参・第六章 第一話
「……む、ぐっ?」
『双斧』の襲撃を追い払ったその日の夕方。
恐らくは「晩飯に相当するのだろう」食べ物を口にし……俺は呻き声を隠せなかった。
──何だ、コレ、は……
肉……なのだろう。
少なくとも俺はそう聞いて口にしたし、泥っぽい色に染まっていたものの、見た目はただの干し肉でしかなかった。
問題は……味だ。
いや、臭い、というべきか。
──公園の便所……いや、動物園の臭い、だ。
噛んだ瞬間に、泥臭さと一緒に、そしてその濃厚な臭いがツンと脳髄まで響き渡るのだ。
……味?
味なんて『しない』……と言うか、臭いのインパクトが強すぎて『分からない』というのが正解だろう。
敢えて言うなら、酸っぱさと塩辛さなのだろうけれど、肉質が硬すぎて味が染み出すほど強くは噛めなかった。
「ぅ、げぇっ」
……いや、言い訳は止めよう。
俺の食欲は、その凄まじい匂いにあっさりと敗北し……『食い物出された食べ物は吐き出さない』という、「人として最低限のルール」すら守れなかったのだから。
「ど・どう・しました・かっ?」
「……あ~・まぁ、慣れないと・無理か」
突然、食べ物を吐き出した俺に向け、女神のようなべリス=ベルグスは心配そうな声を上げ……その兄は何となくこうなることを悟っているような呟きを漏らしていた。
「……なんだ、これ?」
「お前も・昼、食べた・だろう?
『泥鰐』の・肉・さ。
……ただ、乾燥・させて・保存・した、七日ほど・前の・ヤツ・だけど・な。
慣れれば・まぁ・食えない・ことは・ないぞ?」
「どうしても・こう・なるん・です。
あの・『腐泥』が・ある・限り……」
家の中を汚した俺の問いに対しても、二人の兄妹は咎めることすらなく、そんな答えを返してくれた。
その言葉を聞いた俺は、眼前に落ちてある自分の唾液まみれの『肉』を見つめながら考える。
──腐っている、いや、発酵している?
──チーズと言うか、鮒寿司みたいに?
乾燥肉ってのは確か「腐らないように保存するためのモノ」だったと思う。
で、腐らせないよう塩漬けにするのが一般的で……あの塩だらけの世界で散々お世話になったものだ。
だと言うのに……この世界の干し肉は、容赦なく腐るらしい。
太陽が当たらない所為か、それとも腐泥が世界中を覆い尽くしている所為か。
記憶にある限りでは……俺自身は食べたことのない「鮒寿司」という代物も、噂で聞く限りでは「食べ物の範疇ギリギリ」という、相当に危険な代物らしい。
が、コレは……もはやそのギリギリのラインを易々と飛び越えているとしか思えない。
何はともあれ……この腐れ果てた世界では、乾燥肉などの保存食は「喰うに値しないモノ」になり果ててしまうようだ。
──って、ちょっと待て。
その事実に気付いた瞬間……俺は今さらながらにさっきの戦いが何故起こったかをようやく『実感』していた。
……そう。
獲物が取れなくなっているこの世界で、保存食がもたない。
保存食がない=食べ物がすぐなくなる。
そして、今……獲物が獲れなくなっている。
──つまり、『泥人』たちは保存食に頼る限り、「こんなモノ」しか食えない。
新鮮な獲物以外では、こんな……食い物とゴミと動物の糞の境目を右往左往している感じの食料しか、得られず……
……だからこそ彼らは新鮮な食料を求めるしかない。
人間という生き物は、何でも良いから『食べないと生きていけない』のだから。
そして、そこまで追い詰められた以上、例えソレが、人の肉、だったとしても……
「……だから、『双斧』の連中は?」
最悪の現状を理解した俺は、確認のため、近くに座る仮面を被った巨漢へと問いかける。
「……ああ。
連中は・ああやって・あちこちを襲い・食料を・得ている。
他の部族とは・まだ・話し合いも・取引も・出来るんだが・な……」
──なるほど、な。
返って来た族長代理の言葉を聞いて、俺は内心で頷いていた。
何もかも、理解が出来たのだ。
彼ら『仮面』の一族が、何故あの『聖樹の都』を狙ったのかも、あの『双斧』の連中が何故この『仮面』の一族を強襲したのかも。
──全ては、食糧問題が原因、か。
だからこそ、食料と水が豊富な『聖樹』を全ての『泥人』たちが狙って、戦争をし続けているのだ。
つまり、この世界の争いを無くすためには……
──食料を、作れば?
そこまで考えた俺は、首を左右に振っていた。
二つの世界で住民全てを皆殺しにした破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能と言えど、万能ではない。
殺しと破壊と耐久力には特化していても、食料を作るなんて真似は出来そうにない。
作れるとすれば……塩、だけなのだから。
──塩を、配れば?
