参・第四章 第六話
……そう。
流星錘など、ただのゴミに過ぎない。
……はず、だった、のだが。
「……ぉお、お、お?」
両脚を大きく開くことで流星錘を引き千切った俺が、何の気なしに右足を枝へと下ろした、その瞬間。
俺の右脚は……何故か、虚空を切っていた。
──馬鹿、な?
そして、気付く。
大の大人が寝転んでも問題ないほど広い枝の中心部で戦っていた筈の俺が……いつのまにか枝の端ギリギリに立っていたことに。
──あの餓鬼っ!
──いつの間にっ?
……種を明かせば簡単だった。
枝のど真ん中で『聖樹の民』を指揮していたデルズ=デリアムが、俺に目つぶしを決めた後、さり気なく枝の端へと移動していたのだ。
恐らく、俺の怒りがヤツの方へと向かうことを、酸の実で右目の視力を奪ったことを……そして怒り狂った俺が足場の確認を忘れることまでもを計算に入れた上で。
──こんな、馬鹿、なっ?
そして……幾ら膂力があろうとも、無敵の権能があろうとも……左脚一本で、ここまで傾いだ身体を立て直す術など存在しない。
必死に枝から落ちまいと、せめて何かを掴もうと……あるいは何とかバランスを立て直そうと、俺の手は必死に虚空を彷徨うものの……
中空へと張り出したこの枝の上には、掴む物など……何一つ、ある筈もない。
──いや、まだだっ!
──落ちて、たまるかっ!
俺は枝の外へと投げ出された状態を捻り、咄嗟の判断で右手を……五指を聖樹の枝へと突き立てる。
破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能により強化された俺の身体能力は……指で聖樹の枝を貫き、そのまま握力だけで自らの体重を支えることくらい、そう難しいことではない。
俺は何とか右手だけで枝にぶら下がることで……昨夜の『泥人』たちと同じ末路を辿ることだけは防ぐことに成功した。
「そこで、待ってろ、デルズ=デリアムっ!
今、てめぇを、叩き潰し……」
とは言え、ンディアナガルの権能によって幾ら膂力が上がっていても、俺が『身体を操る筋力』については……今までの、ただの学生のソレとそう変わっていないのが実情だった。
──畜生、重いっ!
要は、破壊と殺戮の神の化身となった筈の俺の身体は……走るのが化け物じみて早くなる訳でもなければ、戦斧を振るう速度が速くなっている訳でもない。
動体視力は前のままだし、体力は無尽蔵に湧き出す訳でもなく、反射神経も運動神経も……所詮、普通の学生レベルのままでしかないのだ。
「殺すっ! てめぇっ!
ぶっ殺してやるっ!」
だからこそ、片手懸垂なんざ出来ない、ただの常人である俺は……必死に歯を食いしばり、吠える。
怒りで、憎しみで、身体の奥底から激情を湧き上がらせることで、疲労を忘れ、身体を枝の上へと持ち上げようとしていたのだ。
だが……俺を此処まで追い詰めたデルズ=デリアムは、そんな俺の反撃を逃すほど、甘くはないらしい。
「いえ……終わりです。
こんなこともあろうかと、『聖樹の実』から取り出した、油を用意していましたので」
いつの間にか俺の頭上に……俺がしがみ付いている枝の真上へと来ていたデルズ=デリアムは、顔色一つ変えることなく、右手に握った小さな袋を俺に見せつける。
俺は憎悪を向ける対象が眼前に現れた所為で牙を剥き……右手に渾身の力を込めて、身体を持ち上げる。
そのお蔭もあって、俺は左手をようやく枝にひっかけることに成功し、ようやく落下の危機から僅かに解放され、息を吐き……
次の瞬間。
……ふと、気付く。
──今、何と……
──油っ?
