第三章 第三話
翌朝。
俺は外の空気を吸うために神殿から外へと出ていた。
「んっ───っててて」
大きく背伸びをすると、やはり身体のあちこちに鈍痛が走る。
──筋肉痛である。
とは言え、この世界へ来てすぐ味わった時ほど酷いものではなく、動くのに苦痛になるほどでもない。
昨日と違って鎧を着ずに寝たお蔭か、もしくは自分よりちょっと高めの体温を放つ抱き枕のお蔭か……変に寝違えることもなく、快適な睡眠だった。
「ん?」
ふと俺は視線を感じて周囲を見渡す。
周囲には、人人人人人人。
見渡す限りの人が、俺に向かって手を合わせ拝んでいる。
(あちゃ~)
血まみれの鎧を着込んでいる訳でもないのに……と一瞬だけ考えたが、サーズ族はこげ茶の髪に赤銅色の肌で、俺とはかなり風貌が違う。
……目立っても仕方ないだろう。
俺は注目されるのに慣れてない上、しかも彼らからは拝まれている訳だから、非常に居心地が悪い。
彼らの崇拝と畏怖の視線があまりにも鬱陶しく、重苦しかった俺はその場から慌てて逃げるべく踵を返そうとした。
「こちらにおられましたか。我が主よ」
丁度その時、俺に向けて背後からチェルダーの声がかけられる。
この山羊の頭蓋骨を被った胡散臭い男は、俺が落ち着かない様子に首を傾げ、そして俺の視線に気付いたのか周囲でこちらを拝んでいる群衆へ視線を向けると……
「ああ。あれですか?
あの者たちは我が主に感謝しているのでしょう。
貴方様のお蔭で命が長らえ、こうして家に戻ることが出来たのですから」
そう言うチェルダーは堂々としたものだった。
まるで群衆など気にならないような……いや、そうやって拝まれることが当然と言わんばかりの態度で。
まぁ、チェルダー自身は彼らから直接拝まれている訳でもないから、そこまで気にならないのかもしれないが。
「……あ、ああ」
だが、俺はそうはいかない。
分不相応な期待を向けられるその感覚に、肩身が狭く、落ち着かない。
──落ち着く筈もない。
そもそも俺は二日前までは一般人……ただの高校生だったのだ。
生徒会長でもなければ教祖様をやっている訳でもない。
スポーツで目立ったこともなく、RPGでは勇者をやったことも幾度かはあるが、正直、拝まれるのは性に合わない。
だから、俺はその場からとっとと立ち去ろうとした。
──その時、だった。
「ンディアナガル~~~~っ!」
その僅かな俺の隙を狙い、物陰から白い影が飛び出てくる。
血まみれの包帯で顔を覆ったその人影は、短刀を腰の位置に抱えながら、俺に身体ごとぶつかって来たのだ。
その赤く染まった包帯の間から見えている、皮膚の無いケロイド状の顔は……この世のモノとは思えないほど凄まじい様相を見せている。
恐らくソイツは……フォックスという名の、召喚されたばかりの俺が顔の皮を引きちぎってしまった、バベルの部下の一人。
「……っ!」
完全に不意を突かれた俺に、その攻撃に対処する術など持たなかった。
──そして、今の俺はあの無敵の鎧を着ていない。
ひどくゆっくりと流れる時間の中、俺に出来たことと言えば……
ただその尖った金属が身体を貫かぬように、まっすぐに俺の身体へと突き出されたその金属の塊を自分に近づけまいと、右手で咄嗟に握りしめることだけ……
……本当に、ただそれだけ、だったのだ。
何の意味もない、ただの反応でしかないその行動は、恐らく愚行以外の何物でもなく、次の瞬間に俺の指が手を離れ、その短刀は俺の腹を貫く……
──と、俺は想像していた。
……だけど。
「な? なんだ、と?」
「馬鹿なっ!」
俺とフォックスは同時に驚愕の声を上げる。
何しろ、俺の腕は……その短刀の刃を握りつぶしていたのだ。
鎧も来ていないのに、素手で握りしめたというのに、指一本・皮膚一枚の怪我をすることもなく……
鉄で出来ている、人間の身体なんていとも容易く貫く刃の方が、俺の握力に負けてひん曲がっていた。
「う、うわあああああああああああ!」
そして訪れる安堵と、湧き上がってくる恐怖……
──そして怒りが俺の身体を支配する。
衝動に任せたまま俺は、フォックスの突き出された右腕を掴み。
「ぐぎゃああああああああっ!」
勢い余って腕の骨を握りつぶす。
「ふざけてんじゃねぇええええええええええええええええ!」
衝動に任せたままの絶叫と共に、彼の身体を振りかぶり……
「ぐっ! がっっ!」
そのまま民家の壁へと叩き付ける。
「このっ!
俺をっ!
