参・第五章 第三話
「……俺は、何を、すれば良いんだ?」
俺の口がそう言葉を紡いだその瞬間、堪え切れなくなったのだろう。
……ベーグ=ベルグスの口から安堵のため息が零れ出て来た。
どうやら……コイツはコイツなりに緊張していたらしい。
自らの家に俺という存在を招き、妹の身まで『俺という危険』に晒していたのだから……人間として当然と言えば当然の反応なのだが。
つまり、さっきまでの泰然自若とした様子は……「ただの虚勢」だったらしい。
──何て、野郎だ。
俺は、ベーグ=ベルグスが「虚勢を張っていた」事実にこそ、驚きを隠せなかった。
それはつまり……恐怖を感じつつも押し殺すことで、俺の目を完全に欺いたということに他ならない。
……例え、仮面でその表情が隠れていたとしても、恐怖を向けられることに慣れ切っているこの俺が、全く気付かないほど、巧妙に。
──俺に、そんな真似が、出来るか?
そう自問自答した俺は、内心で首を横に振ることしか出来なかった。
事実、俺は自分の命どころか……ちょっと痛い思いをしただけで、あの『聖樹の都』に背を向けて逃げ出したような人間だ。
痛いどころか、現実に命を賭けて……いや、実の妹の命まで賭けているにも関わらず、これほど上手く虚勢を張るなんざ、一体どれほどの精神力があれば出来るのだろう?
「……さて・と。
じゃあ、聞かせて・貰おうか」
そうして俺が自問自答している間に、仮面の巨漢の方も準備が出来たらしい。
床に敷布の上に、何やら変な動物の皮を敷き、黒い泥を入れた木の壺と先の尖った枝を並べ、仮面の男はそう告げて来た。
恐らく、それらは紙と鉛筆の……いや、筆の代わり、なのだろう。
俺の知っている様々な文明の利器とは酷くかけ離れた、原始的なそれらに……俺は少しだけ興味を惹かれ、身体を乗り出す。
そんな俺の姿を見て、復讐に乗り気だと信じ込んだのか、ベーグ=ベルグスも俺と同じように身を乗り出し……
「ああと、まずは奴らの・人数と……
大まかな・聖樹の・構造、そして……」
「いけま・せん!」
そんな巨漢の声を遮ったのは……ベスという名の少女だった。
不意に発せられた女神からの叱責に、俺は思わず目を丸くして硬直していたが……それはどうやら実の兄にとっても同じだったらしい。
「お・おい。ベス。
お前だって・今の・我々の・状況くらい……」
「それでも・ダメです・兄さん。
彼は・怪我人・なんですよっ!
まずは・食事を・とらないと……」
その声を聞く限り、眼前に立つ『泥人』の少女が声を荒げたのは……俺の身を案じてのこと、らしい。
──女神、だ。
ベスという名の少女が告げたその言葉に……俺は柄にもなくそんな感想を抱いていた。
だって……初めて、だったのだ。
……俺の身を、案じてくれる、人、なんて。
塩の世界で、あの黒マントの連中に怪我の手当てをして貰った覚えはあるが、連中はそれでも俺の……いや、破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能を、神の絶対性を信じて疑っていなかったし。
あの砂漠の巨島で、リリスに色々と世話を焼かれた記憶もあるが……それでも出会ったその場で俺の権能を目の当たりにしたあの少女は、俺の強さを微塵も疑うことはなく。
だからこそ、こうして……ただの怪我人として扱われるなんて、俺としては初めての経験だったのだ。
──白衣の、天使に憧れるのって、こういう感情なのかもな。
元の世界でどっかの誰か……名前も知らないクラスメイトが、看護婦だか看護師だかの良さを絶叫していた記憶があるが……
……アレはこういう感情だったのかと、今さらながらに感心する。
尤も……アイツはアイツで女子に思いっきり嫌悪の視線を向けられていたんだが。
「さぁ、どう・ぞ。
三日前に・取れた、『泥鰐』の・肉・です」
そうして俺が元の世界を思い出している間にも、『泥人』の少女は包帯を巻いた足を引きずりながら、各々の前に木の皿を並べる。
その木の皿には……何かよく分からない肉が乗っかっていた。
彼女の言葉を信じるなら……ソレは『泥鰐』とやらの肉なのだろう。
鶏肉みたいな感じの肉が、生のまま木の皿に乗せられているのが目に入る。
そして不思議なことに……箸もナイフもフォークも、見当たらない。
──えっと?