そんな案を思いついた俺だったが、すぐにソレを自分で否定していた。
そもそもの獲物が獲れなくなっているのに、塩を配っても意味がないだろう。
塩を直接食べても栄養はないんだし……第一、そうして権能を見せびらかしてしまえば、数日前に俺の手によって、あの大量の塩が発生したことが思いっきりバレてしまう。
そうなれば……べリス=ベルグスという名の、女神のような少女に嫌われてしまう可能性が高くなる。
……却下するしかない。
『双斧』の連中と同じように「人を喰う」という提案も脳裏を掠めたものの……ベーグ=ベルグスが連中に嫌悪感を持っていたのを見ると、やはり「人喰い」というのは、この世界でも受け入れ難い行動なのだろう。
──やっぱり、奪う、しかない、か。
色々と考えた俺だったが……やはり結論は彼らと同じものしか浮かばなかった。
即ち……『聖樹の都』へ攻め入る、という。
確か、「『聖樹』の実は幾ら採ってもなくなったことがない」と、以前デルズの餓鬼に聞かされた覚えがある。
それが事実であるならば、あの『聖樹の都』を……聖樹の実が生る一角だけでも占拠出来れば、『仮面』の一族が飢えることはなくなるだろう。
──いや、もしかすると、他の『泥人』たちも救え……
──あの娘の願いを……誰も争わない世界を築き上げることが出来る、かも、しれない。
そう結論付けた俺は……息を一つ吸い込み、ベーグ=ベルグスの仮面を正面から見据え、口を開く。
「……『聖樹』を落とすことは、可能か?」
「……アル=ガルディア・さんっ!」
「……今のままじゃ・無理・だな。
俺たちにはもう……アレを落とす・戦力が・残っていない」
俺の問いに争いを嫌うべリスは悲鳴のような声を上げていたが……その兄は一つ頷くと、それが当たり前のようにそう答えを返していた。
──悪い、な。
少女の声に、俺は小さな胸の痛みを覚えていた。
形はどうあれ……俺は、少女の願いを、踏みにじったことになる。
……だけど。
「……一戦、だけ、だ。
一度で、全てを、終わらせる」
俺の口からは、自然とそんな……言い訳が零れ落ちていた。
だが……仕方ないだろう。
彼ら『仮面』の一族の現状は……戦わずには食べるモノすらも得られないという、過酷極まりない有様なのだから。
「……は・い」
俺の言い訳に、少女は俯いてしまう。
それでも同意の言葉を呟いたのは……彼女も分かっているのだろう。
自分たちの現状が……どうしようもなく過酷である、ということを。
自分自身の願いが……ただの甘い夢物語でしかない、ということを。
「……だが、どうす・る?
俺たち・『仮面』の・一族には、もう・動ける戦士が・足りない。
お前の・実力は・認める・が……このままで・あの『聖樹』を・落とせる・とは・思えないんだ・が?」
対照的に、兄であるベーグ=ベルグスの口から放たれた問いは、完全に現実を見据えたものだった。
と言うよりも、この巨漢は自分たちの現状をしっかりと見据え……それが故に、自分たちが唯一生き延びられる選択肢である『聖樹攻略』を、常に考え続けているのだろう。
……だからこそ、
巨漢のその問いに、俺は少しだけ考える。
──俺一人ででも、あの聖樹を……
──いや、無理か。
俺はいつぞやのように、自分一人で先陣を駆け、何もかも解決しようと身を乗り出し……すぐに自分の短絡な発想を脳内から追い出していた。
何しろ、あの『聖樹』の近くでは破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能が制限されてしまう。
ただの矢は肌に刺さって痛いし、石斧で殴られた程度でも流血沙汰になりかねないのだ。
しかも、戦場が樹の上になるという性質上、落ちたら、洒落抜きで痛い。
──アレは……もう二度と、味わいたくないレベルの激痛だ。
何しろアレ以来、俺の右腕は未だに動かず……いや、時間が経ったお蔭か、指先くらいは動くようにはなっている。
どうやら少しずつは回復に向かっているらしいが……まだ万全とは言い難い。
この破壊と殺戮の神ンディアナガルの化身であるこの俺が、それほどのダメージを喰らったのだ。
……聖樹の影響下では、高いところに近づかないのが吉だろう。
──ま、手駒は多い方が楽だしな。
俺の無敵が通用しないあの『聖樹』を攻略しようとするならば……『数』という名の戦力が必須だった。
そんな結論に達した俺は、少しだけ考え……
「なら、仲間を増やせば良いんじゃねぇか」
そんな簡単なことに気付く。
実際……そう難しくはないだろう。
この世界にいる『泥人』たちは……総じて食べ物に困っているのだろうから。
「……仲間・だと?