俺が現状を飲み込み顔色を変えるのと……デルズ=デリアムがその手に持っていた袋を無慈悲に傾けるのは、ほぼ同時だったと思う。
そして……油に塗れた指で、体重をいつまでも支えていられる、訳もない。
「幾ら堕修羅である貴方でも、この高さから落ちては……ただでは済まないでしょう。
まぁ、堕修羅と呼ばれる貴方が、まさか墜ちて死ぬとは思いませんので……」
俺が、言葉を聞き取れたのはそこまでだった。
……油によって抵抗を失った俺の指では……自身の体重を支えることなど、叶わなかったのだ。
「ぅぁ、ぁあああああああああああああああああああああっ?」
そして、俺の身体は今度こそ虚空へと投げ出される。
身体を支えるものがないという、圧倒的恐怖に、俺はただ手を足をじたばたと動かし、何かを掴もうと探るものの……
何もないからこそ、この場所は、蟲を罠にはめる場所として選ばれていたのだ。
──ヤバ、い。
落下する感覚というのは、実のところ、空を浮くような感覚なんだと、ふとそんなことを考えた瞬間。
……俺の身体を、とてつもない衝撃が貫いた。
正直な話、俺の意識は一瞬、完全に吹っ飛んでいたと思う。
「……ぐ、が、がっ?」
衝撃に目が眩む。
息が出来ない。
声が、出ない。
自分の身に一体何が起こったのかすら忘れるほどの、凄まじい衝撃と激痛に、俺はただ呼気を吐き出すすらも許されなかった。
──う、ぐ。
──痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
身体中がばらばらになりそうな痛みという表現は、よく言ったものだ。
身体の中心部は痺れていて感覚がないのに、身体のあちこちは刺すように痛いという、矛盾した訳の分からない感触に、俺はただ歯を食いしばって耐える。
と言うよりも……歯を食いしばる以外に出来ることがない。
何しろ、激痛に悲鳴を上げようにも、身体をよじって暴れようにも……落下した衝撃の所為か、俺の身体は指一本さえも動かなかったのだ。
「痛い痛い痛い痛い痛ぇえ。
畜生畜生畜生畜生畜生。
何で、俺が、こんな目に、遭うんだ……
くそったれぇええええええええええっ!」
身体を動かせない俺は、ただ口でそう愚痴を吐くことしか出来ない。
それでも、身体は徐々に回復しているらしく……こうして寝ころんでいる内に、愚痴を吐き出せる程度には身体のダメージは引いてくれた、というのが正しいのだろう。
その時間の経過に加えて……悲鳴を上げることにより、何とか痛みも薄まって来てくれた。
声を出すことで気が紛れたのか、人体にそもそもそういう機能がついているのかは分からないが……どうやら人間が激痛を味わうと悲鳴を上げてしまうというのは理に適った行動らしい。
……今までは敵共の悲鳴なんざ「ただ喧しいだけ」だと思っていたが……こうして激痛を味わった以上、今までの自分を少しは反省しなければならないらしい。
──さて、と。
──ようやく、少し、マシに、なって、きた、な。
そうして要らぬことを考える程度の余裕が生まれたこともあり、俺は目を開いて真正面へと……俺が落ちて来た辺りへと視線を向ける。
「……あそこから、落ちた、のか」
……遥か彼方。
そうとしか表現しようのない、絶望的な高さの場所に、その枝はあった。
幾ら破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能があったとしても……あそこから落下して、こうして生きているのが不思議なほどに。
と、そうして上を眺めてみると……小さな人影らしきものが、右へ左へと慌ただしく動いているのが目に入る。
──追手、かよ、畜生っ!
その人影が目に入った瞬間、俺はそう悟っていた。
何しろ先ほど、デルズ=デリアム自身が、言っていたのだ。
……「堕修羅が落ちて死ぬとは思えない」と。
つまり……もう幾ばくもなく、トドメを刺す連中が俺を探しに降りてくるに違いない。
「くそっ!
うご、けよ、おいっ!」
俺は未だに衝撃に痺れたままの身体を必死に鞭打って、何とか立ち上がることに成功する。
ただそれだけの労働で……まだこうして寝ころんでいたいと、身体中全ての細胞が訴えているのが分かる。
……だけど。
このまま寝ころんでいると、追手である『聖樹の民』たちと一戦交えることは必至だろう。
「くそったれっ。
……このダメージじゃ」
幾ら破壊と殺戮の神ンディアナガルの化身である俺でも、権能を制限される聖樹の近くで……しかもこのコンディションで戦おうなんざ思える筈がない。
──いや、負けることはないだろうが……
連中の虎の子である弓で射られても、輪ゴム鉄砲で撃たれた程度の感覚しかないのが、今の俺の……ンディアナガルの権能に守られた身体である。
……とは言え、戦うということは、「身体を動かさなければならない」ということだ。
手を振り回し、走り回り……追いかけ回して敵を一匹残らず肉塊へと変えるという『重労働』を行わなければならないのだ。
……今の、この身体で。
──出来るか、そんなことっ!