その肉を前に……俺は困惑を隠せなかった。
実際の話、俺は数多くの食料品が手に入る現代日本で暮らした人間であり、その中では刺身のような、生肉をそのまま食べる料理もあった。
だけど……タレもなく、スライスもしていない、ただの生肉が出てくるなんざ、生まれて初めての経験だったのだ。
そうして俺が戸惑っている中、ベーグ=ベルグスが仮面を取り外し……そのまま生肉へと喰らいつく。
その仮面の下は何と言うか……それなりに顔立ちは整っている気はするが、それよりも遥かに野性的という印象が強すぎて、まずテレビや雑誌なんかじゃ流行らないだろうタイプ、という感じである。
ま、幾ら美形だろうと、生肉にかぶりついている時点で、ちょっとポイント下がるんだろうけれど。
──ああ、でも、可愛いな、この娘の食べ方。
同時に、隣で生肉をちまちまと食べる少女を眺めて、俺は軽く笑みを浮かべると……自分もその生肉を左手で掴み、口へと運ぶ。
……正直、あまり食欲をそそる代物ではなかったが、それでも腹が減っていては治る怪我も治らないだろう。
そうして泥鰐の肉とやらを口へと運んだ俺だったが……
「……ぅ、ぐ」
一噛みで、再び思い知った。
……異世界で、美味い食事にはあり付けないという鉄則を。
──硬いっ!
まず何というか、魚肉や牛肉と違って、鶏肉っぽい食感のソレは……生肉だと噛み切るだけでも精一杯の、ゴムみたいな食感だった。
それだけでも、現代日本であれば、食欲が思いっきり消え失せる要素である。
問題は……それだけではない。
──泥臭いっ!
──生臭いっ!
噛んだ瞬間に、口内から鼻腔へと、臭気が舞い上がってくるのだ。
肉にこびりついたような腐泥の臭気がむわっと立ち上ってくるのに加え、泥鰐本来の味であろう、獣臭さが脳髄を突き上げてくる。
はっきりと一言でその肉の感想を行ってしまえば……
──気色悪いっ!
……としか言いようがない。
いや、他に感想を抱けない、そういう代物だったのだ。
だけど、ベーグ=ベルグスとその妹は、その肉を有難そうに食べていて……
「どう、しました?」
「……い、いや?」
俺の表情に気付いたのだろう少女がそう問いかけて来るものの、この空気の中で「不味いです、要りません」とは、流石の俺でも口には出来ない。
必死に嗅覚を意識から外し、その生肉に喰らいつくことにする。
幸いにして……その肉は不味くはあったが、まだ何とか「食えることの出来るレベル」ではある。
邪教徒共から提供された塩漬け肉や塩漬け野菜や、砂漠でテテに喰わされた腐ったスープよりは遥かにマシである。
……とある臓物スープと、蟲の肉については、味は兎も角……素材は論外として記憶から追い出すことにして。
──何ごとも、経験ってホントだよなぁ。
元の世界で美味い飯ばかりを喰っていたら、この泥鰐の肉すらも口に運べなかっただろう。
珍しく俺は、今までの異世界経験に少しだけ感謝をすると、その鰐の肉を口へと運び続ける。
……不味かろうが、飯は飯。
毒ではないのだし、俺が今、飢えている事実に変わりはない。
とは言え、所詮は一切れの肉であり……そう大量にある訳でもない。
──腹八分にもならねぇな、これじゃ。
骨にしゃぶりつくまで喰らったものの……所詮は異世界の食事。
食事の概念そのものが違うらしく、量が圧倒的に足りないのだ。
──『生きるための栄養』って感じなんだよな、こっちじゃ。
あの『聖樹の都』で食べた木の実ばかりの食事と言い……生きていけたらそれで構わないという食事量では、「満足するまで食べる」生活を続けていた俺にとって足りる筈もない。
勿論、破壊と殺戮の神ンディアナガルの化身となってからは、食欲の権化となっている所為もあるのだろうが……
そんな俺の不満を見抜いたのだろうか?
