参・第四章 第四話
「どうか、殺さないで、下さい。
……我らが主よ」
ミル=ミリアのその声を……いや、ミル=ミリアの身体に巣食っている蟲たちが口々に告げたその声を聞いた俺が感じたのは……
──ふざけている、のか?
同情でも憐みでも慈悲でもなく。
……ただの、嫌悪、だけ、だった。
──だって、コイツらは……殺したんだぜ?
この『聖樹の都』へと戦いに出向いて来た、つまり殺しに来た戦士ではなく……ただ暮らしていただけの、女子供を。
そして今、その少女の身体を濡らしている真紅の液体は……捕まっただけの、武器も持たぬ捕虜を一方的に殺し、喰らった証拠なのだ。
そんなコイツらが、自分が死にたくないからと言って命乞いをする、なんて。
──死にたくないのは、分かる。
俺だって死にたくないし、死ぬくらいなら殺して生きる。
だけど……だからと言ってコイツの存在を、生存を認めることは出来ない。
俺は、唯一の友人で、誰よりも正しく人望に溢れていたあのアルベルトのように……正義を、為すのだから。
……そのために、こんな腐れ果てた世界で、また血生臭い戦いの日々を送っているのだから。
そんな俺の内心に気付いたのだろう。
「……そう、です、か」
ミル=ミリアは……いや、彼女に擬態していた蟲たちは、相変わらず表情を感じさせない顔のまま、少しだけ落ち込んだような声で、そう呟く。
それでも、自分が死に直面しているというのに、取り乱す様子がなかったのは……コイツらにも分かっていたのだろう。
……自分がもう、助からない、ということが。
「覚悟は、決まったか?」
「……ええ。
分かっていた、ことです。
我々は、貴方様の人格を……深層心理の一部を複写しただけの、ただの模造品に過ぎないのですから」
右拳に力を込めながら問いかける俺のその声に、蟲たちはやはり静かに答える。
「……模造、品?」
その言葉に……信じたくない、だけど恐らくは事実であろうその声に、俺は思わず殺意を忘れ、ただ立ち尽くしてしまっていた。
そうして出来た僅かな隙を、生き延びるために利用しようと思ったのか、それともただ最期を迎える前に言い残したかっただけなのか。
立ち尽くす俺に向けて、蟲たちは言葉を続ける。
「だからこそ私たちは、命を惜しむ」
「何しろ貴方様自身が、今まで死にたくないと必死に生き続けて来たのですから」
「だからこそ私たちは、食欲に抗えない」
「何しろ貴方様自身が、飢えに耐えるような忍耐を持ち合わせていないのですから」
「だからこそ私たちは、殺しを厭わない」
「何しろ貴方様自身が、殺すことに一切の嫌悪も躊躇も禁忌も覚えていないのですから」
蟲たちはそれぞれの口で、次々と言葉を吐き出す。
俺自身の反論を許さない……反論する余地すらない言葉の数々を。
「だからこそ私たちは、強者である貴方様に媚びる」
「何しろ貴方様自身が、自分よりも強者に命懸けで抗おうという信念を持ち合わせていないのですから」
蟲たちの言葉は、続く。
俺が拳を握りしめていることに気付かないまま。
いや……その拳には既に殺意が充填しているということにも気づかないまま。
「だからこそ私たちは、貴方様に存在を認めて貰えない」
「何しろ貴方様の複写品である私たちの存在へのその嫌悪こそが、貴方様が目を背けている事実に気付か……」
「黙れぇええええええええええええええええええええええええっ!」
俺の忍耐力は……コイツらの戯言に耳を貸すことが出来たのは、この辺りが限度だった。
殺意を込めた俺の右拳は……知らず知らずの内に顕現していたンディアナガルの爪は、気付けばミル=ミリアの縦一文字に開いていた胸の傷を、豆腐のようにいとも容易く貫いていたのだから。
いつもの如く『爪』を発動した代償として頭痛が脊髄の奥まで響いているものの……怒りと嫌悪に思考を塗りつぶされた今の俺には、そんな痛み程度、無視出来る程度の痛みでしかない。
「……ふふ」
「これが、我らが主の、殺意」
「我らを、この世に生み落してくださって……
我らを、この世から殺して頂いて……」
「ありがとう、ございま、す。
我らが……神、よ」
蟲たちの戯言は、そこまでだった。
破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能は、例え聖樹によって制限されていたとしても、蟲如きに耐えられるものではない。
ミル=ミリアの身体に擬態していた蟲たちはあっさりと塩の塊へと化し……自重に耐え切れなくなったのか崩れ落ち。
聖樹の幹へとぶつかった瞬間、ガラス細工よりもあっけなく、粉々に砕け散っていた。
──これで、俺は、正義を、為したっ!
