参・第三章 第四話
「ミゲルっ?
お、おいっ?」
「どうしたんだ、おいっ?」
血を吐いて倒れ込むミゲル=ミリアムの姿を目の当たりにした俺は、その不可解な光景を前に思考停止してしまっていた。
──何が、起こった?
心当たりなんて……ない。
敵である『泥人』たちは、完全に俺に注目し切っていて……ミゲルたちの方へ攻撃を仕掛けた様子はなく。
物陰から暗殺者に刺されたような様子もない。
……大体、そんな敵があの枝に這い上がっていたら、同じように『泥人』へ向けて弓を構えたままの他の連中が無傷でいられる訳もない。
──一体、何が……
名目ばかりとは言え、義兄弟と名乗っていたミゲルの突然の異変に、俺は敵前であることを忘れ、完全に硬直してしまっていた。
「アル=ガルディアさんっ!
前をっ!」
そんな俺を硬直から解き放ったのは、俺の背後でへたり込んでいた、頭頂部の髪の毛を全て失ってしまった少年……デルズ=デリアムの叫びだった。
我に返った俺が視線を前に戻すと……眼前には、手に石斧を持ち、泥を身体中に塗りたくり、奇妙な仮面を被った男が五名ほど迫って来ている。
「我々から・目を・離すなどっ!」
「愚か・なっ!」
慌てて俺は武器を構えようとするが……ついさっき流星錘を放ったばかりで、何も持ってやしない。
そして……殺しの経験は数え切れないほどあるものの、格闘の心得なんざない俺に、眼前に迫った石斧を素手で防ぐ術など、ありはしない。
──間に、合わ、ねぇっ?
瞬時に判断した俺は、器用さも何もかもかなぐり捨てて、必死に頭だけを庇うべく、右腕を振り上げていた。
脳天を叩き割ろうと振り下ろされた『泥人』の石斧は、俺の右腕に突き刺さり……
「馬鹿・なっ?」
右腕の筋肉に力を入れた所為だろうか?
それとも痛みを覚悟して、右腕に権能を込めた所為だろうか?
俺の右腕に突き刺さった『泥人』の石斧はあっさりと砕け散っていた。
それでも、権能が今一つ不調な俺には、石斧の直撃を完全に防ぎ切ることは出来ないらしく……右腕の皮膚が少し破れたような、ゾッとする嫌な感覚が背筋を走る。
「……てめぇええええええええっ!
いてぇだろうがよぉおおおおおおおっ!」
自分の身体が傷つけられた怒りに身を任せた俺は、そう叫ぶと……砕けた斧を驚きの見つめる哀れな『泥人』の肩を左手で掴み……
「ぐぁあああああああああっ?
な、何をっ?」
そのまま力任せに持ち上げる。
ちょっと力を入れ過ぎた所為で、その『泥人』の肩は砕け、皮膚は裂けていたが……まぁ、些事でしかない。
俺は左の感触を意識から切り離すと……激痛に暴れる『泥人』の左足首を、右腕で掴み直す。
「てめぇっ!
バゼ=バルゼを・離せっ!」
「一斉に・かかれっ!
今・なら……」
俺の両手が塞がったのを好機と見たのか、それとも俺に掴まれた仲間を見捨てられなかったのか。
もしくは、ミゲル=ミリアムが血を吐いたことで、彼らに降り注ぐ矢が止んだことに気付いたのか。
仮面を被った『泥人』たちは、俺目がけて一斉に襲い掛かってくる。
だけど……甘い。
「……阿呆がっ!」
俺は右手で足首を掴んだままの『泥人』を、渾身の力で振り回す。
手元に武器がなかった俺は……男の身体を武器としたのだ。
とっさの代用品とは言え……数十キロの人間という『質量』は、下手な長柄の矛よりも効果的な『鈍器』である。
「うぁ・あああああ・あああぁぁぁぁぁ……」
「ひぃ・いいいいいいぃぃぃぃぃぃっ……」
俺の横薙ぎの一撃によって、最前列で盾を構えていた筈の『泥人』二人は、盾ごと吹っ飛ばされ……聖樹から姿を消していた。
……まぁ、助かることはないだろう。
そして、それは武器とされた方も同じで……
「ぅぁ・ぅぁ・ぅぁぁぁっ」
幸か不幸か、そのバゼ=バルゼとか呼ばれた『泥人』は、今のところまだ命はあるようだった。
尤も、俺が見る限り……コイツは命があることを喜んでいるとは思えなかったが。
何しろ、俺が掴んだ右足は粉砕骨折していて、ヤバい色に変色していたし、それなりの力で盾に叩きつけた所為か、腕は捻じ曲がり顔面は半分ほど潰れている。
その挙句、叩きつけられた方の『泥人』が持っていたらしき槍が、脇腹に突き刺さっていて……だと言うのに、その痛みすら感じていない有様なのだ。