殺そうとっ!
しやがってっ!」
何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。
一度目で内臓が破裂していた。
二度目で命が断絶していた。
三度目で頭蓋が潰れ脳髄と眼球が飛び出ていた。
四度目で腹が千切れ腸が辺りへと飛び散っていた。
五度目で脊髄がへし折れ下半身がどこかへと吹っ飛んだ。
六度目で肩から先が吹っ飛んだ。
……七度目に振りかぶった時点で、もうフォックスと呼ばれていた人物が跡形もなくなっていることに気付いた俺は、咥内の苦い唾を吐き捨てると同時に、彼の名残だったへし曲がった右腕を適当に放り捨てる。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ。はぁっ」
周囲に血と臓物と肉片が散らばっていることに気付いた俺は、ふと顔を上げる。
そこにあったのは……幾つもの視線だった。
──恐怖。
──畏怖。
──憎悪。
ほんの数分前まで、群衆たちが俺を見つめる視線は、神を拝むような縋るような視線だった。
……だけど。
たった一人を殺しただけでそれらの視線は……まるで化け物を見つめるような視線へと変わっていた。
その事実に幽かな失望と、そしてさっきよりも遥かに大きな居心地の悪さを感じた俺だったが……今はそれどころじゃない。
そんな群衆から俺はさっさと目を逸らし、山羊の頭蓋を被った神官……チェルダーへと視線を移す。
「は、ははっ。申し訳ありませぬ。
我らの警護が甘いばかりに……」
「違うっ!
そんなことはどうだっていい!」
土下座して命乞いをしようとした神官に、俺は首を振りながら叫ぶ。
「あの鎧はっ!
俺が着ていたあの鎧は、特別なっ……その、伝説の品とかじゃないのか?」
「……はっ?
いえ、別に。
アレは我が倅が戦場で亡くなった時の、その、形見のようなものでして。
ええ、確かに私にとっては特別ではありますが……」
チェルダーの返事はどうにも要領を得ず、俺がそんなことを尋ねることさえ想定していなかったという態度が明白だった。
──つまり、アレは普通の鎧でしかなく。
「では、あの戦斧は?」
「アレは我らがンディアナガル神殿の、神像が手にしていた装飾用の戦斧でして、その、人間に扱える重量ではなく……」
(……そんなものを持たせて俺を戦場に送り出したのか、コイツは)
そのあまりにもいい加減な回答に、俺は一瞬だけこの山羊の頭がい骨を拳で叩き割ってやりたいという衝動に駆られる。
だが、すぐに考え直す。
──今はそれを問い質す時じゃない。
「では、魔法とか、奇跡の品とか、そういうものは?」
「いえ。我々人間風情には奇跡などを使える訳もなく。召喚の儀も十数名で数日かけてようやく出来る程度。
あの戦果の全ては貴方様……破壊神ンディアナガルの御力以外の何物でもありませぬ」
「……なんだよ、そりゃぁ」
チェルダーの言葉に、俺は頭を抱えて呻く。
──だって、そうだろう?
ほんの数日前まで、俺はただの高校生だったんだ。
机の脚に足の小指ぶつければ悲鳴を上げ、カッターで指を切れば血が出る。
そんな程度の、ただの普通の高校生でしかなかったのだ。
(それが……何故?)
しばらく考えていた俺は、ふと一つの答えを見つける。
(あの、魔法陣っ!)
ここへ飛ばされる時に触れた、あの魔法陣。
何やら訳の分からない模様で描かれていたアレに……もしくは漆黒の手で引きずり込まれたあの時に。
──俺の身体能力を強化し、無敵にしてしまうような魔法がかけられたんじゃないか?
……いや、それ以外に考えられない。
恐らくは、こうして……滅びに瀕しているサーズ族を救うために。
もしくは、他の誰かが何らかの意図でそんな力を与えたのかもしれないが……
(と言うよりも……)
原理なんて、誰かの思惑なんて、今さらどうだって良いんだ。
──大事なのは、ここでは鎧なんてなくたって俺が無敵だという事実の一つのみ!
ならば……
(ここでは、俺がやりたい放題をやっても構わないんじゃないか?)
……そう。
──絶対権力者。
──神の化身。
──暴力の権化。
なら、女を幾ら囲おうが、戦場で虐殺をしようが、コイツらに死をもたらそうが、誰も逆らえはしないだろう。
「ふっ。ふふっ。
ははははっ」
その甘い誘惑に、俺は知らず知らずの内に笑い声をあげていた。
ひとしきり笑った後、頬に飛び散ったフォックスとか言う名の雑魚の返り血を手の甲でこすると……朝起きてから何も食っておらず、腹が減っていることに気付く。
だから、俺は何一つ躊躇わずにその欲望を口にする。
「運動したら、腹が減ったぞ」
……と。




