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【完結済】ンディアナガル殲記  作者: 馬頭鬼
参・第五章 ~『泥人』~
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参・第五章 第一話


「……もう、大丈夫、だろう」


 『聖樹の都』から逃げ出して数時間が経過した頃。

 背後を振り向き、霧が立ち込めて視界のきかない中、それでも追手が来ないと確信した俺は、小さくそう呟き……大きなため息を吐いて、ようやく足を止めることが出来た。


「……畜生。

 どうして、こう、なったんだ……」


 近くの枯れ木にもたれ、天を仰ぎながら俺は静かにそう呟く。

 ……分からない。

 分からないからこそ、こうなったのだ。

 俺は、アルベルトの真似をして……正義を為していた、筈なのだ。



 ──何を、どう、間違えたんだろう?


 あの勇者の代名詞とも言うべきアルベルトの……俺の友人の真似をした結果。

 俺は追い出され……霧と腐泥と枯れ木しか見えない、とても人間が住めるような場所じゃないところまで、こうして逃げ出す羽目になってしまったのだ。

 ……いや、実のところ、俺がどう間違えたかは分からなくとも、俺が追い出されることになった原因は分かっていた。


 ──あの、クソ餓鬼っ!


 ……そう。

 デルズ=デリアムというあの小賢しいだけのクソ餓鬼が、要らぬ知恵を回し、要らぬ洞察力を発揮してくれたお蔭で。

 ミル=ミリアの死体に巣食う蟲は看破され、蟲共が訳の分からないことをほざいた挙句、俺に要らぬ疑いがかけられ……


「くそっ、たれがっ!」


 俺はもう収まった右目の痛みを……身体中の痛みを思い出し、歯を食いしばる。


 ──ああ、そうだ。


 何もかもアイツが……あのデルズのクソ餓鬼が悪いのだ。

 俺の視界を奪い、激昂させ……矢の通じない俺を、高所から叩き落とすという地の利を用いて、ダメージを与えるという。

 ……あのクソ餓鬼が小賢しい知恵を振り絞った結果、俺はこうして凄まじい被害を被り、あの『聖樹の都』から逃げ出す羽目になったのだから。


 ──くそ、まだ、痛ぇ。


 身体の痛みに意識を向けた所為、だろう。

 強打した右のアバラ骨は、激しく脈打つ心臓の鼓動に合わせて痛み続け……逃げ続けた所為か痛めていた右の足首は今や焼けるような熱をもっており、強打した右腕は未だにぴくりとも動かず……

 体力配分も何も考えずに逃げ続けた所為で全身は疲労困憊。

 腐泥をかき分けた靴はにちゃにちゃと不快感を伝え続け、肺が訴え続ける酸素吸入の要求に応えようとすれば……


「……ああ、くそ、くせぇんだよっ!」


 腐泥の……鼻から脳天を突くような、糞便と腐った屍とヘドロの匂いをブレンドした、最悪の臭いに俺は思わず近くの木を蹴り砕き、塩の塊へと変える。

 尤も、その要らぬ八つ当たりの所為で、腐泥が飛び散り……また凄まじい臭気が周囲に漂うことになったのだが。


「……くそっ!

 くそっ!

 くそったれがっ!」


 左手の裾で口と鼻を覆いながら、それでも防ぎ切れない臭気に苛立った俺は、ただ叫ぶことしか出来ない。

 流石の破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能をもってしても、息を止めたまま活動を続けるなんてこと……出来ない、だろう。

 ……多分。

 何しろ暴れ回ったら息が荒くなるし……こうして息を止めると自然と苦しく感じるのだから、呼吸は必要、だと思われる。

 尤も……どうも自分が窒息死するというイメージも湧かないけれど。

 何はともあれ、こうして一休みを取っていると、歩き回って荒くなった息も整い、周囲を漂う臭気に慣れてきて……

 自然と、次の欲望が頭をもたげ始める。


 ──あ~、咽喉、乾いた。


 ……そう。

 あの『聖樹の都』から逃げ出してから数時間……俺は呑まず食わずであちこちを歩き回ったのだ。

 咽喉が渇かない、訳がない。

 幸いにして、ミル=ミリアが……いや、彼女の死体に巣食っていた蟲のお蔭か、未だに腹はあまり減っていないのだが。


 ──ああ、くそ。

 ──思い出しちまった。


 そう考えた所為か、俺の脳裏にはミル=ミリアだった、あの穴だらけになっていた、乾燥し腐敗した死体が浮かび上がる。

 俺の……名目上とは言え、婚約者だと思い込んでいた少女の正体を。

 そんなイメージが周囲の吐き気を催す臭気とブレンドされ、口の片隅に酸っぱい唾液が出て来たのを感じた俺は……首を振ることで、何とかそのイメージを振り払う。


「畜生、水は、何処だ……」


 吐き気の所為か、口の中に湧き上がってきた酸味に、俺はそう呟き……疲れた身体に鞭打って、腐泥の中を歩き始める。

 いや……幾らでも水はあるのだ。

 こうして歩いている間にも、足元の腐泥が湿っているのは分かるのだから。

 ただ、それが飲める水かと言われると……首を傾げざるを得ない、と言うか、確かめる気すらも起きないのが現実だったが。


 ──お?