……この状態で、生きているのを喜ぶヤツもいないだろう。
と言うか……
「……ちっ。
もう、使えねぇな、こりゃ……」
俺の握力により粉砕骨折してしまった所為か、ソイツの足は訳の分からない方に捻じ曲がり……ぶらんと垂れ下がるばかりで、武器として振り回し辛くなっていた。
使えない武器をこれ以上抱えていても仕方ないと判断した俺は、バゼ=バルゼとか言う名前のソレを適当に放り捨てる。
そのゴミの最終処分は……重力と聖樹の根が行ってくれるだろう。
「さてと、次の武器は……」
仮面の奥に隠れて分からないが、『泥人』たちは相変わらず恐怖と驚愕に顔を歪めているのだろう。
その隙に俺は次の武器を取りに連中に背を向ける。
俺の予想通り……さっきの一撃で完全にビビっている連中は、無防備な俺の背中に攻撃をしかけようとすらしなかった。
「な、な、何なんですか、貴方、は……
幾ら、堕修羅でも、あんな、あんな……」
振り向いたその先では、哀れにも頭頂部の毛を全て失ったデルズ少年が全身を震わせながら怯えた声を上げていた。
どうやら俺は少しばかりやり過ぎてしまったらしい。
……とは言え、今はそれどころじゃない。
俺は並べてあった残り少ない武器から、適当に普通の矛を掴むと……怯えているのを無視してデルズ少年の方へと視線を向ける。
「そんなことより……
ミゲルは……アイツは、一体どうしたんだ?」
「……ぁ、ああ。
アレは……その、『腐泥の穢れ』に、毒された、のでしょう。
ああして、血を、吐いてしまえば……もって、あと一日と、言われて、います」
今までは俺に様々な知識を授けてくれたデルズ=デリアムの博識だったが……今度ばかりはそれに感謝出来そうにはなかった。
何しろデルズ少年は、無慈悲で冷酷な事実を告げていたのだ。
明日には、ミゲル=ミリアムは死んでしまう……と。
「馬鹿なっ!
今まで、そんな兆候なんざっ……」
……大体、『腐泥の穢れ』なんざ、迷信じゃなかったのか?
思考がまとまらない。
考えが、まとまらない。
ただ分かっているのは……このままでは明日にでも、ミゲル=ミリアムが死んでしまうということ、だけで。
……形ばかりだったとは言え、義兄弟と呼ばれていた相手が死ぬのだ。
その事実を前に、動揺した俺は怒声を上げかけ……すぐに気付く。
──本当に、今まで兆候がなかったか?
先日、ミル=ミリアが俺の手を握ったところで、激昂しかけたアイツが、突然背後を向いて立ち去ったのは何故だ?
蟲が『聖樹の民』を襲うような緊急時に、「弓の弦を張り替えている」なんて理由で……予備の弓は幾らでもあるのに、そんな些細な理由で前線に出なかったのは何故だ?
あの日は、一日中ミゲルの顔を見ることはなかったが……体調を崩して部屋に引きこもっていたのであれば、説明はつく。
……ついて、しまう。
だからこそデルズ少年は、そんなミゲルの様子を不審に思い、俺に「おかしなところはないか?」と尋ねて来ていたのだろう。
「……馬鹿、な……」
その事実を振り払おうと、俺は首を左右に振るが……生憎と、どれだけ膂力があろうとどんな権能を持とうと、事実を振り払える筈もない。
──死ぬ……死ぬ、のか?
今まで数多の世界で無数の修羅場を潜り抜けて来た俺は……自分で言うのもなんだが、人の死には慣れている方だと思う。
手足の指でも足りないほどの敵を殺したし、数えるのも嫌になるほどのクズ共を死に追いやった記憶がある。
──それでも……
それでも、顔見知りが死ぬのを見るのは、嫌な気分になるものだ。
この嫌な気分に任せて……世界の全てをぶち壊したくなるほどには。
「……くそったれっ!」
俺はその腹の奥底から湧き上がってくる激昂に歯を食いしばり……視線を、殺意を眼前で群れている仮面の『泥人』へと向ける。
別に、コイツらに恨みがある訳ではない。
……だけど。
この地を覆う『腐泥の穢れ』でミゲルが……俺の義兄弟が死ぬってのに、その腐泥を身体中に塗りたくっている馬鹿共が目に入ったのだ。
それだけで……殺すには、十分過ぎる理由だろう。
「な・何だ・コイツはっ?」
「く、くそっ!
