参・第四章 第五話
「……ミゲ、ル?」
人混みの中をかき分けるようにして歩いてきた……今、この場にいる筈のないその人物を見て、俺はただそう呟くことしか出来なかった。
何しろ、少し前に見たミゲル=ミリアムという男は、土気色の顔をして横たわったままで……とてもじゃないがこうして歩けるような状態とは思えなかったのだから。
そしてそれは……俺以外の『聖樹の民』にとっても同じらしい。
「お、おい。
……ミゲル?」
「寝てなくて……良いのかよ、お前」
「ミゲル隊長。
まさか……そんな」
流石に『腐泥の穢れ』から逃れ切った訳ではないらしく、杖を突きながらふらふらとぎこちなく歩くミゲル=ミリアムは……周囲のそんな声も気にならない様子でまっすぐと俺の方へと歩いてきた。
そうして包囲網の最前列……デルズ=デリアムの隣に立つと、状況を確認するかのように周囲を見渡し始める。
具体的には、俺の背後にある捕虜収容小屋と、『聖樹の民』の包囲網と、俺と……そして、もはや動かなくなったミル=ミリアの残骸へと。
「……こ、これ、は」
俺は状況を説明しようと、口を開き声を放とうとするが……何故か口からははっきりと言葉が出ない。
……ミゲル=ミリアムの目を見てしまった所為、だろうか?
この驚くべき事態にも関わらず眉一つ動かさず、顔色一つ変えず、言葉一つ発さないその雰囲気に……知らず知らずの内に俺は圧されていたらしい。
拳一つで葬り去れる、弓も矢すらも持たず、杖がなければ歩くことすら儘ならないミゲルに俺が圧されたのは……さっきまでデルズ=デリアムからの理不尽な糾弾を受け続けた所為、だろう。
幾ら理不尽と分かっていても、この数の差で責められれば、デルズ少年の口から放たれるあの理路整然とした口調で責められれば……何となく自分が悪いことをしてしまった気分に陥ってしまうものだ。
その嫌な気分を振り払うかのように、俺は軽く咳払いをすると……改めて言葉を発しようと口を開く。
……だけど。
俺の言葉が発せられるよりも早く、ミゲルのヤツが口を開いていた。
「……なぜ、だ?」
ミゲルは俺の足元を見ながら……自身の妹である、いや、妹だった肉と骨の塊を眺めながら、掠れたような声で、そう呟く。
「それは……あの、堕修羅の野郎が……
いや、ミルは……既に死んでいた、らしいんだ」
「蟲を巣食わせて、生きているように見せかけてたって話だ。
あの野郎。
お前に取り入るためにこんな……」
「ふざけるなっ!
もう死んでいたものを殺して、何が悪いっ!」
口々に放たれる『聖樹の民』の言葉に、俺も負けずと怒鳴り返す。
……そう。
俺は知らなかったのだ。
名目上の婚約者であるミル=ミリアが、こんな……体内の蟲によって操られていて、『聖樹の民』を次々に喰らっていた、だなんて。
だから、俺に罪がないことくらい、ミゲルなら……仮にも義兄弟を名乗っていたコイツなら分かってくれる、だろう。
俺はそんな微かな期待を抱いたまま、ミゲル=ミリアムの動向を見守っていた。
そうして俺と『聖樹の民』が睨み合う中……その険悪な空気を意に介さぬまま、ミゲル=ミリアムは軽く口を開き……
「……、か」
……そう、何かを、呟く。
生憎と、ミゲルから少し離れていた俺には……ミゲル=ミリアムが何を呟いたかは聞き取れなかった。
ただミゲルは、俺の足元に転がったままの妹だった物体を……身体中を蟲によって穿たれ、死後三日ほど経った所為で腐敗し、乾燥したその死体を眺め……
そのまま、静かに……俺に、背を、向けた。
「ミゲ……」
名目上とは言え義兄弟をやっていた青年が、背を向けて離れていくのを引き留めようと……俺はその背中に向けて口を開く。
……だけど。
「射れぇええええええええええっ!」
俺の口から言葉が放たれるより早く……
デルズ=デリアムの口からは、その一斉射を呼びかける叫びが放たれていた。
「ぅ、ぉ、おおお?」
降り注ぐ雨のように……という表現が浮かぶほどの大量の矢が、真正面から俺に向けて注がれる。
俺は咄嗟に顔面を庇うものの……
それだけで、百を超えるほど降り注いでくる矢を、全て防ぎ切れる筈もない。
「いってぇええええええええええええええっ?」