俺は心の中でそう叫ぶと……支えである蟲を失って崩れ落ちる、ミル=ミリアの遺体へと視線を向ける。
「……ぅぁ」
いや、残されたソレは……例え肉親が見ても、この遺体が本当にミル=ミリアという名の少女だったのかすら認識出来ないほど、酷い有様だった。
蟲が喰らった所為か、それともこの三日間で腐敗が進んでいたのか。
頭蓋は半ば砕け散り、頬の肉は腐敗を通り越して乾燥し尽くし、茶色の皮が骨に張り付いただけのような状態だった。
眼球も脳みそも完全に残っておらず、歯は蟲の出入りに邪魔だった所為か一本も残されていない。
胸に開かれた大穴の周囲は、腐った血と膿が凄まじい彩りのゲル状の何かへと変化していて、直視に耐えない有様だった。
四肢は蟲たちが筋肉の代わりとなって動作を助けていた所為か、幾つもの小さな穴が開いていて、まるでレンコンのようになっている。
そんなボロボロの遺体の中……たった一つだけ下腹部辺りに、まるでさっき死んだばかりのような臓器が一つだけ残っていて。
……蟲たちの言葉を信じるなら、それは、恐らく……子宮とその周辺臓器、なのだろう。
──くそっ!
初めて目の当たりにするミル=ミリアという少女の「本当の姿」に……俺はただ歯を食いしばって吐き気を堪えることしか出来なかった。
何しろ俺は……コレと生活をしていたのだ。
寝食を共にし、同じ部屋で長い時間を過ごしたのだ。
そして、このまま正体を知らなければ、いずれ結婚して……夜を共にしたかもしれないのだ。
──こんなのが、初体験の相手なんて、冗談じゃないっ!
その嫌悪に任せるがまま、俺は足元に転がった死体を蹴飛ばして視界から葬り去ろうとして……流石に思いとどまる。
戦場では数多の屍を築き上げて来たこの俺でも……死体で遊ぶような趣味は持ち合わせていない。
──取りあえず、コレで終わり、だな。
まぁ、事情は兎も角、正義を執行し終え……この『聖樹の都』は蟲の脅威から解放されたのだ。
そのことを伝えようと、俺は背後を振り返る。
──ん?
……だけど。
何故か『聖樹の民』たちは、未だに弓に矢を番えたままこちらの方を向いていて……
その顔には、あからさまな憎悪と嫌悪と殺意が伺える。
「……お、おい?
蟲は、もう……」
いなくなったんだぞ、と続けようと思った俺の言葉は……足元に突き刺さった矢によって遮られる。
それを放ったのは、何度か見た顔の……ファルス=ファルナムとかいう特徴のない男だった。
そして……その矢が突き刺さったのを契機として、『聖樹の民』たちの緊張は一気に限界まで上り詰めていた。
一言で言えば……さっきまでの「矢が放たれるかもしれない」ような雰囲気が、その一瞬の内に「いつ矢が放たれてもおかしくない」状況になった感じだろう。
──どうなって、んだ?
その向けられる矢と殺意に……俺はただ困惑することしか出来なかった。
……だって、そうだろう?
俺は、蟲を対峙して……正義を執行したのだ。
彼ら『聖樹の民』のために、正しいことを行ったのだ。
彼らの日常を、安心と安全を守ったのだ。
──なのに……何故、俺が、矢を、殺意を向けられる?
普段なら……今までの世界の俺ならば、こうして殺意を向けられるだけで、コイツらを塩の塊に変えることに一切の躊躇いも覚えなかっただろう。
そんな俺が、こうして自分に弓引くこの連中を殺せないのは、正義を為したという自負が……『正しいことをした』という思いがあった所為だろう。
──だが、どうして、だ?
彼らが俺に憎悪を向けている事実は、分かる。
だけど……その理由が、俺には理解出来ない。
──俺は、正しいことを、した、筈だ。
俺は指一本すらも動かしてはいけないような緊張感の中、考える。
自分がこの『聖樹の都』に来てから行ったこととを。
──女の子を、救った。
……ちょっとした手違いで、その少女は蟲の棲み処になっていた訳だが。
まぁ、元々死んでいたんだし……俺は、悪くないだろう。
──侵略者から、『聖樹の都』を救った。
……堕修羅とか呼ばれていた連中の武器を使い、彼ら『聖樹の民』が苦手な接近戦を引き受けて来た。
ちょっと強さを見せつけ過ぎた感はあるが……その程度で命の恩人であるこの俺に弓を向けるような真似はしないだろう。
──蟲の脅威から、彼らを解放した。
……次々に食われていた『聖樹の民』の、その仇を討ったのだ。
感謝こそされど……恨まれる覚えなど、欠片もない。
勿論、あの蟲は俺の権能から生まれたものだが……ミル=ミリアの死体に隠れたのだって俺が意図した訳じゃない。
先ほどの蟲とのやり取りを見られてはいるが……ああして蟲たちは俺に従わないところを見せつけたのだ。
俺があの蟲共を操っていなかったことくらい、分かってくれるだろう。
──やっぱ、俺は悪くない、よな?
