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【完結済】ンディアナガル殲記  作者: 馬頭鬼
参・第八章 ~疫殺の朽腐林~
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参・第八章 第四話



 その突如現れた老婆は……いや、別に俺は、その人物を見て老婆と判断した訳じゃない。

 声が……しわがれて掠れた声が、それでも妙に甲高く「恐らくは老婆なのだろう」と判断しただけに過ぎない。

 と言うよりも、それ以外にその人物の性別を判断する術なんてなかったのだ。

 フードに覆われた顔は、腐泥に覆われているかのように腐れ果てて蛆が湧き、ボロ布の隙間から出た手は枯れ木のように細く、ところどころの肉が腐れ落ちて骨が見えている始末である。

 身体に関してはボロ布に覆われて見えないものの……性別を確かめる術なんてないのは、言うまでもないだろう。

 その挙句、老婆は身体に蚊をまとわりつかせていて、見るだけで不快感が湧き上がってくるのを止められない……ソイツは、そんな存在だった。

 その不快な人影が近づいてくることに耐えられなくなった俺は、眉を顰めると……

 

「誰だ、てめぇ、は……」


「くくく。

 名前など尋ねられるなど……いつぶりかのぉ」


 救うべき者たちをまた全て失った俺の、殺意混じりのその問いを浴びたというのに……その老婆は掠れた声で哂い始める。

 そうしてしばらく笑い続け……いい加減に苛立った俺が拳を握りしめたところで、老婆はようやく口を開いた。


「儂の名は……既に、なくしておる。

 今は、腐神ンヴェルトゥーサと呼ばれている、と言えば分かるかのぉ」


「……てめぇ、が」


 老婆の……いや、腐神ンヴェルトゥーサの答えに、俺は歯を食いしばる。


 ──コイツが……


 コイツが、この世界を腐らせた、元凶。

 この世界の、諸悪の根源。

 そして……『腐泥』の毒によってべリス=ベルグスを。

 ……『聖樹の民』も『泥人』をも全て殺し尽くした、張本人。

 思い返してみれば、確かにあの巨大な蚊を「腐神の使徒」と誰かが呼んでいた、ような。


「ふん。しらばっくれおってからに。

 ……気付いていたのじゃろう?

 お主からの殺気が幾度となく、腐泥に潜んで負った儂へと突きつけられていたからのぉ」


「……知るか。

 てめぇの声は、不快だ、黙れ」


 老婆の不快な声を、俺は一蹴する。

 大体が、腐神の告げた言葉なんて、全くの的外れなのだ。

 俺はこの腐神ンヴェルトゥーサの存在なんて、全く関知すらして……


 ──待て?


 こうして眼前に立てば……コレが俺の『同類』だと、明らかに分かる。

 ……いや。

 あの砂漠で相対した蟲皇よりも、コイツは凄まじい威圧感を放っている。

 こんなのがもし腐泥の中に潜んでいたとしたら……数キロ先でも分かるだろう、というレベルの気配を放っているのだ。

 なのに、俺は……腐泥に潜んでいたというコイツを、今の今まで気が付かなかった。


 ──何故、だ?


 そうして、思索にはまり込み黙り込んだ俺に笑いかけながら、腐神は無警戒に俺へと近づいてくる。


「実のところ、お主が敵に回るとなると、厳しいかとは思っておったのじゃ。

 儂の使徒を容易く屠るお主は、正直、儂にとって唯一の脅威じゃった。

 じゃが、杞憂であったの。

 お主は我が使徒を防いでおった『聖樹』を切り倒し、儂があの糞共を滅ぼす手助けをしてくれたのじゃからな」


「……違、う」


 愉しげな老婆の言葉を……俺は首を横に振って否定する。

 だけど、その動きが酷く精彩を欠いていることなど、自分でも分かる。

 ……分かってしまう。

 この老婆の言葉は……「結果だけを見れば」紛れもない真実なのだと、俺自身が気付いていたのだから。


「これで、あの腐って当然の糞共は滅んだ。

 本当に、お主には感謝しているのじゃよ、儂は。

 ふひゃひゃひゃひゃっ。

 まぁ、尤も……もう数十年ほど、苦しめてやっても良かったと思うがのぉ。

 ふひひひひひひひ」


 俺にそう答えると……老婆は堪え切れなくなったかのように屈み、肩を震わせて笑い始めた。

 そのまま……心の底から出たと分かる、本当に楽しそうな笑い声を放ち続ける。

 狂ったような笑い声を上げ続ける老婆の視線を辿ると……彼女の視線は周囲に転がっている、四肢の捻じ曲がった死体や、苦悶と憎悪の表情を浮かべた死体へと向けられていて……

