周囲一面に広がっていた。
が、怒りに脳髄まで茹っている今の俺は、そんな些細なことなど、意に介す筈もない。
地面に叩きつけられ動きが止まったヘラジカ目がけ、ただ激情の赴くままに蹴りを叩き込む。
──喰らい、やがれっ!
ボキッという木の枝をへし折ったような感触が足に伝わると同時に、ヘラジカが凄まじい悲鳴を上げる。
どうやら、俺の蹴り一撃で、足の骨がへし折れたらしい。
それでも戦闘生物の矜持があるのか、三本しか残っていない足で立ち上がり、俺を睨み付けてくる。
……だけど。
──無駄な抵抗をっ!
頭に血が上っている今の俺にとって、ソレは……ただ標的が縦に長くなっただけに過ぎなかった。
「ははっ!」
俺は起き上がるだけで精いっぱいらしきヘラジカの方へと走ると、身を守るために突き出されたその角を左手で掴み……軽々とへし折る。
角がなくなったことで抵抗の手段を失ったヘラジカは……突如として、その口を開くと、俺の首筋目がけて喰らいついてきやがった。
その歯は肉食恐竜の如く尖っていて、この生き物が本当に鹿の形をしているだけの別の生き物だと思い知らせてくれる。
「はははっ!」
尤も……久々に権能を少し多めに使っている俺にとっては、そんな牙など、赤子が甘噛みした程度の感触すらも感じない。
そのまま、首筋に喰らいついた顎を右手で掴むと……少しだけ力を込めて、その顎を『捻ってやる』。
戦闘用生物とは言え、所詮は生き物に過ぎず……肉を骨ごと喰らうようなその強靭な顎は、俺の一捻りであっさりと砕けてしまい、顎が千切れて噴き出た血液が俺の身体を真っ赤に染める。
その獣臭を混ぜた鉄錆びの臭いに眉を顰めつつも、俺は笑う。
「さぁて。
解体、開始だ」
その言葉は、ヘラジカにとっての、地獄の始まりだった。
顎をもぎ取られた激痛でじたばたと暴れるだけの、抵抗の術を失ったヘラジカの首を足で抑えると、俺はその鱗の生えた皮膚を掴み……
力任せに、引きちぎる。
「ギィイイイイイイイイイイイイイイイィィッ」
生きたまま皮膚を剥ぎ取られる激痛にヘラジカはじたばたと暴れるものの……俺は十倍以上も体重差のありそうなその巨体を、左足一本で軽く押さえつけていた。
「……こんな、雑魚に、俺は、苦戦した、ってのか」
歯を食いしばった俺の口から、知らず知らずの内に、そんな呟きが零れ出る。
……そう。
今、俺は、反省をしていた。
あの時……堅が格好良く戦う姿を見て、俺の真似してみようと慣れぬ矛を振り回した、自分の判断を。
もし、あの時、素手でこのヘラジカを食い止めていれば……
──あの餓鬼は、死なずに済んだってのにっ!
その後悔が、俺の攻撃的な衝動を加速しているのだろう。
俺は、足の下でもがくヘラジカの脇腹辺りへと、右手を突っ込むと……そのまま、あばら骨を掴み、もぎ取る。
流石にダメージが大きくなり過ぎたのだろう。
ヘラジカは足の下で暴れる体力もなくなったらしく、びくんびくんとただ痙攣を繰り返すことしかしなくなっていた。
……どうやら、もう報復を楽しめないらしい。
「……俺に逆らったのを悔やみながら、死にやがれ」
あっさりと暴れなくなったヘラジカに見切りをつけた俺は、動きを封じていた左足にゆっくりと力を込める。
「ギィイイイイイイィィィ……」
ヘラジカの抵抗はほぼ存在しなかった。
ゆっくりと気管が潰れていく感触に、その戦闘用動物は最期の力を振り絞ってか、ジタバタと暴れ続けたものの……今さら俺とこの生物の戦力差が覆る訳もない。
せめてもの抵抗なのか、それとも断末魔の叫びなのか……ヘラジカは耳障りな悲鳴を上げたものの、それ以上は何も出来なかったらしく、その鱗に覆われた頑強な咽喉はあっさりと潰れ……
直後、俺の数倍もありそうなその巨体が数度痙攣したかと思うと……あっさりと動かなくなってしまった。
──畜生。
そうして動かなくなったヘラジカの死体を見下ろしながらも俺は、こみ上げてくる苛立たしさに舌打ちを隠せない。
実際、この生き物を殺したところで、何も解決しないのだ。
跳ね飛ばされて死んだ餓鬼は、死んだままであり……奇跡が起こって生き返る筈もなく。
そして……この雑魚を潰すのに暴れまわった所為だろう。
周囲の畑は足跡や獣の身体によって広範囲に渡って掘り返され、赤茶色の穂を実らせた作物は踏み蹴飛ばされて倒れまくっている。
勿論、俺たちが育てていた畑の一割にも満たない面積でしかない。
それでも、頑張って育てていた労力が無駄になったかと思うと、さっきまで激昂していたのは、一体何だったかと……酷く虚しくなってくる。
「……あれ?」
そうして周囲を見渡し、ふと気付く。
確かこの畑は、今朝までは緑色の穂が生っていて……この畑の『異常な成長速度』を加味しても、収穫まではまだ数日はかかると思われた、筈である。
なのに今は……もう、穂が熟し、色づいている。
──何故、だ?
