参・第六章 第三話
「……お疲れさま・でした」
『盾』の一族を説得し、天幕へと戻ってきた俺を待っていたのは、女神のそんな微笑みだった。
泥で造られた『仮面』に覆われていて、その表情は窺えないものの……間違いなく彼女は微笑みを浮かべている筈だった。
何しろ……
「いや・あり得ない・だろう。
あんなに・簡単に・あの『盾』の連中が・降る・なんてっ!」
「いや・流石は堕修羅・と言うべき・なのだろう。
あの蹴り、あの殺意……まさに・人間離れ・としか呼びようがない・凄まじい・代物・だったから・なっ!」
天幕の外側は、そんな楽しげな大声が響き渡っていて……今日の俺の活躍を宣伝してくれているのだから。
……そう。
勝利の祝いと言うよりも、憂さ晴らしのが近いかもしれないが……『盾』の一族を降伏させた事実に、『仮面』の一族たちは宴を開き、酒を飲み、大声で笑い合っている。
今の今まで、死を待つばかりという絶望的な状況だったからこそ……何もかも忘れて騒ぎたいのだろう。
付け加えて言うならば、どうやらこの腐泥というヤツは、食材の発酵を早める作用があるらしく……つまり食料は瞬間でダメになるが、発酵の産物である酒はそれなりにあるらしい。
食事も、宴の席で飲み食いするくらいの備蓄は残っているのだろう。
……後先を考えなければ。
どうせ彼ら『仮面』の一族は、もう詰んでいるのだ。
ちょっとくらい騒いでも、次の『聖樹』攻略が上手く行けばそれでチャラ、失敗すればどうせ全滅……などと考えた上での、せめてもの命の洗濯に違いない。
──とは言え、俺は呑む気がしないんだけどな。
別に俺自身は、そこまで切羽詰っている訳でもなければ、次の戦いに全てを賭すつもりもないのだから、ああやってアホみたいに騒ぐ理由がないのだ。
それに……酒で思い出すのは、あの塩ばかりの世界だった。
勝利に浮かれ、勧められるがままに酒を呑み過ぎて……寝ていたら仲間に裏切られ、怒りに任せて守っていた筈の連中を皆殺しにしていた、というあの世界での出来事が脳裏を過ぎって行く。
その嫌な思い出がある以上、俺にとっては酒という存在は鬼門でしかなく……こうして馬鹿騒ぎからの敬遠を決め込んでいる、という訳だ。
「はい、これ・お水、です」
「……ああ、済まない」
幸いにして、俺の女神であるべリス=ベルグスも、酒……と言うかあの手の馬鹿騒ぎが苦手らしく、俺と一緒に天幕でゆっくりしている最中だった。
相変わらず差し出された水はぬるくて不味いものの……この女神のような少女から渡されたというだけで、どんな美酒よりも価値のある雫と言えるだろう。
「何にせよ・これで・我々にも……助かる・算段が・出来た・というものだっ!
あの・『聖樹』さえ・落とせば・我々は・救われるっ!」
一番響き渡るその大声は、彼女の兄であるベーグ=ベルグスのモノで……その遠慮のない大音量を聞く限り、アイツは随分と出来上がっているらしい。
鼓膜を震わすその声を聞いた俺と少女は目を見合わせ……お互いにため息を吐いていた。
俺も子供の頃、酔っぱらった親父を目の当たりにしたことがあるが……酔っぱらったアホほど付き合いきれない存在はない。
「……大活躍・だった・そうです・ね?」
と、そんな周囲の騒ぎが気になったのだろう。
少女は、夕飯のつもりなのか、俺に干し肉を手渡しながら、そう問いかけて来た。
「いや、まぁ、普通だったさ。
そもそも『説得』するだけだったし、な。
兎に角……明日と、明後日が上手く行けば、『仮面』の一族は、救われる」
べリス=ベルグスが差し出してくれた干し肉……くそ不味い、動物園の臭いのするゴムのような肉を受けとりながら、俺はそう言葉を返す。
……そう。
俺の計画通りに進めば、明日と明後日。
備蓄の限度であるその二日間を使い、この腐泥の中で暮らす『槍』の一族と『双斧』の一族を上手く『説得』出来れば……あの『聖樹の都』であろうとも簡単に落とせるに違いない。
そう脳内で計画を再確認した俺は、少女に見えないようこっそりと塩を振りかけつつ……干し肉を口に運ぶ。
──ぐっ、これでも、無理、か。
だけど、生憎と干し肉の不味さは塩の味でかき消されるような、生半なモノじゃなかったらしい。
くそ不味いゴムは、臭く塩辛いゴムになっただけで……正直、あまり改善しているとは言えなかった。
とは言え……息を止めて噛めば、まぁ、喰えないことはない、レベルには……何とか。
「でも・あまり・無茶はしないで・下さい・ね?
