参・第五章 第五話
「……これが、俺の、仮面、か」
ベーグ=ベルグスの天幕……どう頑張っても家とは呼べないそのボロテントに帰ってきた俺を待っていたのは、女神のように可憐な族長代理の妹が造ったという『仮面』だった。
──う、ぅむ。
その仮面は……簡潔に言い表すならば、「威圧感を放つお化け」だった。
お化け……と表現したのは、他に類推する生き物がないから、である。
右の目の穴は一応定位置に空いているものの、何故か左の目は額に空いていたし、頬と顎からは変な突起が何本も飛び出している。
額には仏像の頭にあるブツブツみたいなのが三段ほど並んでいるし、そんな訳の分からない形状をした仮面の表面は、丸い模様がいっぱいつけられている。
俺が仮面を見つめながら首を傾げていることに気付いたのだろう。
少女は満面の笑みを浮かべ、自信満々に僅かに膨らみが確認できるその胸を張ると……
「どう・ですか?
泥鰐を、模して・みたんです
なかなか・良い出来になった・と、思います・けれど」
そう、満足そうに告げてくる。
「……あ、ああ」
そんな少女に俺は……そう頷くことしか出来ない。
……だって、仕方ないだろう?
女神と言われても信じられる少女の、満面のこの笑みを……正直な感想を告げて曇らせるなんて……俺に出来る訳がない。
「正直に・言ってくれて・構わないんだ・ぞ、堕修羅。
……正直、ベスの仮面・は、我らの・中でも・評判が……」
「兄・さんっ!」
ベール=ベルグスは身内故の気安さからか、そう笑うが……生憎と俺はその場の雰囲気に追従するように愛想笑いを浮かべるだけで、言葉を発することは出来なかった。
せめてその不気味な化け物の『仮面』を被ることで、その出来に文句がないことをしめそうと思い、俺はその仮面を顔に近づけ……
「これで私たちは、過去も・故郷も・何もかも関係なく……家族・ですね」
嬉しそうな声で呟く、その少女の声で我に返る。
思い返せば……ほんの少し前、さっき軽く外を出歩いた時に聞いていたのだ。
この『仮面』は、生まれを故郷を過去を……いや、今までの全てを捨て去り、『仮面』の一族として生きるために被るものだと。
……だから、だろう。
俺の手は……仮面と顔があと数センチというところで、自然と止まっていた。
「……おい・堕修羅?」
仮面を被った巨漢が訝しげに訪ねてくるものの……俺の手は震えるばかりで動かない。
まるで……仮面と俺の顔との間に、見えない障壁でも発生しているかのように。
「……えっと・あの?」
俺の動きが止まったことで、女神とも思える少女の顔が、悲しみに曇る。
だけど……やはり俺の手は動こうとはしなかった。
──何故、だ?
そう自問自答しつつも俺は、何とか逃げ道を探すように周囲を見渡し……すぐに答えを見い出していた。
事実……その答えは本当に簡単に見つけられたのだ。
ちょっと隣の……悲しそうな少女の瞳を見るだけで。
……そう。
──俺は、この娘に、嘘を吐きたく、なかった、のか。
その理由に思い当たった俺は……思わず自嘲の笑みを浮かべていた。
だって……自分が考えているその変なこだわりが、実に馬鹿なモノだと、理性では分かるのだ。
ちょっと表を取り繕うだけで、簡単に騙せるのに。
彼らに一度取り入ってしまえば、この俺の……破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能を用いれば、武勲を立てるのも英雄扱いされるのも、どうとでもなるというのに。
戦いの中とは言え、今まで何十人、いや、何百人以上も殺してきたこの俺が……そんな訳の分からない思想にこだわって、この女神のような少女に悪い印象を与えているのだから。
──それでも……
それでも俺は……「故郷を捨てる決意」を持つという、その『仮面』を被ることは出来なかった。
そもそも俺自身、失敗だらけの過去を捨て去りたいとは思い続けているものの……故郷を捨てる気はさらさらないのだ。