「……堕修羅よ。
腹ごなしに・ちょっと……付き合って・くれないか?」
ベーグ=ベルグスは仮面をつけながら立ち上がると……そう俺に語りかけて来たのだった。
「……これ、が?」
ベーグ=ベルグスに導かれるがままに天幕から外へと足を踏み出した俺は……それ以上の言葉を口にすることは出来なかった。
薄霧に覆われた周囲を眺めてみると、霧に隠れて見えなくなる範囲までぎっしりとボロボロのテントが並び……それぞれの天幕の前では、仮面をつけた『泥人』が適当に座り込んで色々と作業をしている。
それぞれ、縄をなう人、石の斧を磨く人、槍の柄を削る人、鰐らしき生き物の皮を鞣す人など、生きるために働いているのだろう。
……だけど。
俺が絶句したのは、それらの人々が一斉に俺に殺気を向けて来たからでもなければ、そのボロボロのテントが貧しかったからでもない。
──コイツらは……
ただ、彼らの仮面に隠された目に……力が全く感じられないことに、気付いてしまった所為だった。
あの『聖樹の都』を震撼せしめた『仮面』の一族の本拠地とは思えないほど……彼らには活気というものが、決定的に欠けていたのだ。
──敗残兵、か。
まるで……破壊と殺戮の神ンディアナガルの化身を召喚するところまで追い詰められていた、あのサーズ族たちのように、気力も目標もなく佇んでいる。
戦いに慣れた俺の目は、この『仮面』の部族の様相を一目でそう見極めていた。
……そんな俺の表情に気付いたのだろう。
「ああ・そうだ。
……俺たちは、生きるべき・唯一の・道を、つかみ損ねた・のだ。
あの『聖樹』を・奪うという、な」
皮肉めいた口調でベーグ=ベルグスはそう告げると、再び歩き始める。
ボロボロのテントを抜け、鰐の皮を包帯代わりにした怪我だらけの『泥人』たちの合間を抜け、仮面の巨漢は歩き続ける。
そうしてしばらく歩いただろうか?
集落の中心部らしき場所に……一本の枯れた、俺の身長くらいの木が立っていた。
「……これは?」
「あの・『聖樹』の・苗だ。
何処にも属さない・我ら『仮面』の一族が・最大勢力を・誇っていた・理由でもある」
男の声にその周辺を見渡した俺は、何となくその言葉を理解していた。
その苗の周辺にあるのは、木の桶や皮を継ぎ接ぎした水筒で……彼らは此処を『水場』として利用していたのだろう。
──なるほど、な。
あの『聖樹の都』でも、聖樹の根元からは水が湧き出していた。
この水も木も腐れ果てた世界では……人が生きるために絶対に必要な『水』という物資を、『聖樹』に頼るしかない。
そして、彼ら『仮面』の一族は、どういう手段を用いてかは知らないが聖樹の苗をこうして育て、それのお蔭で生きていられたのだ。
……だけど。
「我ら『仮面』の・一族は、『双斧』や・『盾』や・『槍』など……部族に・馴染めない、いわば「はぐれ者」が・集まる・一族・だった。
そんな・連中を・集めて・いたのが、この『聖樹』だった・という訳・さ」
その『仮面』の一族を率いる巨漢は、自嘲気味にそう告げる。
その言葉に俺は軽く頷きを返していた。
──道理で、『仮面』の連中だけ、装備が滅茶苦茶だった訳だ。
どういう経緯で分化したかは知らないが、この世界の連中は『双斧』や『盾』……そして『弓』の一族など、武器を単一で揃えたがる悪癖がある。
だと言うのに、この『仮面』の一族だけは、色々な武器を使っていたのを不思議に思ったものだ。
恐らく、彼ら『仮面』の一族は、各々の部族から弾き出された「はぐれ者」が集まるからこそ、多彩な武器を有し……