一体・何処・から?」
とは言え、俺の発想はこの世界ではあまり一般的ではないらしい。
俺の答えを聞いたベーグ=ベルグスは、よほどその提案が理解出来なかったのか……ただ戸惑った声を出すばかりだったのだから。
翌日。
俺は『仮面』の一族の男たち十人を率い、近くにあるという『盾』の一族の集落へと向かっていた。
と言っても、『聖樹の苗』を守るために動けなかった『仮面』の一族とは違い、『盾』の一族は腐泥の中を、うろうろと移動しているらしい。
──当然と言えば当然だな。
動物だって、馬鹿じゃない。
人間という天敵を発見した以上、そこから逃げ出そうとするのは生き物として当然の行動である。
だから狩猟を主とする民族は、獲物を求めてあちらこちらへ移動する方が正しく……逆に、一か所に留まりっぱなしの『仮面』の一族の方が変なのだろう。
──その割に、しょぼいテントだった、ような。
俺は昨晩を過ごした、隙間風の吹き込む天幕を思い出す。
あそこに長い間住んでいるのであれば、もうちょっと真っ当な家を造れば良いだろうに、と。
まぁ、『聖樹の苗』はまだ小さかったし……あそこに定住してからそう長い年月が経ってないのかもしれないが。
兎に角、あれから一晩が経過し、俺たちはこうして『盾』の一族を求めて腐泥の中を彷徨っている訳だが……
──しかし、本当にどうしようもない世界だな、こりゃ。
そうして腐泥の中を数時間歩き回った俺は……内心でそう結論付けていた。
霧が立ち込めて視界がきかない、太陽も当たらない上に、足元は腐泥が覆っており、木々は全て立ち枯れ、周囲は汚臭が漂っている。
生き物は全く見当たらず……ベーグ=ベルグスが言うには、探せば一応、泥の中に『泥鰐』か『泥蛙』くらいは生きているらしいのだが。
──生きているのは、蚊と蠅くらい、か。
前に見た串刺しの死体を思い出しつつ、俺は内心でそう告げる。
尤も、生きている蚊だろうと蠅だろうと、いずれにしろあまり食べ物にはなりそうにない。
──ホント、『聖樹』を攻める以外に、生き延びる道なんてありゃしねぇじゃねぇか。
──どう見ても端っから詰んでるぞ、コイツら……
そうして歩き辛い・臭い・気持ち悪いという三拍子の腐泥の中を、しばらく歩いていた所為だろう。
俺は……この旅路をもう終えたくて仕方なくなっていた。
「……本当に・こんなところに・いやがるのかよ?」
……だからだろう。
ついつい俺の口からそんな言葉が零れ出る。
だけど……どうやらそれは杞憂だったらしい。
「……ああ。
一応、元『盾』の・連中を・連れて・来たんだ。
アイツらは・今の時期・この辺りに・居を・構えて・いる・らしい。
っと……見つけた・ぞ」
そう告げるベーグ=ベルグスの視線の先には……霧しか見えない。
「……何処だ?」
「あっち・だ。
霧の・向こうに……盾が・見える」
言われてみれば、霧の向こう……集落の境に、木の板を張り付けた盾のようなものが見える。
それらは俺の身長よりも大きく、どう見ても持ち運び出来るサイズではないが……ある意味では『盾』の一族には相応しい防護と言える。
「で・どうやって・連中を・口説くんだ?」
「……まぁ、やってみるさ」
族長代理の問いにそう返すと、俺はまっすぐに『盾』の集落へと歩き始める。
尤も……詳しく聞かれても、その問いに対する答えなんざ、俺の口から出る筈もなかったが。
──『無策』だなんて……言える訳、ないんだよなぁ。
……そう。
俺としては、説得なんざ族長代理をやっているベーグ=ベルグスの仕事だと思い込んでいたのだ。
だが、現実は何故か「策士」である俺がやることになってしまっている。
──どうしてこうなった?
考えるものの……答えなんて、分かり切っている。
この世界の連中は、武器に対する妙な主義に凝り固まっていて……「他の連中と協調する」という発想を、誰一人として持ち合わせていなかったのだ。
前に一度、『盾』と『双斧』の部族が連携して襲い掛かってきていたような記憶があるが……どうやらあれはただの偶然、というか成り行きでしかなく、別段、息を合わせて連携した訳ではないらしい。
それとも、こいつら『仮面』の一族が、何らかの理由で他の部族と対立し、孤立していただけかもしれないが。
いずれにしろ、ベーグ=ベルグスを始めとする『仮面』の一族には他と連携するという発想がなく……それを思いついた俺が、こうして説得に向かっている、という訳だ。
──まぁ、適当にダメ元でやってみるか。
どうやらこの世界には、『弓』と『仮面』の他にも、『槍』や『双斧』、『盾』という連中がいるらしく……『盾』の説得に失敗しても、まだ『槍』がいるのだ。
──断るなら一匹ずつ殺せばいいんだし。
どうせ食料確保にとっては邪魔な連中だ。
誰一人仲間にならなかったにしてもそう大した問題にもならないだろう。
……俺がこれから行うのはあくまでも「説得」なのだから、あの心優しい女神が言う「争い」には入らないだろうし。
そうしている間にも、『盾』の集落へとたどり着いてしまった。
もうぶっちゃけ本番、やるしかない。
「頼もうっ!」
俺はそう大声で叫ぶと……眼前の大きな板造りの盾を、全力で蹴り飛ばしたのだった。