身体中が矢によって強打される感覚に、俺は思わず悲鳴を上げていた。
ミル=ミリアの身体に巣食っていた蟲の言葉が正しいならば……破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能も、この『聖樹の都』では衰えてしまうらしい。
その所為か、布一枚に過ぎない服を容易に突き破った数多の矢が、俺の身体を次々と叩く度……無敵の権能によって守られている筈の俺の身体に、次々に痛みが走る。
尤も、幾ら衰えているとは言え、たかが矢如きでは俺の皮膚を突き破ることは出来ないらしく……矢が当たったところで、ただ『痛い』だけ、でしかなかった。
……そう。
彼ら『聖樹の民』が必殺を期して一斉に放たれた矢に射かけたところで、破壊と殺戮の神ンディアナガルの化身たるこの俺にとっては……撃たれた箇所に「輪ゴムの鉄砲で撃たれる程度の痛みが走る」程度のダメージに過ぎなかったのだ。
「ぐ、が、ぁ、ぁあああ」
だけど、幾ら怪我をしないとは言え……痛いものは痛い。
殺意を込めて放たれた彼らの放つ矢は……身体中に力を込めないと、悲鳴を上げてしまいそうなほどに痛かったのだ。
矢が皮膚を叩く痛みに、俺の口からは自然と呻き声が零れ出ていた。
「て、てめぇらぁああああああああああああああっ!」
その痛みに逆上した俺は、拳を固め……その場で俺に弓引く連中を肉塊へ変えてしまおうと、上体を傾け思いっきり走り出す。
──近づいて、しまえばっ!
弓しか取り柄のない『聖樹の民』如き、破壊と殺戮の神ンディアナガルの膂力の前では、紙で折られた兵隊に過ぎない。
指先一つで引き裂いて、血と臓物をぶちまけ、悲鳴と恐怖と激痛にのたうち回ることになるだろう。
勿論……ンディアナガルの権能である『爪』を使えば、この程度の雑魚の群れなど、ただ一振りで皆殺しに出来るだろう。
だけど、俺を裏切ったこの連中を、そんな楽に殺したんじゃ……
──俺の、気が、済まねぇんだよっ!
怒り狂った俺は、身体中に次々と突き立つ矢の痛みに耐えながら、足を前へ前へと大きく踏み込み……『聖樹の民』共が敷く包囲網との距離をどんどん詰める。
「ば、化け物かっ!
コイツっ?」
「嘘、だろう、おいっ?
これだけの矢を喰らいながらっ?」
矢を喰らっても怯まない俺の特攻に、『聖樹の民』たちからは戸惑いの声が上がっていた。
その特攻が功を奏したのか……流石に弓が得意な『聖樹の民』たちも恐怖と動揺で手元が狂ったらしく、俺の身体に弾かれて落ちる矢の本数が、明らかに減って来る。
その状況を直感で察した俺は、内心でほくそ笑んでいた。
──こうして俺という恐怖を突きつけてやれば、如何な多勢であろうともあっさりと烏合の衆に成り果てるっ!
今まで数多の戦いを経験してきた俺は、今までの経験則から戦局をそう読んでいたのだ。
このまま痛みを無視し、破壊と殺戮の神の威光を見せつけることが出来たならば……この連中はあっさりと静まり返る、と。
……だけど。
そんな俺の読みに当てはまらない存在が……『聖樹の民』の中には、知力で恐怖を捻じ曲げるヤツが一人、混じっていたらしい。
「どうするんだよ、デルズっ!
このままじゃ……」
「この程度……『泥人』の石斧を跳ね除けたのを見てますっ!
想定の内ですっ!」
デルズ少年の、その冷静な叫びが……怯みかけていた『聖樹の民』たちを一瞬で落ち着かせていた。
……その所為だろう。
一瞬、乱れかけていた矢の嵐が、また正確に俺の身体へと突き立ち始めていた。
「くそがぁっ!
邪魔だぁああああああああああっ!」
身体を叩く矢の痛みに苛立った俺は大声で吠えると、眼前で俺の行く手を遮ろうと設置されていた拒馬槍を右手の裏拳で砕く。
所詮、木材を組み合わせただけの……人や馬を防ぐための防護壁に過ぎないソレは、破壊と殺戮の神ンディアナガルの化身を食い止めるには、少しばかり役者不足だったらしい。
俺の裏拳の一撃で……その機能を終え、粉々に砕け散っていた。
……だけど。
俺を裏切ったデルズ=デリアムにとっては、その拒馬槍を破壊しようと俺が右拳を振るうため足を止めた……その一瞬こそが狙いだったらしい。
「今だっ!