温かい風呂で身体を洗う。
清潔な服を着る。
アスファルトで舗装された、足の汚れない道を歩く。
隙間風の吹きこまない家の中で暮らす。
お腹いっぱいのご飯を食べる。
温かくて美味しい飯を食べる。
冷たくて甘いデザートを食べる。
そして何より……「飲める水を、幾らでも飲める」という生活を、俺が、捨てられる、訳がない。
そんな俺の葛藤に気付いたのだろう。
ベーグ=ベルガスは軽く笑うと……
「まぁ、今は・まだ・いいさ。
そのうち・お前も……」
「……兄・さん」
場を取り繕うように笑う若い族長代理に、その妹が少し沈んだ呟きを零す。
自分の「嘘を吐きたくない」などという変なこだわりの所為で訪れたその空気に耐えられなくなった俺は、その泥の『仮面』を彼女に見えないよう、そそくさと懐に仕舞い込むと……
「この仮面の礼を、払いたい。
何か……望みは、ないか?」
居心地悪さを誤魔化すように……そう、自然と口を開いていた。
ただの勢い任せ、ただのその場しのぎと言われればその通りだろう。
だけど……礼をしたいというのは俺の本心でもあったのだ。
この俺の命を救ってくれた……破壊と殺戮の神ンディアナガルの化身となった、この俺を心配してくれた、その礼を。
「い・いえ、私・は……」
「何でも良いんだ。
どんな突拍子もないことだって、俺は、出来る限りのことを約束する」
俺の命の恩人は、その女神のような本質通り……首を横へ振って俺の礼を断ろうとする。
そんな彼女の反応を予想していた俺は、身を乗り出して言葉を重ねる。
そうして見つめ合うこと、数秒ほど。
俺の誠意が伝わったのだろう。
族長代理の妹は、ふと俺から目を逸らすと何か口を開き……すぐに泥を固めた仮面を被り直して、言葉を放つ。
「私は・ただ……もう・誰一人として・戦わないなら・それで……」
……見つめ合った所為、だろうか。
少女の瞳は俺の目から少しだけ外れた虚空を眺めながら、そう告げた。
「ベスっ!
お前・まだ・そんなことをっ!」
「分かって・ます。
でも私・は、もう・誰かが・死ぬところなんて……」
少女の願いを聞いたベーグ=ベルグスは声を荒げるものの……少女は怒声に怯みながらも、その言葉を撤回はしなかった。
「いや・堕修羅。
コイツの言葉を……真に・受けないで・欲しい。
無理・なんだ。
俺たちは・もう……戦わない・なんて選択肢は・存在しない・のだから」
「……兄・さん」
「お前も・分かっている・だろう?
腐泥の所為で・獲物は取れない。
食料の・備蓄も・あと二〇日ももたない・だろう。
水も・腐れ果てて・『聖樹の苗』は枯れた。
族長代理として・果たさねばならぬ・義務がある。
あの・族長でありながら・外道に・身をやつした……クソ親父みたいな・真似は……」
二人の会話は続く。
と言っても、喋っているのは彼ら『仮面』の一族の族長代理である、眼前の巨漢がほとんどだったのだが。
ただ一つだけ……兄妹の会話を聞いている最中に、ようやく一つ合点がいった俺は、つい要らぬ口を挟んでいた。
「なるほど。
族長代理って何だと思ったら……父親が族長、だったのか」
「知るか、あんなクソ野郎っ!」
意図せず零れ出た俺の呟きに帰ってきたのは……ベーグ=ベルグスによる、そんな罵声だった。
思わぬ逆鱗に目を白黒させた俺の隣から、同じ親を持つ少女がそれを窘める。
「兄・さんっ!」
「ベスっ!
お前も・知っている・だろう。
あのクズは・我々が取った人質を……『弓』の一族の・少女たちを・こともあろうか・あの・邪神を崇める・クズ共に・引き渡した・んだぞっ!
本来ならば、人質と引き換えに・水と・食料を得て……あの総力戦を・あと数ヶ月は・引き延ばせた・ものをっ!」
だけど、激昂した兄は、実の妹の制止すら怒声を叩きつけていた。
その命の恩人を蔑ろにする横暴に眉を顰める俺だったが……
──待て?