 腐神の化身であるこの老婆は、苦悶と憎悪に満ちた最期を迎えた、それらの死体を嘲笑っていたのだと分かってしまう。


「……いかれて、やがる。

 アイツらに……何の、恨みが、あったってんだ?」

 

 その老婆の常軌を逸した行動を見た俺の口からは……自然とそんな呟きが零れ出ていた。

 そんな俺の問いが耳に入ったのだろう。

 腐神ンヴェルトゥーサは急に笑いを止めると……焦点の合わない濁った瞳で、俺を睨みつける。


「……恨み?

 ああ、あの腐った糞共になど、恨みしかないわっ!

 何が『聖樹の民』じゃっ!

 何が『泥人』じゃ、あの糞共がっ!」


 老婆はそう吐き捨てる。

 ……顔を覆っていたボロ布を脱ぎ捨て、狂ったように身体中で怒りを表現しながら。

 そのボロ布の下から出て来たのは……髑髏に腐った肉がくっついた程度の、生きているとは思えない、ただの腐乱死体だった。

 生きているのが不思議なほどだが……恐らくは腐神ンヴェルトゥーサの権能によって、死ぬのを防いでいるのだろう。


「世界を腐泥が覆い尽くし始めた途端、我ら堕修羅の住んでおった『聖樹ラーフェリリィ』を侵略し始めおってっ!

 天へと続く『聖樹』は我ら堕修羅の棲み処、それ以外は『大地の民』として不干渉とする……そんな取り決めを嘲笑うかのように、なっ!

 その挙句……我が父を、友人を、仲間を全て惨殺し、母と儂と妹を嬲り辱め穢した恨みは、未だに消えておらぬわっ!」


「それは……」


「そればかりかっ!

 犯され続け、ついに発狂した妹を笑いながら嬲り殺しっ!

 怒り狂った母を切り刻みっ!

 犯され続けた所為で病にかかり、身体が膿み始めたこの儂を、腐泥の中に捨てた……あの糞共を、許せる訳がなかろうっ!」


 怒りと憎しみに満ちたその老婆の叫びは、俺たち以外にはもう誰もいなくなったこの世界に響き渡る。

 腐神と名乗るこの狂人は、近くの死体を蹴り続けながら、言葉を続ける。


「幸い……儂は、腐泥の中で腐れ果てる寸前に、ンヴェルトゥーサを継ぐことが出来た。

 だから……百年もかけて、ゆっくり苦しめてやったのじゃ。

 じわじわと、一匹ずつ殺し、追いやり、獲物を奪い、水を腐らせ……共に殺し合うように仲違いさせ、死体を辱めさえ、腐りながら滅ぼすように。

 こうして穢れた儂よりも、まだ遥かに腐った糞共に相応しく……腐った泥の中で苦しみながら死ぬように、なぁっ!」


 狂ったように笑う老婆の言葉通りなら……彼女が狂ったのも、まぁ、仕方ないのだろう。

 一族を皆殺しにされ、そのまま嬲り者になり、家族全てを失った挙句……死の直前へと叩き落とされたのだから。


 ──だが、言っていることは間違ってない、か。


 いつか、あの『仮面』の一族の、族長代理であったベーグ=ベルグスが言っていたではないか。

 ……「だからこそ・『弓』の一族は……いや、我々全ての祖先は・あの『聖樹』を奪おうと、『聖樹』を・棲み処としていた・堕修羅たちに・襲い掛かった」と。

 あの巨漢が告げた言葉との、整合性は取れている。

 つまり、この老婆はその生き残りで……だからこそこの世界に生きる全てを恨み、殺そうとしていたのだ。

 全ての『聖樹の民』や『泥人』……彼女の言葉を借りるなら『大地の民』とやらを、百年もかけて、じわじわと嬲り殺すように。


 ──待てよ?