喰らぇええええっ!」
今まで見ていたデルズ少年は、いつの間にか手にしていた弓を手放していて……その手に持った何かを、大きく振りかぶっていて……
──皮ひも?
デルズ=デリアムが手にしていたその紐状の何かが「スリングショット」とか呼ばれる、投石器だと……
即ち、このデルズ=デリアムという名の、小賢しいだけで弓もろくに射れないこの餓鬼が……この俺に勝つためだけに『聖樹の民』としての誇りである「弓と矢」を放棄したのだと気付いたのと。
その投石機から放たれた「何か」が俺の額に直撃したのは、ほぼ同時だった。
「……っ?」
とは言え、破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能に守られている俺に、非力な餓鬼が投げた石など通じる訳もない。
矢を喰らうほどの痛みもなく……少年が放った「何か」は、俺の額によってあっさりと砕け散っていて……
──冷たっ?
そして……その「何か」が砕けるのとほぼ同時に、額が何故か濡れたのを、俺が感じ取った。
その次の瞬間、だった。
「~~~~~~っっ?」
俺の額に当たり、弾け散った液体が、幽かに一滴……右目の中に、入ったと思った、その刹那。
突如、眼球が燃え上がるっ!
「目がぁっ?
目がぁあああああああああああああああああああああっ?」
──激痛。
いや、そんな生易しいものじゃない。
ただ、右目が、眼球が、熱い。
……焼けるように、何かが突き刺さったかのように、ただただ熱い。
俺は悲鳴を上げながら、手で目を抑えながら、涙が止まらないのを感じながら。
ただ情けなくも蹲り……歯を食いしばって、激痛に、何とか、耐える。
そうして動けなくなったのを狙っていたのか……四方八方から弱っている俺目がけ、矢が再び射掛けられ始めていた。
「やはり、効果がありましたか。
逆転の発想です。
発酵して酸と化した『聖樹の実』です。
矢が通じない堕修羅が相手でも、ボクたちと同じように味覚嗅覚視覚があるなら、この攻撃は通じると思ってましたよ」
蹲った俺は、次々と叩きつけられる矢の痛みに耐えながら……その言葉を聞いていた。
この状況でも冷静沈着にこちらを見つめる……デルズ=デリアム少年の声を。
──コイツっ!
そうして耐えていたお蔭だろう。
未だに飛沫が入った右目は涙が溢れ、景色が滲んで何一つ見えないままではあるが……何とか、激痛は収まってきた。
これなら、耐えられない、ことはないっ!
「き、さ、まぁああああああああああっ!」
激痛への怒りに俺は吠えると……全力で立ち上がり、あのクソ生意気な餓鬼の頭蓋を叩き割ろうと、前へと一歩を踏み出す。
……いや、踏み出そうとした。
デルズ=デリアムが……あの小賢しい小僧が、この瞬間をこそ狙っていたことに気付くこともなく。
「……そう来ると、思ってましたっ!」
その叫びと、涙で滲んだ右目の死角を狙ったかのような軌道で、デルズ少年が放った「何か」が俺の身体を……両足首を捉えたのは、ほぼ同時だった。
紐状の何かが足に絡みつく忌々しい感触に、俺の左目は自然と下を振り向いていた。
──流星錘、だとぉ?
足に絡む紐状武器の存在を知覚したその瞬間、俺の身体の奥底から、どす黒い塊が浮かんで来るのを知覚する。
久々に味わうそのどす黒い感情は、間違いなく「殺意」とか「激怒」とかいう存在だった。
「ふざ、けっ!」
次の瞬間、俺の口からはそんな言葉にならない声が零れ出ていた。
……だって、そうだろう?
この武器は……俺が、デルズ=デリアムに教えたのだ。
俺自身の精神的外傷を振り払ってまで……「聖樹の上では、こういう武器も有効だ」と教えるために。
彼ら『聖樹の民』が明日からも無事生き延びて、平穏無事に暮らせるためにと願ったからこそ、俺が過去の古傷に耐えながらも教えたその武器を……
──その、人の厚意を、俺に向ける、なんざっ!
許せない。
許される筈がない。
そうして湧き上がってくる激怒や殺意に身体を任せたまま、俺は足に力を込め……絡みついた流星錘を難なく引き千切る。
この程度の糸くずなんざ……今の俺には、何の痛痒も感じない、ただのゴミに過ぎないのだから。