そして、この『聖樹』の苗から湧き出す水のお蔭で、勢力を徐々に拡大し……この腐り切った世界で最大勢力を誇るまでに至ったのだろう。
──それでも弓を使うヤツがいなかったのは、『聖樹の民』が許せなかった所為、か。
ああいう立体的で高低差が多く、その割に遮蔽物が少ない聖樹を攻めるにも関わらず、飛び道具を使うのが『聖樹の民』以外にいなかったのは……そういう理由なのだろう。
そして同時に、あの小賢しいデルズ=デリアムが『仮面』の一族が攻めて来た時、この世の終わりみたいな声を出していたのを思い出す。
今までは『聖樹』の苗があったからこそ、彼ら『仮面』の一族は、本気で『聖樹の都』を落とそうとして攻めなかったに違いない。
何度も何度も戦争をしている癖に、『仮面』の一族の大攻勢を見てビビっていたから不思議だとは思っていたのだ。
そう考えてみると……この『聖樹』の苗は、実は凄かったんだと思えてくる。
何しろ、彼ら『仮面』の一族を、延々と養っていけるほどの水を、湧き出し続けていたのだから。
「と言うか、何で枯れたんだ、これ?」
ただ、そうなると、新たな疑問が湧いてくる。
即ち……今まで生き続けていられた筈の彼ら『仮面』の一族が、何故こうして切羽詰った状態に追い込まれているのか?、である。
俺の問いにベーグ=ベルグスは軽く肩を竦めると……霧の立ち込める腐泥の奥を睨みつけながら、口を開いた。
「あれは・数日前、だった・か?
突如、世界が・裂けるような・大きな音が・響き渡り……近くの腐泥が・一気に・塩へと・変貌を遂げた・のだ。
それから・すぐだった。
……あの『聖樹』の苗が、枯れ果てて・しまったのは」
……だけど。
俺の問いは、全く意図もしなかった最悪の答えを引っ張り出してしまう。
「……は?」
「恐らく……塩が・根を・殺してしまった・のだろう。
もしくは、あの・塩の・所為で、『聖樹』の根へ・続く水脈が・変わった・のか。
如何なる神の・気紛れか。
それとも……ただの・悪戯か。
神は……我らを・生かしたくは・ないらしい」
ベーグ=ベルグスの言葉に、俺は返す言葉もなくただ立ち尽くしていた。
──アレは、確か……
この世界に来たばかりの頃、だったか?
ミル=ミリアを……蟲に取りつかれたばかりの頃の彼女を家に帰そうとしていた時、確か巨大な蚊が大量に発生していて……
それを蹴散らすために、全力で権能を込めて、思いっきり『爪』を振るった、ような。
それから随分と彷徨い歩いたものだが……どうやら俺は、ぐるっと回って、俺が召喚された洞窟の周辺に戻ってきたらしい。
そして俺は、一つの事実に気付く。
──つまり、何か?
先日、『聖樹の都』で起こった大規模戦闘も。
今、こうして『仮面』の一族が滅亡の危機に瀕しているのも……
──全て、俺が気まぐれに振るった『爪』の所為、だってのか?
その事実を前に、俺は……今さらながらに破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能が如何に凄まじい代物かを理解ていた。
何しろ、右腕の一振りで部族一つを……数百人の命運を断ち切ってしまうほどの、威力である。
尤も……一番恐ろしいのは、気紛れに振るった『爪』が、見事彼らの命運を断ち切ってし舞うほどの……
……言うならば、『運』や『間』の悪さそのもの、なのだろうけれど。
──少し、自戒しないと、な。
俺はそう心の中で呟くと……後ろめたさを隠すように、眼前に立つ仮面の巨漢から、右手を少しだけ遠ざけたのだった。