「てめぇが、『腐泥』を生み出していたんじゃないのか?」


 不意に。

 そんな疑問が頭の片隅を過ぎった俺は……気付けばそう問いかけていた。

 怒りと憎しみで完全に狂っているとしか思えなかった老婆は……俺の問いを聞くや否や、すぐに我を取り戻したように、静かにその腐れ落ちて役に立たない唇を開く。


「腐泥を創り出したのは、初代……儂は、腐神ンヴェルトゥーサの三代目じゃよ。

 初代は、七十年をかけ、大地の民の小国を滅ぼしたところで憎しみを吐き出し尽くし……ようやく腐れ落ちた。

 その『腐泥』に触れて二代目となった者も、やはり二百三十年を費やして大地の民の領土を半分腐らせ、恨みを晴らすと腐れ落ちたと、このンヴェルトゥーサの記憶が語っておる」


 さっきまでの狂った形相と打って変わって、老婆は静かな口調でそう語る。


「どうやら、我らは恨みを晴らすとそう遠くない内に潰えるようじゃの。

 儂も……そう長くはないじゃろう。

 この腐れ果てた世界の全てを、我が憎しみの元凶を……百年もかけ、ようやく滅ぼし尽くしたのじゃからなっ!」


 顔の皮膚が腐れ落ち、腐った唇の間からは乱杭歯が見えるその老婆は……だけど、満面の笑顔と思われる笑みを浮かべ、確かにそう笑った。

 その壮絶な笑みを直視してしまった俺は、思わず一歩後ろへと下がり……すぐに、目を見開く。

 老婆の言葉を聞いて、一つ疑問が浮かび上がってきた所為だ。


 ──待てよ?

 ──なら、俺はどうだってんだ?


 俺とこの老婆が内に抱えている存在が……破壊と殺戮の神ンディアナガルと腐神ンヴェルトゥーサは、権能の種類こそ違えど、「同じ類の存在」だと、俺の中の確信が語っている。


 ──なのに、何故俺は滅びていない?


 死にたい訳じゃない。

 だが、老婆の言葉が正しいのであれば……俺は、死んでもおかしくないだろう。

 そもそも俺には未練なんて……いや、この汚い婆のように、全てを賭してでも滅ぼしたい相手なんて、いないのだから。


 ──最初は、帰りたいと思った。


 だからこそ、あの塩に埋もれた世界で、戦って戦って戦った。

 敵を殺し尽くし、味方までもを滅ぼし尽くした。

 とは言え……元の世界に帰り着いても、俺は死んでいないのだから、コレが俺の存在理由じゃないのは、間違いないだろう。

 

 ──次に、ハーレムを欲しいと願った。


 ……いや、正確には一発ヤりたい、だったか。

 あれから三つの世界を渡り歩き、幾人の女性と知り合う機会は出来たものの……それでも生憎と、女性と夜のお相手をするには至っていない。


 ──待て。

 ──待て待て待て。


 すると、もし、俺の推測が正しければ……

 いや、ただの推論にしか過ぎない。

 ……だけど。


「堕ちて来たお主の『恨み(のぞみ)』が何じゃったのかは知らぬが……

 この世界はこれで仕舞じゃ。

 じゃが、お主も奴らに恨みがあったのじゃろう?

 何せ……あの『聖樹ラーフェリリィ』を切り倒すほどじゃからの」


 そんな俺の思索を遮るように、老婆は笑う。

 笑いながらも、俺へとゆっくりと近づいてくる。

 ……同類故の、親近感でも湧いているのかもしれない。


「……違う。

 俺は、そんなことを、するために、この世界に来た訳では……」

 

 老婆が近づいてきた分だけ距離を取りながら、俺は首を左右に振る。

 単純にこの腐りかけた婆が見苦しくて気持ち悪かったこともあるが……それ以上に、俺は先ほど閃いた「自分が滅びる」恐怖が、俺の足を動かしたのだ。

 ……流石にコレを相手にすることはないにしろ、女性が死の原因となり得ると知ってしまえば、近寄るだけでも、正直、怖い。


「目的はどうあれ、お主があの汚らわしい糞共を滅ぼしたのじゃ。

 その腕に宿る権能が、この一面の塩を生み出したのじゃろう?