──邪神を崇める?
──少女たち?
それらの単語に……俺は、不意に思い出していた。
召喚されたばかりの俺が見た……嬲り殺された少女たちの姿を、生贄として心臓を抉り出されていたミル=ミリアという少女の姿を。
「過去と・決別した・我ら『仮面』の一族の・族長でありながら・過去の柵を・引きずり、あんな……故郷の・クズ共と・つるみやがって……
幸いにして、あの塩が噴き出した・天変地異に巻き込まれ、行方知れずと・なって・くれたのだが・な。
そういう訳で・この俺・ベーグ=ベルグスが、今や『仮面』の一族の・族長代理を・務めている・という訳だ。
尤も、あのクズの・生死が・確認出来ていない・以上……俺は・まだ、代理に・過ぎないのだが・な」
そして……その場にいたクズ共を、蟲の餌に変えたことを。
ついでに腐泥の中を彷徨っている最中に、巨大な蚊の群れに『爪』を振るったこともあったが……
──まさ、か、な?
不意に浮かんできた一つの恐ろしい仮説に……俺の手は知らず知らずの内に振るえていた。
いや……仮説ですらない、だろう。
正直に言うと……ソレは、確信に近い。
だけど、認められる訳がない。
俺を救ってくれた命の恩人の、眼前の少女の血の繋がった父親を……俺が、この手に、かけてしまっただなんて。
幸いにして、実の父親の評価に関して、この兄妹は対立しているらしく、二人は睨み合ったまま、俺の震えに気付かない。
その事実に気付いた俺は、拳を思いっきり握り絞め……必死に震えを押し殺す。
──言えねぇっ!
──言える、訳が、ねぇっ!
……だって、そうだろう?
幾ら、世界を滅ぼすほど強力な破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能をもってしても……一度死んだ人間を生き返らせることは、叶わないのだ。
今さら兄妹の間では『行方不明』という形で落ち着いた人間のことをほじくり返し、「それを殺したのは俺ですよ~」なんて、言ったところで何になる?
もしベーグ=ベルグスが父親の仇である俺に襲いかかって来たとしたら……俺は、自分の命の恩人であるこの女神のような少女を、天涯孤独へと叩き落とさなければならないのだ。
──この秘密は、墓場まで、持っていこう。
そう決断した俺だったが……それでも少しばかりは後ろめたい思いが抜けなかった。
だから、だろう。
気付けば俺は……睨み合う兄妹に向けて、自然と口を開いていた。
「分かった。
お前の願い、この俺……アル=ガルディアが叶えてみせる。
誰もが、争わずに、暮らす。
そんな世界が訪れれば……良いんだな?」
「おい・堕修羅っ?」
「ええ。
この世界・から、一切の・戦争が・なくなる。
それが・この私、べリス=ベルグスの……願い・です、アル=ガルディアさん」
俺の声に……べリス=ベルグスという名の少女は頷いて見せる。
生憎と、女神のような彼女の顔は、その「微妙なデザインの、泥で造られた仮面」の奥に隠されていて伺えなかったものの……何処となく哀しそうに光る少女の瞳を見つめれば、彼女のその願いが紛れもなく本物だと信じられた。
だったら……俺は、その願いを叶えるようにするだけだ。
兄であるベーグ=ベルグスが慌てたような声を上げていたが……まぁ、コイツの反応も分かる。
──夢物語かも、しれない。
……そう。
誰も争わずに暮らせる世の中なんて……ただの夢物語だろう。
だけど、俺の命の恩人が……この女神のような少女が、それを望んだのだ。
命を救われた俺には、その恩に報いる義務がある。
──ああ。
──これこそが、正義、だ。
そして、目的をやっと見出した俺は、内心でそう呟く。
悪を滅ぼすでもなく、裏切られた報復を遂げるでもなく……ただ優しい少女のために、夢物語を実現する。
……これが、正義でなくて、何だと言うのだ?
決意を新たにした俺が、拳を握りしめ直した、ちょうどその時。
突如、べリス=ベルグスという名の少女が、とんでもない言葉を放つ。
「でも・意外・でした。
アル=ガルディアさん・は……女性・でしたのね?
