肆・第一章 第三話
「……馬鹿、な」
俺が痛みに悲鳴を上げ、蹲りながら必死に左耳を押さえている頃。
俺に大刀を叩きつけた犯人……この国の王と呼ばれていた巨漢の口からは、そんな呟きが零れ落ちていた。
……それも、その筈だろう。
あらゆる敵を屠ってきたと思われるその巨大な鋼鉄の塊は、俺の左耳との衝突に敗北し……あっさりと砕け散ってしまっていたのだから。
「貴様は、一体、何者だ?
我が必殺の斬撃を……あれほど無防備に喰らって、ただで済む人間など、いる筈が……」
「馬鹿かっ!
ただで済んでねぇっ!
思いっきり痛かったわっ!」
己の正気を疑うかのように呟いた巨漢に向けて、俺は涙目で叫びを返す。
尤も、俺自身はそう叫んだのだが……左耳を触った自分の手を見ても、血の一滴すら見つけられない。
つまり、思いっきり痛かったとは言え……巨漢の斬撃を喰らったところで、俺は耳の薄い皮膚一枚が破けるほどのダメージすらも被ってないらしい。
それでも耳は強打されて腫れたのか熱っぽくなっているし……感覚で言えば、小学校の頃、物差しでちゃんばらしている最中に、耳を強打された感じが一番近いだろうか?
尤もあの時は、俺自身がそいつらとちゃんばらしていた訳じゃなく……椅子にぽつんと一人きりで座っていたところを、クラスメイトのちゃんばらに巻き込まれてしまっただけなんだが。
──嫌なこと、思い出した。
痛みに蹲っていた俺は、人様の嫌な過去を思い出させてくれた眼前のクズに対する怒りを燃やし、痛みを意識から遠ざけることで、ようやく立ち上がることに成功した。
とは言え、流石の俺も……自分の中で燃え盛るこの怒りが、八つ当たりでしかないことは、十分に理解してはいた。
……いや、正確には「痛みを意識から遠ざけるために、八つ当たりめいた怒りを強引に正当化している」のを理解しているのが正解か。
兎も角俺は、脳内で分泌されたアドレナリンのお蔭で耳の痛みから立ち直ると、静かに折れた大刀を呆然と眺めている巨漢に視線を向け……ゆっくりと口を開く。
「……ま、武器も壊れたし、てめぇの抵抗もここまでだろう?
さっさと餌になってしまえ」
俺の声が合図になったのだろう。
周囲で餌を……さっきまで筋骨隆々の身体を見せびらかし、自信満々に立っていた武人たちを食い散らかした蟲たちが、ゆっくりと鎌首をもたげ始めた。
──とっとと、くたばれ。
──偉そうな、筋肉達磨がっ!
正直に俺の内心を告白すると……久々に痛い思いをさせてくれた、あの巨漢にお礼参りをしてやりたい気持ちでいっぱいである。
だけど。
──面倒くさそうなんだよな、あのマッチョ。
……そう。
俺は今まで三つの世界を渡り歩いた経験から学んでいたのだ。
例え破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能をもってしても、「達人」と呼ばれる連中を倒すには、結構な手間暇を必要とすることを。
どうも連中は人間を超越した反射神経と技術で、人間を軽く薙ぎ払う俺の膂力を往なし、人間を一撃で肉塊へと変える俺の一撃を逸らしてしまうのだ。
その所為で、俺は今まで延々と「達人」たちに苦戦を強いられてしまってきた。
である以上……そんな連中とまっとうに戦う必要など、ありはしない。
「かかれっ!」
俺は周囲に群がってきた、顎を真っ赤に染めた十匹余りの蟲どもへと指令を下す。
要は、「達人」という人種を相手にするならば、殺されても痛くない自分の手駒……つまりが、さっき召喚した蟲たちに相手をしてもらえば良いのだ。
自分が傷つかず、相手を一方的に殲滅する。
……それこそが、戦いの真理だろう。
──まぁ、正直なところ、このマッチョ相手に『手間をかける必要がない』だけなんだけどな。
今までの戦いでも、俺は別に達人と戦いたくて戦った訳じゃない。
あくまでも行きがかり上、相手に力を見せつけることで口説きたかったり、相手のモテ具合が気に入らなかったり、相手の侵攻を阻止したり……仕方なく戦闘を行う羽目になっただけだ。
そして今……俺は別にこの筋肉達磨に認められたい訳じゃない。
むしろ、徹底的に相手の矜持を叩き潰し、俺を人間扱いしなかったその報いを思い知らせてやりたいだけ、である。
である以上……俺がコイツの処分という面倒な『作業』を、蟲に任せたのは当然ともいえるだろう。
「舐め、る、なぁあああああああああああっ!」
だけど……敵もさる者だった。
王であるという矜持か、それともただの生存本能か。
巨漢はそう叫びながら、折れた大刀を振り回し、一瞬にして五匹の蟲へと致命傷を叩きこんだのだ。
とは言え流石に歴戦の戦士でも、武器が壊れている以上、そのスペックを最大限に発揮することは叶わなかったらしい。