その、食も……進んでない・ようですし」
「……あ、ああ」
少女の気遣うような、探るような視線に……俺はそう言葉を濁す。
どうやら彼女は、俺が干し肉を口にしない理由を「説得によって疲弊しているから」だと思っているらしい。
──不味くて食えたもんじゃない、とは言えねぇしなぁ。
内心で俺はそう呟きながらも、不自然にならないよう、権能を制御して塩漬けにした干し肉を口へと運び続ける。
……そうして塩漬けにしても、とてもじゃないが、お世辞にも美味いとは言えない厄介な代物ではあったが……それでも、塩のお蔭で「食えないゴミ」から「食えるゴミ」レベルには達してくれている。
俺は適当に干し肉を口に入れつつ、塩味で麻痺してきた舌を、生温い水で洗い流す。
ここ『仮面』の一族の里には、この干し肉以外に喰い物は存在せず……そして、この不味い干し肉はそのローテーションでしか食べることすら困難で。
俺はただ塩と肉と混ぜた塊を、水によって流し込むという作業を繰り返していた。
「……あ、あっと」
「なん・です・か?」
「……い、いや」
そうして不味い肉を流し込んでいる間、俺とべリス=ベルグスとの会話はほとんどない。
そもそも彼女に命を救われたとは言え、この少女と俺が出会ったのはまだたったの一日でしかなく。
だからこそ俺が会話を試みようと必死に口を開いても……正直に言って「会話とは言えない会話」を無理やり繋げただけになってしまうのだった。
勿論、俺自身は彼女を女神にも等しい存在だと思い、仲良くなろう、会話を続けようと考えているものの……だからと言って、共通の話題もない出会ったばかりの少女を相手に、どうやれば彼女の気が惹けるかなんて、この俺に分かる筈もない。
──殺すのと壊すのは得意なんだがなぁ。
この重苦しい沈黙を打破しようと、俺は自分の記憶を引っ掻き回してみるものの……生憎と俺の経験値の中からは、女性と上手く付き合う手段というスキルは存在していなかった。
……そう。
破壊と殺戮の神ンディアナガルの化身になってない、ただの学生だった頃でさえ……俺の人生には、恋人とか彼女とか従妹とか幼なじみとか隣のお姉さんとか、そういう女性の影というのは存在していなかったのだ。
強いて女性と言うならば、母親と祖母くらいのもので……
──畜生が……
血と臓物と悲鳴に彩られた自らの記憶に唾棄しつつ、俺は必死に会話を探す。
だけど、そうして話題を探せば探すほど、俺の脳は空回りするばかりで……その所為か周囲には、干し肉の不味さすら感じないほど息苦しい空間が形成されてしまっていて……
コミュニケーション能力に長けているとは言えないこの俺には、それを払拭する術など見い出せそうにない。
──せめて、何か話題を……
そうして俺がまた意味もなく口を開いた、その時だった。
「お~~・~いっ! ベスっ!
酒が・切れた・ぞぉおおっ!」
天幕の外側から、そんな酔っぱらいの声が響いてくる。
……この『仮面』の一族の族長代理であるベーグ=ベルグスのヤツだろう。
余程酔っぱらっているのか、天幕の中だと言うのに耳が痛いほどの声量で……
とは言え、今の沈黙を打破してくれるなら、普段は眉を顰める大声だろうと、普段は嫌悪感を隠せない酔っぱらいだろうと構いやしない。
俺は珍しく、外で飲んだくれている酔っぱらいに心から感謝していた。
「……分かりました・よっ!