……あれ?
でも……怪我の治療を・した時は?」
「い、いや、待て待て待て待て待て。
一体、何の話だっ?」
全く身に覚えのない女性疑惑に、俺は悲鳴に近い叫びを上げていた。
ついでに自分の身体を確かめる。
当然のことながら、生まれた時からずっと動かし続けて来た……破壊と殺戮の神の権能を植え付けられる前から変わらない、自分の身体のままで、別に性転換した訳もない。
その事実に安堵のため息を吐く俺を前にして、べリスという名の少女は、小首を傾げる。
「ですが・姓の最後に、矢羽を……」
「いや、ベス。
それは・『弓』の連中の・名前・だろう?
堕修羅には・関係のない・話だ」
「……何の、話だ?」
兄妹の会話についていけなかった俺は、思わず口を挟んでいた。
と同時に思い出す。
あの『聖樹の都』でも……俺が名乗った時に何度か変な顔をされた、ような覚えがあることを。
「えっと。
彼ら……『弓』の一族の風習・です。
男性が・名乗る・時、矢羽を・意味する・『ム』を・姓の後に付ける・というもので」
「……何だ、そりゃ?」
少女の言葉に、俺は思わず間の抜けた声を放っていた。
正直な話、そんな変な話……聞き覚えがなかったのだ。
確かドイツ語には女性名詞とか男性名詞などという訳の分からない概念があるってのは、どっかで耳にしたことがあるものの……姓が男女で変わる、なんて。
「……一体、何の意味があって?」
「……下らぬ・迷信・さ。
男の名の・最後に矢羽を・つけることで、矢を・遠くまで・飛ぶようにする。
そうすれば・子が増える・という……本当に・下らぬ・ただの迷信に・過ぎぬ」
妹の説明を引き継いだ族長代理の吐き捨てるような言葉の意味が分からず、俺は少しだけ首を傾げ……
一秒後に、ようやく理解が出来た。
何となく目を向けてみれば……うら若き少女であるべリス=ベルグスは、俺と視線を合わせないように俯き、居心地悪そうに身体を小さくしている。
……それは、そうだろう。
彼女にしてみれば……突如、男同士の下ネタ会話が始まったようなものなのだから。
──男の矢が、遠くまで飛ぶように、か。
まぁ、そういうことらしい。
恐らく『弓』の一族は、子宝に恵まれず、悩んだことがあるんだろう。
だからこそ、『弓』の一族らしく、男のアレを矢に見立て……って、まぁ、彼らの風習だから、どんな理由があろうと、どんな風習があろうと構わないのだ。
……命の恩人の少女の前で、そんな会話をする必要性に駆られなければ。
──気まずい。
知らぬこととは言え、そんな話題を少女の前で口にしてしまったのだ。
何と言うか……非常に居心地が悪いこと、この上ない。
まぁ、実際のところはただの風習でしかなくて、そういう意図で口にした訳じゃないし、ただの気のせいかもしれないが……
それでも……居心地悪いことは、間違いなく。
──な、何か、話題を……
そう決断した俺が、口を開こうとした、その瞬間、だった。
「て・敵襲・だぁああああああああっ!」
「北から・敵がっ!
くそっ・畜生っ!
『双斧』の連中めぇええええっ!」
そんな叫びが、『仮面』の集落中に響き渡り……
その声を聞いた瞬間、俺とベーグ=ベルグスは視線を交わすと、言葉を交わすこともなく立ち上がる。
……襲い掛かってくる敵は、殺す。
それは、生まれも育ちも違う俺たちに唯一共通した、分かち合える価値観に他ならなかったのだ。
「兄・さんっ!」
「降りかかる・火の粉は・払わねば・ならぬ。
……分かる・な?」
「……は・い」
争いを嫌う妹を、それだけで黙らせた族長代理は、槍を手に持つと……天幕から飛び出していく。
俺は、兄の言葉に一言も反論出来ずに項垂れるべリス=ベルグスから視線を逸らすと、巨漢の後を追うように天幕から外へと足を踏み出したのだった。