俺はその疑問に首を傾げるものの……答えなんて一つしかない。
先日までの数日間と、今日のここ数時間で、一体何の差があるか、なんて……「俺が権能を解き放った」以外には考えられないのだ。
──すると、コレが……
あの腐敗した世界の神……聖樹の根本で引きこもっていたラーフェリリィの権能に違いない。
確かあの女神は「根元に引きこもった結果、聖樹があんなに育ってしまった」と言っていた覚えがある。
つまり、ラーフェリリィの権能は、植物の成長を増幅させる……『豊穣』の権能と言うべき代物だと思われる。
蚊と疫病を操っていた腐神ンヴェルトゥーサの権能をどう解釈しても『豊穣』はあり得ない以上……この状況は、ほぼラーフェリリィの権能とみて間違いないだろう。
そして、俺がさっきの戦闘で権能を解き放った結果……身体から漏れ出た権能の『余波』によって、その『豊穣』の権能も一緒に漏れ出てしまい、周囲の畑が異様な速度で育ってしまったと推測される。
──コレ……初めて、使える権能が手に入ったんじゃないか?
俺はその事実を感慨深く噛みしめながら……手のひらをじっと見つめてみる。
事実、この権能がもう少し早く手に入っていれば、塩の世界も砂の世界も……もしかしたらあの腐泥の世界だって、救えたかもしれないのだ。
何しろどの世界も困窮していたのは……水と食料という、人間が生きていく上で絶対に欠かすことの出来ないモノだったのだから。
「皇っ!
これは、もしかして……」
「ああ。
仇は、取っ……」
戦闘が終わったのを何となく感じ取ったのだろう。
鈴を始めとする子供たちが俺に駆け寄ってくるのを見つけた俺は、静かに目を閉じながら、俺のミスで命を落としてしまった子供へと黙祷を捧げつつ、そう呟いた。
……いや、そう呟こうとした。
「は、早くかいたいしないとっ!
血ぬきは……できてます、ね」
「にくだ、にくっ!
でけぇええええええええっ!」
「すっげぇっ!
ごちそう、たべほうだいっ!」
だけど、子供たちは友達の死を嘆く訳でもなく……ただ眼前に横たわったヘラジカの死体を、食料だと喜びの声を上げ始めたのだ。
その反応を予想していなかった俺は、驚いて上擦った声で、この中の年長者である鈴へと尋ねていた。
「な、なぁ、おい。
あの……子供、は?」
「ああ、布のことですか?
くびがおれて、しにましたよ?」
俺の問いに返ってきたのは、鈴の……何の感情も伺わせない、そんな声だった。
家から持ってきたのだろう、包丁らしき刃物を手に持ち、ヘラジカの死体へと向かいながらのその声に……俺は、思わず声を荒げていた。
「お前っ!
幾らなんでも、それはっ!」
「え?
……だって。
しんでしまったんだから、なにをしても仕方ないじゃないですか」
ヘラジカの亡骸を解体し始め、両の手を真っ赤に染めながら……俺の方へ振り向くこともなく放たれた鈴の声は、やはり何の感情も伺わせないものだった。
それは、彼女にとっての「友達の死」というものが、別に悲しみを引きずるほどのものでもない……ありふれた出来事でしかない証拠、だろう。
死んだ一時は悲しみはすれど、それほど拘るほどのものでもない……恐らくソレは、言うならば「数日飼っていた金魚が死んでしまった」ような感覚だと思われる。
──何なんだよ、それは……
俺は鈴と同じように、同じ境遇だった子供の死を悼みもせず、眼前の肉を喜ぶばかりの子供たちを見て……思わず内心でそう嘆息する。
「どうやったら……」
「はい?」
「……いや」
思わず呟いた一言を聞き返してきた、返り血まみれの鈴に首を振って返しながら、俺は再び思索へと入る。
──どうやったら、この子供たちを救えるのだろう?
……そんな、数多の世界で破壊と殺戮しかして来なかった俺としては「柄にもない」と自分でも分かる思索へと。