疲労と身体中の痛みが、早々に俺の中から「戦う」という選択肢を奪い去っていた。
実際……今の身体で激しい運動なんざ、自殺行為以外の何物でもない。
聖樹の幹にもたれかかった俺は、早急にそう判断を下すと……とっととこの場から逃げるために、現在の身体の状態を確かめ始める。
──ヤべぇ。
そうして分かったのだが……どうやら落ちた時に右半身が聖樹の根へと叩きつけられたのか、身体のダメージは右半身に集中しているようだった。
変に打ったのか息をするだけで右側のあばら骨には軋むような違和感があり、右足首はこうして身体を支えるだけで焼けるように熱く……変な方向へ捩じったのか、右手は肩から先が全く動こうとしてくれない。
──骨は、折れて、ない、よな?
特に右手に痛みを感じないので、折れてはいないんだと、思う。
……と言うか、そう思いたい。
正直、骨が折れているかなんて、確かめるなんて、素人の俺に出来る筈もない。
と言うか、さっきから動こうとしないこの右手が、一体どういう状況かなんて……知りたいとも思わなかった。
実際、今は落下の衝撃による痺れが続いている所為で半ば麻痺しているが……右半身は、指先で軽く触れただけで、悶えのたうち回るレベルの激痛が走りそうな。
……そんな、嫌な予感がある。
「……ぃ。
あそこ、何か、動いて……」
「一番隊、二番隊、三番隊は、それぞれ……」
「~~~っ!
早く……ここから、離れ、ないとっ!」
そんな絶望的な状況の中、頭上から聞こえてきた殺意に満ちた怒鳴り声を聞き、俺は必死に身体を動かし……歩き始める。
……この『聖樹の都』から、遠ざかるために。
今、頭上から俺にトドメを刺すべく集まって来ている、追手から逃れるために。
──ちく、しょうっ!
歩くだけで、右足が痛む。
だけど……このまま此処で寝ていると、『聖樹の民』たちに四方八方から攻撃されて……痛い程度じゃ済まない確信がある。
……いや。
この足を挫いた身体では、幾ら無敵で最強の自負があるとは言え、遠距離から一方的に射てくる連中を相手にするのなら、倒すことすらも叶わないような……
──もう、嫌だ。
歩く度に脊椎まで響く右足首の痛みに、息を吸う度に軋む背中全体の痛みに、俺はついに内心で泣き言を口にしていた。
そうして一度心が折れると……後は、もうどうしようもなかった。
「……帰り、たい」
気力が折れた所為だろう。
ついに、俺の口から……その一言が零れ落ちてしまう。
こんな痛みも敵意もない、食べ物もたくさんあって水も好き放題飲める、日本が恋しくて恋しくて……
一度芽生えた望郷の念というのは、瞬間で俺の身体を焦がしていた。
……だけど。
──ダメ、か。
右腕が動かない今の俺の身体では……空間を切り裂くンディアナガルの『爪』を顕現したところで、ソレを振るうことも叶わないだろう。
いや、それ以上に、酷く嫌な予感がある。
現状で『爪』を顕現させると、今ある防御用の権能までもを使い尽くしてしまい、連中の矢によって身体を貫かれてしまう。
……そんな嫌な予感が芽生えたのだ。
である以上……俺の中からは自ずと「ンディアナガルの『爪』を使って帰る」という選択肢は消え失せてしまい……
──くそ、くそ、くそ、くそ。
──痛い、嫌だ、痛い、嫌だ。
だからこそ俺は……無理にでも身体を動かし、歩くしかない。
ただ、この場所から……ンディアナガルの権能を衰えさせる、この『聖樹』から逃れないと、痛いとか疲れたなんて泣き言さえも言えなくなるほど、激しい戦闘を強いられるに違いない。
──もう、歩くのなんて、嫌だ。
──痛いのも、疲れるのも、嫌だ。
だからこそ、俺は歩く。
内心ではひたすら悲鳴を上げ続けながらも……
右足を引きずり。
左足で身体を前へ運ぶ。
……動かない右手を、ぶら下げたままで。
「疲れた。痛い。
これ以上、動きたくない。
……もう、嫌だ。歩きたくない」
そんな泣き言を呟きつつも、足を止めようとは思わない。
左手で近くの木々を押さえ、身体のバランスを取りながら。
ひょこひょこと不恰好に、遅々とした歩みで……それでも歩き続ける。
──カレーを、ラーメンを、腹一杯喰いたい。
──こんな世界に、いたくない。
──こんな泥まみれの世界を離れ、早く風呂に入りたいっ!
──ゆっくりと、布団でゴロゴロしたいっ!
──早く、家に、帰りたいっ!
俺は、内心でそんな悲鳴を延々と上げ続け……
こうして俺は……数日間を暮らした清浄な『聖樹の都』に背を向け……悪臭と霧の立ち込める『腐泥』の中へと、逃げ出すことになったのだった。