ちょっと、行ってきます・ね」
当然のことながら、べリス=ベルグスは兄の叫びを無視することなど出来ず……近くにあった壺を両手で抱えて持ち上げる。
恐らくは酒が入っているのだろう、少女の手には少し重そうなその壺を、少女は両手で抱えながら、ゆっくりと天幕の出口へと足を向け……
「じゃあ・行って・きま……きゃ・っ?」
酒の入った壺が重かったのだろうか?
それとも、無雑作に脱ぎ捨てられていたベーグ=ベルグスの服が悪かったのだろうか?
少女の身体は、彼女が思うようには動いてくれなかったらしく、壺の重みに引っ張られるように前へと傾ぎ……
「っと」
転びそうになった少女を、俺は慌てて自らの手で抱き留める。
このボロっちぃ天幕が狭かったお蔭だろう。
それほど反射神経に自信がない俺でも、近くで躓いた少女の身体を受け止めることは、そう難しくなく。
ついでに言うと、この身に宿る破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能の所為か……抱き留めたべリス=ベルグスの身体は、羽ほどの重さすらも感じない。
「あ・あ・ありが、とう・ござい・ます」
「……い、いや、気にするな」
俺の腕の中で緊張しているのだろうか?
抱き留めた少女の身体はガチガチに緊張していて……つい抱き留めた俺の方まで緊張が感染ってしまいそうだった。
しかも、少女特有の妙な体温の高さとか、腐泥を身体中に塗りたくっているというのに、フェロモンのような、何とも言えない女性の香りが鼻を擽る始末で。
──くそっ!
──落ち着け、俺っ!
天幕から出ていくべリス=ベルグスの背中へ向けて本能のままに襲い掛かりたいという衝動を、俺はなけなしの理性によって必死に押さつけていた。
どうもこう……女の子ってのは、いつまで経っても慣れそうにない。
何と言うか、こう……落ち着かなくなるし、馬鹿みたいな衝動に駆られてしまうし、だけど近づきたくなってしまう、と言うか。
──そんなつもりは、なかったんだけどなぁ。
彼女はあくまで命の恩人で、女神のような少女であり……俺は仲良くなりたいとは思っていても、別に口説こうとかエロいことをしようとか、そういう対象としては見てないつもり、だったのだが。
何と言うか、ああやって接触して、現実的に生きている・触れられる・温かい少女だと気付いてしまうと……
そっから先を望んでしまうのは……まぁ、若い男のサガと言うべきか。
「まぁ、それも……食べ物が手に入ってから、だよなぁ」
口の中の塩辛さと、突き刺さるような空腹の痛によって、さっきまでの動悸が瞬間で消え去ってしまったのを感じつつ……俺は小さくそう呟いていた。
実際……この『仮面』の一族として暮らす日々は、恋愛とか性欲どころじゃないのだ。
生きていければ、幸運。
飢えないだけで、幸せ。
渇かないだけで、御の字。
そんな過酷な環境では、恋愛や性欲などを本気で追い求められる筈もない。
以前に過ごした、帰るまでと決めていた塩の砂漠と違い……今回の俺は、正義を為すまで帰らないと自分で決めている。
……ただ色恋に溺れて、何もかも放棄する訳にはいかないのだ。
俺が立ち去った後でも、この世界が、彼らが存続できるように「争いのない世界」を実現させる。
そうしないと、俺がこの世界に来た目的を達成したとは……正義を為したとは言わないだろう。
「取りあえずは明日、だな」
俺はそう呟くと……天幕に大の字で寝転がり、瞳を閉じる。
正直なところ、まだ眠くはなかったのだが……このまま起きていたとしても、何の意味もなく空腹に苛まれるだけという、意味のない拷問を味わうことになるだろう。
そう判断した俺は……そのまま軽く眠るつもりで意識を手放す。
だけど……説得なんて慣れないことをして精神的に疲れていた所為か、俺はそのまま朝までぐっすりと眠りこける羽目になったのだった。
翌日。
「……ったく。
こっちの言い分くらい、聞いてくれよ……」
ベーグ=ベルグス他数名の『仮面』の一族による案内によって『槍』の一族が暮らす集落へと足を踏み入れた俺は……
「黙・れぇえええっ!