残り六匹の蟲に三度ほど斬撃を叩きつけたところで、ついに一匹の蟲がその右腕に食らいついた。
「ぐ、ぐがぁあああああああああああっ!」
『血風』と呼ばれていた男はその名の通り、腕を喰いちぎられてもなお、血を周辺にまき散らし、抵抗を続けていたが……
そんな状況で無茶が続く訳もない。
もう二匹ほどの蟲を屠ったところで、右脛と左太腿を蟲に喰いちぎられ……ようやく手に持った大刀を振るうことすら叶わなくなってしまう。
「く、くそ、無念、だ。
こんな、ところで、我が夢が……
全大陸制覇の、我が、野望が……」
右腕どころか両足までもを失ったならば、歴戦を潜り抜けたこの筋肉達磨でさえも、戦闘を続ける意思を失ってしまうらしい。
自身の血と蟲の体液でグチャグチャになった『血風』という名の巨漢は、ついに敗北を認めたらしく、その手から力を抜き……ようやく大刀の柄を手放す。
「だが……戦いの中で、強者により敗れるのは、戦士の宿命。
頼む、異界の強き戦士よ。
武人としての、最後の、頼みだ。
儂に……貴様の、名を、教えて、くれまいか」
それでも……この脳筋マッチョはどこまでも筋肉主体でしか物事を考えられないらしい。
最後の最後まで、どっかの時代劇みたいな、そんな問いを放ってきたのだ。
そのあまりにもベタな問いの所為だろう。
餌を目の前にしている筈の蟲たちも、俺の反応を伺うかのように、こちらへと頭を向け、「待て」の命令を受けた犬のような体勢で、固まってしまっていた。
……だけど。
──知ったことじゃないんだよな。
俺は静かに手を挙げると……静かに親指を下に突き降ろす。
ローマの剣闘士が由来とされる有名なジェスチャー……即ち『殺せ』だ。
「き、貴様ぁああああああああっ!
それでもっ!
それがっ! 武人のっ!
やることかぁああああああああっ!」
「黙れ、餌如きが吠えるな。
最初に俺を人間扱いしなかったのは、てめぇの方だ。
自業自得だよ。
……人間として死ねるなんて、甘い期待は捨てるんだな……餌」
その俺の言葉が合図になったのだろう。
所謂「お預け」を喰らったままの蟲たちは、一斉に『餌』へと群がり……ゆっくりとその筋肉の塊を咀嚼していく。
「ぐぎゃぁああああああああああっ!
あっ、あぁっ?
あがぁああああああああああああああああああああああああああああっ」
どれだけの修羅場をくぐろうと、どれだけの人数を殺していようとも、どれだけ胆力を誇ろうとも……己の肉体を徐々に喰らわれていく激痛と恐怖には耐えられないのだろう。
その『餌』は激痛と恐怖に涙を流し、口から血と悲鳴を吐き散らし続ける。
「……ったく、くだらねぇ」
王と呼ばれた男の絶叫を聞き流しつつ、その『王の残骸になりかけた肉塊』に背を向けながら、俺はそう吐き捨てる。
──他人を人間扱いしようとしないヤツに限って、自分が人間扱いされなかったら怒るんだからな。
……そう。
本当に、下らない話なのだ。
今までいくつもの世界を見て、悟った一つの真理とも言える、本当に下らない事実なのだが……
基本的に人間という生き物は『自分がされて嫌なことを、だからこそ相手に押し付けようとする』傾向にある。
死にたくないから殺す。
餓えたくないから、食料を奪って相手を餓えさせる。
渇きたくないから、相手の水を奪う。
勿論、数多の世界で俺が見てきた人たちは、そんな……反吐が出るほど下らない生き方しか出来ないような、どうしようもない連中ばかりでもない。
自分の身よりも一族を、自分よりも子供たちを、自分よりも国のみんなを、自分よりも妹を……
そういう……俺がどう頑張っても到達どころか直視することすら叶わないほど、目映い生き方をしている人たちがいたのも事実である。
尤も、そういう一部の人たちの綺麗な生き方を、他の有象無象が汚しているばかりなのが現実でもあるのだが。
──ま、どうでも良いか。
取りあえず初志を思い出してみると……俺がこの世界に来たのは、ハーレムを築くためだった。
何と言うか、元の世界では銃弾火薬の舞い散る中、突然こちらの世界へと飛び込んだ上に……こっちはこっちで呼び出されていきなり奴隷扱いである。
戦奴とやらのあまりの待遇の悪さに、つい蟲を呼び出して食い散らかしてしまったが……まぁ、まだこの世界での冒険は始まったばかりなのだ。
まだ、初志を貫くための……リカバリは利くだろう、多分。
「っと」
そうしている内に、『餌』を食い終えたのだろう。
蟲たちが新たなる獲物を求めて、俺の横を通り過ぎ、部屋の外へと飛び出していく。
「なぁあああああ、何だぁああああああっ?」
「ば、化け、化けものぉおおおおおおおおっ!