考えれば考えるほど……理解出来ない。
俺は、間違ったことなど、していないのだから。
大体……こうして正義を行えば、みんなから好かれ、何もかも上手く進み、世界を救える筈なのだ。
──アイツと……アルベルトと、同じように。
……そう。
俺は正しい行いを心掛け、それを守ってきた筈である。
そうすれば……アルベルトのように振る舞っていれば世界も救えた筈だと、あのランウェなんとかって創造神も口にしていた。
──だから、俺は世界を救える筈、なんだ。
なのに……現実は何故か、俺に殺意と憎悪が集まっている。
訳の分からないその事態に、俺が困惑するのも仕方がないことだろう。
そうして周囲から殺意の中、俺は何かこの誤解を解いてくれる救いの主を求めて周囲を見渡していた。
その救いの主は、意外と簡単に見つかった。
葉っぱを編んだ帽子で、頭頂部を隠している少年……デルズ=デリアムと視線があったのだ。
「デル……」
「……何故、ですかっ?」
何度も命を救ってやったコイツなら……コイツの頭の良さならば、俺の誤解も簡単に解いてくれるだろう。
そう期待した俺が少年の名を呼ぶよりも早く……デルズ=デリアムは大きな叫びを発していた。
聞き慣れないデルズ少年の叫びに驚いた俺が硬直している間にも、少年の叫びは続く。
「何故、カル=カラナム一番隊隊長を殺したんですかっ!
答えてくださいっ!
アル=ガルディアっ!」
「……な、何だ、と?」
デルズ少年が初めて見せる殺意を込めた視線と、咽喉が潰れんばかりの叫びに……そして、その突如と出て来た名前に、俺は困惑を隠せない。
「彼の頭部は何故か……僅かに塩が付着していましたっ!
貴方が殺した人間は……理由は分かりませんが、塩へと変わるんでしょうっ!
先日、死んだ『泥人』たちが、そしてそのミル=ミリアさんの死体が……貴方の犯行を、全てを物語っていますっ!」
そんな中、放たれたデルズ=デリアムのその声に……俺は呆然と立ち尽くしていた。
彼らの怒りを……殺意を、理解してしまったからだ。
──だって、仕方ない、だろう?
──あんな下衆、生かしておいても……
俺の口がそう言い訳をしようと開き……すぐにその言葉を飲み込む。
俺を睨みつける連中の血走った目を見るだけで……言葉でどうにかなる状況じゃないと、俺でも分かってしまったのだ。
──くそ、二・三人潰せば、大人しくなる、か?
俺を取り囲む『聖樹の民』たちの、殺意に血走った目を見て、仕方なくそう判断した俺は……拳を軽く握りしめる。
さっきまで守ろうとしていた連中を殺すことに多少の躊躇いはあるものの……コイツらが先に、弓を引いたのだ。
……俺がこの場で暴れたとしても……正当防衛として赦される筈だ。
そんな俺の苦渋の決断を悟ったのか、デルズ=デリアムは眉を歪めながらも右手を掲げ揚げ……その合図を見た『聖樹の民』たちの手に力が込められ……弓が微かに軋む音が周囲に響く。
──痛い、だろうなぁ。
包囲網に全力で突っ込む覚悟を決めつつも、その音を聞いた俺は……自分に向けられた矢が刺さった時の痛みを想像してしまい、内心でそうぼやいていた。
ここが聖樹の影響下にある以上、破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能をもってしても、矢の衝撃全てを防ぎ切ることなど出来やしない。
恐らく……BB弾を撃たれたくらいの痛みが走る、予感がする。
もしくは割り箸で造った、輪ゴムピストルで撃たれたくらいのダメージだろうか。
勿論、その程度のダメージでは、命に別状はないものの……こんな意味もない戦いで痛みを感じるなんて、無駄以外の何物でもない。
──だからっ!
──さっさと、終わらせるっ!
そう決断してしまえば、後は簡単だった。
俺は痛みを最小限にしようと……顔面を左手で庇いつつ、身体を前に傾ける。
俺の動きを見たデルズ=デリアムが……少しだけ沈痛な表情で、その右手を振り下ろそうと動く。
その……一触即発の瞬間、だった。
突如、包囲網の後ろが……不意に騒がしくなる。
「……え?」
そのざわめきを聞きつけたのだろう。
デルズ=デリアムがちらりと背後を振り返り……そのまま、硬直してしまう。
そして……それは、俺も同じだった。
──なん……だと……?
何しろ、彼ら『聖樹の民』の後ろには、俺の足元に転がったままの死体であるミル=ミリアの兄であり、この『聖樹の都』において二番隊隊長という地位を誇る……重病で寝込んだままだった筈のミゲル=ミリアムが立っていたのだから。