 そうして霧と泥の中をふらふらと彷徨い続けていたたお蔭だろうか?

 枯れ木と枯れ木の根の間に、小さな水たまりを発見する。

 腐泥に触れていない、その小さな水たまりは……まさに奇跡そのもので。


「ぉおおおっ!」


 俺は歓喜の叫びを上げて腐泥をかき分け、その水たまりに駆け寄ると、両手で水を掬って飲もうとして……


 ──くっ。


 ……右手が上がらないのを、今さらながらに思い出す。

 仕方なく俺は、咽喉の渇きに突き動かされるまま、顔面からその水たまりへと突っ込み……


「うげぇぉぁああああああああああああああっ!」


 次の瞬間、顔面を襲った凄まじい臭気に、この世の終わりのような悲鳴を上げていた。

 俺の見立て通り、その水は腐泥に浸蝕はされていなかった。

 だけど……その水たまりが出来てから、どれくらいの年月が経っていたのだろう?

 水は完全に腐っていて……死んだ金魚を入れた水槽を一週間ほど寝かせたような、学校の花瓶の水を取り替えたような、その手の腐敗臭を混ぜて濃くした感じの激臭が、鼻から口の中から俺に襲いかかって来たのだ。


「ぐぁげぇぇえええ、ぁああああああああああああああああっ!」


 その不快感という一言では到底言い表すことも出来ない吐き気そのものに、俺は恥も外聞もなく悲鳴を上げ、口から吐瀉物をまき散らしながら転がり回る。

 身体中が足元の腐泥や胃酸、唾液によって汚れるが……それすら気にならない。

 それほどまでに、腐った水を口に入れるという行為は……人体にとっては「やっちゃいけない行為」だったらしい。


「うげぇ、げ、げぇ、げぇえええ、ぐがぁっ」


 胃の中の全てを吐き出し、胃酸を吐いて、唾を吐いて、口に入って来た腐泥を吐いて。

 それでも消えてくれない口の中の腐敗臭に、俺は周囲を見渡し……


「あぁああああああああああああっ!」


 近くの枯れ木を左手で掴み……権能を注ぎ込むことで塩の塊に変え……

 そして、その枯れ木だった塩の塊を、左手で拳大にもぎ取り……必死に口の中へと詰め込む。


 ──う、ぐっ。

 ──辛っ!


 その塩の塊が舌に触れた瞬間……今度は凄まじい塩辛さが後頭部へと突き抜けて行く。

 口内の水分が一瞬で奪われる感覚に耐えながらも……俺は歯を食いしばり、次の塩塊を口へと詰め込んでいた。


 ──だけどっ!

 ──コレなら、まだ、耐えられるっ!


 ……早い話、この凄まじい塩辛さの方が、さっきの腐った水よりは遥かにマシ、だったのだ。

 俺は塩の刺激に舌が麻痺しつつあるのを理解した上で……吐き気から逃れるように、次から次へと塩の塊を口へと詰め込む。


 ──これなら、何とか。

 ──早く、水と、飯、を。


 そうして口の中の不快感を何とか取り除いた俺は……気を取り直し、霧で遠くが見通せない中、腐泥の中へと歩き始めた。

 何処かに人がいる場所が……水と食料を確保できると信じて。

 ……そう。

 ソレが、良い解決法だと、思ったのだ。

 ……この時は。




 ……あれからどのくらい歩いたのだろう。

 息を吸うだけで激痛が走るという、耐えがたい咽喉の痛みに顔を歪めながら、それでも俺は腐泥の中を歩き続けていた。

 と言うよりも……俺には『歩く以外の選択肢など存在していなかった』のが正解だろう。

 何しろ、この腐泥は凄まじい臭気を放っていて……こうして慣れた今でも、鼻が曲がりそうな匂いが鼻を突く時がある。

 周囲の木々は腐っていて腰を下ろす場所もなく……もし座ったとしても、息をするだけで苦痛を伴うこの場所じゃ、ろくに休める訳もない。

 そもそも先ほど転がった際に腐泥の洗礼を受けた今の服では……例えあの『聖樹の都』だったとしても、息をするのさえ困難だっただろうが。


 ──それに……水も、ない。


 ……そう。

 腐泥の中を必死に歩き続けた俺だったが、生憎とその目的を……食料どころか水さえも確保出来ていなかったのだ。

 少し前に塩の塊を口にしてからしばらく経ったと言うのに、未だに俺の口の中は塩の味が充満していて……今や舌の感触すら全く感じられない有様である。

 その口内に充満する塩の味から逃れるために、こうして無理を推して腐泥の中を歩き続けていたのだ。


 ──なんて、酷い場所なんだ、此処はっ!