堕修羅か・何か・知らないがっ!
我々は・誰にも・屈せんっ!」
そんな怒号と、数十を超える槍衾という歓迎を受けることになっていた。
周囲を見渡す限り、『槍』の一族は二百ほどで……凡そ『仮面』の一族の半分ほど、だろうか?
そんな彼らは『仮面』や『盾』とそう大差ない、ボロの天幕を棲み処としているらしく……周囲には百余りのテントが並んでいる、ように思える。
年末の番組に出てくる野鳥の会じゃあるまいし、一瞬で正確な数を数える能力など、俺にある訳もなく……要するに適当な訳だが。
そんな中、俺を取り囲んでいる石槍を手にした戦士は……凡そ数十。
そして少し遠くには、非戦闘員を守るように石槍を手にした連中が三十人くらい並んでいて……
簡単に足すと……『槍』の一族を説得できれば、凡そ百人弱が戦いに使える頭数、という計算になる。
昨日、『説得』を終えた『盾』の戦闘員は五十ちょっとだった筈だから……コイツらを上手く説得できれば、かなり有効な駒になるだろう。
「だから、俺は共に『聖樹』を落とすための……」
「黙・れっ!
堕修羅・風情がっ!
仲間の・仇っ、取らせて・貰う!」
そう簡単に計算をし、再び説得を試みようとした俺の言葉は……生憎と、突き出される槍と殺意混じりの叫びによってかき消されてしまう。
──おっかしいなぁ?
咽喉元へと突き出されてきた石槍の穂先を握り潰しながら、俺は首を傾げていた。
昨日……『盾』の一族の説得は上手くいったのだから、今回も上手く行くだろうと考え、手ごろな一匹を素手で二つに引き千切ったのだが。
──何が悪かったんだろうなぁ?
昨日の『盾』の奴らのように怯えることもなく、『槍』の連中はむしろ仇討に燃えて俺に襲い掛かってくるのだ。
なるべく捨て駒を潰さないようにと手加減している所為で……さっきから俺を取り囲む槍の数がさっぱり減りやしない。
既に連中の石槍を何本かへし折っているにも関わらず、周囲を取り囲む槍が減らないのは……槍を折られた戦士が、後列に下がり、新たな槍を手に囲みに参加しているからに他ならない。
──いい加減、うざったいなぁ。
この俺が殺さないように、捨て駒を潰さないように、こうして精一杯低姿勢で臨んでいるというのに、この『槍』の一族とやらは意味もなく吠えるばかりで、『説得』に応じようとしないのだ。
そうやって下らぬ意地を張り続けるならば、こっちにも考えというモノがある。
のんびり時間をかけて説得しようにも……生憎と、『仮面』の一族に残されている時間はそう多くはないのだ。
──多少数が減っても良いから、さっさと力ずくで叩き潰すか。
そう考えた俺は、背後から突き出された……勿論、俺の背中に弾き返された石槍を左手で掴むと、槍ごとその『槍』の戦士を力任せに引き寄せ……
「最終通告だ。
……死にたくなければ、俺に従え」
「ぅ、ぎぃゃぁあ・ああああああああああああああ・あぁっ」
ソイツの頭蓋を掴み、殺さない程度に力を込めながら……周囲を見渡し、そう告げる。
正直な話……俺は、早くも面倒になっていたのだ。
こうして、言うことを聞かない癖に、そう強くもない雑魚共に、手加減をして、殺さないように気を使って……無駄に『説得』という労力を費やすことが。
「誰が・従うかっ!」
「我らが・仕えるのは・古に我らを救った・赤き槍の神・のみっ!」
「何が・あろうとっ!
貴様などには・屈せぬっ!」
そんな俺の『説得』に対する返事は、前と変わらない……死を望む下らないモノだった。
俺はその言葉に軽くため息を吐くと、左手に力を少しずつ込め……