何処から湧いてきやがったぁあああああ?」
「くそっ!
応戦しろぉおおおっ!
敵は少数だぁああっ!」
部屋から出てしばらく進んだ廊下では、そんな悲鳴が聞こえてきて……どうやら蟲たちは思うが儘に暴れまわっているらしい。
とは言え……蟲たちも先ほどの『血風』という巨漢との戦いで、満身創痍の有様だった筈だ。
──途中で力尽きるだろうな、ありゃ。
俺の脳内へ突如そんな『確信』が降りてきたところで、俺は眷属への興味を失うと、さっさと踵を返し……悲鳴と怒号が上がっている場所とは別の方向へと歩き出す。
「っと、このままじゃ流石に目立つな」
周囲に散らばっている死体と、自分の服装を見比べた俺は、静かにそう呟いていた。
今は騒動のお蔭で周囲に人がいなくなっているとは言え、焼け焦げてボロボロになった、現代日本の服装でうろついては……流石に目立ちすぎるだろう。
この世界の人間は、どうやら黄色人種っぽく……今までの世界とは違って、俺が混じってもあまり目立ちそうにない。
だったら……その利点は最大限に生かす必要があるだろう。
「……これが、一番マシ、か」
俺は周囲に転がっている死体を見まわし……自分に体格の似た、比較的綺麗な衣服を探す。
蟲たちがかなり元気に暴れまわってくれたお蔭か、どの死体もかなり痛みが激しく……唯一着れそうなこの男の貫頭衣でさえも、ずいぶんと血に汚れてしまっていたが。
──南無阿弥陀仏っと。
死体から服を剥ぎ取るという、今まではあまりやらなかった『死体を冒涜する行為』に、俺は思わず頭の中で念仏を唱えていた。
すると、念仏を唱えたお蔭か、何となく許された気がして……俺は特に忌避を感じることもなく、転がっている死体から貫頭衣を奪い取ることに成功する。
逃げるところを背後から後頭部を喰いちぎられたらしきソイツの貫頭衣は、背中の辺りが血と脳漿に汚れ、ついでに恐怖のためか、それとも死んだ直後に弛緩したのか、股間は尿で汚れていたのだが……まぁ、破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能は、その程度の汚れでも『ただの塩』へと変えることが出来る。
「それでも、何か臭う気はするんだが……うぐっ」
俺は黒焦げた自分の服をその辺りに脱ぎ散らかすと、その布の臭いを数度ほど嗅ぎ……やはり漂ってきた変な臭いに眉をしかめながらも、目を瞑って貫頭衣を文字通り頭から被る。
どうやらこの世界も、今まで辿ってきた三つの世界の例に倣って……あまり衛生状態は良くないらしい。
「あとは、靴、か」
ついでに、他の死体が履いていた、サイズがあって比較的自分のサイズにあった革製の靴を剥ぎ取り、自分のものとする。
めちゃくちゃ履き心地の悪く、なんとなく湿った感じの嫌な靴だったが……裸足よりはかなりマシだろう。
おまけに、その辺りに転がっていた、適当に錆びた、ちょっと歪んだ矛を手に取ると……現地人兵士の出来上がり、だった。
「さぁ、俺の異世界ライフはここから始まるよ、っと」
変装の終わった俺は、意味もなくそう呟いてみる。
……正直、四度目とは言え、異世界に来たことで、ちょっと浮かれていたのかもしれない。
何しろ……初めてだったのだ。
異世界で、本当の意味で自由になったのは。
──常に、何かに巻き込まれていたからなぁ。
塩の世界では、気付けばサーズ族とベリア族との闘争に巻き込まれ、最前線に立たされ続けていた。
砂の世界では、砂漠のど真ん中に放り込まれ、水と食料を求めて否応なしに巨島へ行くことになった。
泥の世界では、女の子を助けたら色々と戦いに巻き込まれ……である。
俺が本当の意味で『異世界を自由に観光する』ってのは、今回が初めてだったのだ。
「さて、と。
適当にその辺りの兵士に紛れてしまえ、ば……」
玉座のあった部屋から外へ出た俺は、そんなことを呟きながら、ふと窓の外へと目を向け……
眼前に広がる景色に、思わず絶句してしまう。
「……馬鹿、な」
目を擦り、首を振って自分の正気を確かめ、直後にもう一度眼前の景色を見た俺の口から、そんな呟きが零れ落ちたのも……無理はないだろう。
何しろ……俺が今立っているこの城は、一面を覆う雲の上に存在してるようにしか見えず……
「おいおいおい。
……冗談じゃないぞ、おい」
そして……俺の真正面にある雲の海の向こう側には、同じように雲の上に浮かんだ巨大な黒い城が、ゆっくりと確実にこちらへと近づいて来ていたのだから。