 ……だと言うのに。

 それほどの努力をしたと言うのに、俺は人里どころか、食料も、ただの水の一滴すらも……飲めそうな水の一滴すらも探すことさえ出来ていなかった。

 どれだけ歩き回っても、腐泥が途切れることはなく……

 そんな中でようやく見つけたのは……枯死した木と、腐泥と霧と。

 ……そして、腐った水と濁った水と臭い水だけという有様である。

 流石にそれらの水をもう一度飲んでみようとは思えず……それらの臭い水の誘惑に耐えながらも俺は、飲める水を探してこの腐泥の中を、延々と彷徨い続けていたのだが……


 ──おい?

 ──まさか……あれ、は……


 そうして薄霧の立ち込める腐泥の中を延々と歩き続けた俺は……

 薄霧の向こうに、砕けた塩の樹を見つけてしまう。

 俺が先ほど膂力任せに砕いた覚えのある……その砕かれた塩の塊を。


「ただ彷徨って戻ってきた、だけ、だってのか……」


 その事実を理解した瞬間……俺の身体からは完全にある気力が失われていた。

 俺が完全に迷った原因の一つは……この周囲を覆う、薄霧だろう。

 遠くを見渡すことも出来ず、周囲は同じような枯死した木々と腐泥ばかりが目に映り。

 太陽は薄霧の所為か姿形も見えず……東西南北すら理解出来ない。

 俺みたいな素人が、何の目印もなく腐泥の中を歩くというのは……どうやら完全に無謀極まりない行いだったらしい。


 ──畜生。

 ──だったら、何のために、俺は……


 体力よりも気力を断たれた俺は、近くにあった枯れ木の根元へと全体重を預け、内心でそう呟くと……ゆっくりと目を閉じていた。

 本当にもうこれ以上、一歩も歩けないというほどの……正真正銘の限界だったのだ。

 ちょっと前までは痛んでいた右足首の痛みも感じず、あばらの痛みもとっくに消え失せている。

 吐き気を催してたまらなかった周囲の臭いも、服から染み込んで来た腐泥の泥濘も、もはや何一つ感じやしない。

 とは言え、それは……破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能によって、早々に怪我が治った訳でも、周囲の臭いや腐泥の感触に慣れた訳でもない。


 ──み、水が……

 ──水が、欲しい。


 ただ、そんな些細なことよりも……今の俺はただ純粋に「咽喉が、痛い」ということしか考える余裕がなかったのだ。

 息を吸う度に、たった一言小さく言葉を呟く度に……口の中から咽喉の奥にかけて灼熱の棒を突っ込んだような激痛が走る。

 唾液は一滴も出ず、ただ唾を出そうと舌を軽く動かすだけで……舌がもげてしまいそうなほどに痛い。

 この全ての激痛は、さっき口にした塩の所為だと理性が訴える。


 ──だから、何だってんだ。

 ──今は、ただ、水が、あれば……


 その訴えを聞いても……もうどうしようもない。

 選択肢を間違えた自分への怒りも、俺を陥れたデルズへの憎悪も、さっき塩を食べた後悔も、背を向けて逃げたことを後悔する気持ちさえ、浮かんでこない。

 ただ俺は、咽喉の渇きと痛みに耐えかね……必死に水を欲するだけしか出来なかったのだ。

 ……だけど。


 ──動きたく、ねぇ。


 その絶望的な渇きから逃れようとしても……

 どれだけ必死に念じても、俺の身体はもうこれ以上の労働を放棄し……指一本さえも動こうとしてくれなかった。

 正直な話、全身の疲労感以上に、この世界に来てから頑張ってきたことが全て逆効果で何の意味もなかったという……精神的な徒労感の方が大きかったのだろう。

 さっき塩の塊を口にしたことが、今、咽喉の渇きと激痛の原因であり。

 さっき吐き散らした行動そのものが、今、この身体中に漂う臭気の原因である。

 それらの要素一つ一つが……この世界に来てから、自分の行動がまさに裏目にしか出ない、その証明に思えてくるのだ。

 結局、その徒労感に負け、咽喉の痛みを諦めた俺は……もう何もかもがどうでも良いような、投げやりな気分に従い、全身の力を抜いていた。


 ──どうせ、死にゃしないだろう。

 

 実のところ、こうして致命的にも思える咽喉の痛みを無視して、こうして大の字で寝転がれるのも、そんな奇妙な確信が俺の脳裏を支配していた所為だろう。

 何と言うか……破壊と殺戮の神ンディアナガルの化身たるこの俺が、この程度の渇きで命を落とすなんて、あり得ない。

 何故か、そう思えるのだ。

 そして死なないと分かっている以上……そこまで必死に水を探し求める必要もない。


「ああ。

 ……帰りてぇ、なぁ」


 結局、全身に圧し掛かるその疲労という難敵に抗うのを諦めた俺は、小さくそう呟くと……もう一度大きく息を吐き出し。

 そのまま……意識を手放してしまったのだった。


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