 その腕が、あの穢れた骸共を屠ったのじゃ。

 ……誇りに思うが良い。

 まぁ、儂としても、お主は堕ちて来た同胞じゃから……」


「違うっつーてんだろうがっ!

 俺に、触れるなっ!

 この……腐れ婆がっ!」


「……ふっ、ぺぎゃっ?」


 それ以上の言葉と、それ以上の接近を許す気になれなかった俺は、怒りと嫌悪感に任せて老婆の顔面を右拳で薙ぎ払う。

 同族である以上、そう大したダメージも与えられないだろうと思っていた俺の拳は、何故かその老婆の腐れ落ちかけている顔面を砕き、頭蓋骨をも砕き、周囲に血と脳漿と腐汁をまき散らし……


 ──あ?


 実のところ、自分の攻撃がここまで効くとは思っていなかった俺は、老婆の……腐神ンヴェルトゥーサのあっけない死に様に驚きを隠せない。

 ……いや。

 本当に俺が驚いたのは、その次の瞬間だった。


「ふ、ふははは。

 愚かな、小僧じゃ。

 この、儂を、敵に、回す、とはの」


 死んだ筈の老婆が……顔面を砕かれ、頭蓋骨を砕かれ、血と脳漿と腐汁と肉片と骨片をまき散らして確実に死んだ筈の老婆が。

 そう言葉を発すると、ゆっくりと起き上がって来たのだから。

 とは言え、その頭蓋は砕かれたままで……


「……な、ん、だと?」


「この程度のことも、出来ぬのかえ、小僧?

 その様で、よくもまぁ、儂に盾突こうと思ったものじゃ」


 驚きを隠せない俺の前で、砕け散った腐神の化身の顔面に、使徒である蚊が群がり始める。

 その蚊は腐泥となり、腐泥は骨となり肉となり脳となって……


「……馬鹿、な」


 ほんの数秒の間に、腐神ンヴェルトゥーサの化身は、元の腐れ果てた顔を復元させていた。

 そこまで再生できるのに何故その顔は腐ったままなのか……と、一瞬だけ疑問が頭を過るものの、恐らくは彼女がンヴェルトゥーサの化身となったその瞬間の様相を、腐神の権能が維持し続けているのかもしれない。

 破壊と殺戮の神ンディアナガルの化身たるこの俺の身体が、様々な攻撃を受け付けないように……この老婆の身体も、また別物の「不滅」の身体を持っているのだろう。


 ──すると、老婆じゃないのかも、な。


 今まではそのしわがれた声と、古めかしい口調、そして世界を滅ぼすのに百年をかけたという言葉から、この腐神の化身を老婆と判断していたが……もしかしたら、彼女の肉体は老いることなく若いまま、なのかもしれない。

 まぁ、実際のところ……眼前に立つ腐神ンヴェルトゥーサの顔は腐れ落ちて原型を留めていないので、それを確かめる術すらないのが実情なのだが。


「く、くくかかかかっ!

 愚かな小僧よの?

 腐った世界を滅ぼした素晴らしきこの日に、同胞と出会えたのじゃ。

 お主と共に穏やかな滅びを迎えようと思っておったのに。

 わざわざ、腐れ果てて死ぬのを選ぶつもりじゃとは、のぉ?」


 その再生能力に驚きを隠せない俺に向かい、老婆はそう笑う。

 笑いながらもンヴェルトゥーサは、自らの使徒である蚊を身体の周囲にまとわりつかせると……


「この世界と同じく、腐れ果てて滅びよ、小僧っ!」


 そんな叫びと同時に、右腕を小さく上げる。

 それを合図としたのか、周囲の蚊の群れが……いや、蚊の破城槌とも言うべき塊が、俺目がけて一斉に襲い掛かって来たのだった。



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