迎え・撃てっ!」
俺の剥き出しの殺意に気付いたのだろう。
仮面の『泥人』どもは、せめてもの抵抗のつもりか石槍を突き出してくるが……今の俺にとって、そんなものは河原を歩くときの葦程度の抵抗でしかない。
左腕で石槍を撫で折ると、右手の矛を軽々と振り回し……血と脳漿を散らばらせる。
穂先が当たれば、多少なりとも左腕が痛むが……所詮は皮一枚の怪我。
今の激昂している俺にとっては、意に介すのも面倒な程度の痛みでしかない。
「何、抵抗しているんだ、クズ共。
……ミゲルの奴が、死にそうなんだ。
お前らが、何故……無駄に生きようとしているんだよ」
「くっ・コイツ……」
「ひ・ひぃぃぃっ?
たす・助けて・助けてくれぇええええっ!」
そうして、俺が八つ当たりで十幾つかの死体を築き上げた時点で、連中の統率は限界に達したらしい。
必死に俺に背を向けて逃げようと暴れ始め……狭い聖樹の幹の上で、密集陣形のままだった『泥人』たちは、その混乱の所為で、見事に堕ちる堕ちる。
俺が一歩前へ踏み出すだけで、数匹の『泥人』が落ちていく。
そうして前に足を踏み出すだけで『泥人』共を殺せると分かっていても……十数人殺した程度では怒りが収まらない俺は、近くにある背中に矛を無意味に叩きつけ、血の雨を周囲に振らせ続ける。
もはや戦闘は終わりを告げ、後はただ作業という名の殺戮を繰り返すだけになった。
……そんな時だった。
「静ま・れぇっ!
馬鹿共・がっ!」
イビツな鬼……としか表現しようのない、ブキミな仮面をつけた巨漢が、人混みを割って歩いてきたのだ。
右手に巨大な石斧を、左手に長い石槍を持つソイツは、明らかに周囲の雑魚共とは一線を画す気配をまとっていて……
「……コイツ」
久々に目の当たりにした、戦巫女セレスやアルベルトに匹敵する気配……即ち、達人や超人とも言うべきソイツの存在感に……
──コイツは……
俺はミゲルが死ぬという焦りも、怒り任せの八つ当たりも忘れ……右手の矛を少し強く握りつつも、足元の感触を確かめる。
胸の奥底から湧き上がってくる直感が告げるのだ。
今の権能が不調な俺にとって、コイツとの戦いに気を抜くと……命取りになりかねない、と。
「しかし・こヤツが……
ベーグ=ベルグス・族長代理っ!」
「黙・れっ!
もはや・戦いの継続は・無意味っ!
逐次・撤退を・始めよっ!」
それは、統率力、というものだろう。
この巨漢……ベーグ=ベルグスの一喝によって、さっきまで恐怖に我を失い、逃げ回っていた『泥人』たちは、規則正しく撤退を始めたのだ。
「……くっ!」
人様の土地に入り込んだ連中を、黙って逃がす訳にもいかない。
そう考えた俺は、一人でも多く矛の餌食を作るべく、前に一歩を踏み出す。
……だけど。
「……名も知らぬ・堕修羅よ。
悪いが・ここから先は・通行止めだ」
俺の前には……ベーグ=ベルグスとかいう巨漢が立ち塞がっている。
どうやらコイツは……戦いが終わったのを見届け、殿を買って出たらしい。
──どうする?
眼前の巨漢の放つ強者の雰囲気に……戦えば負けて死ぬことはせずとも、怪我を負いかねない圧力に、俺は二の足を踏んでいた。
実際、勝手に人様の家に土足で上がり込んでいて、好き勝手に逃げ出した『泥人』共が気に入らないのは事実である。
だけど……コレを相手にするのは、ちょっとばかり骨が折れる作業だった。
──面倒、だな。
俺としても、『聖樹の民』に数日の宿と食事の義理はあるのだが……皮膚一枚程度なら兎も角、大きな怪我をしかねないリスクを負ってまで、戦い続けるほどの恩がある訳でもない。
「逃がして・くれるなら・俺は・それで構わぬが?」
俺の躊躇に気付いたのだろう。
仮面の巨漢は一瞬だけ『泥人』たちの様子へと目を配り……直後、まっすぐにこちらを睨みつけながら、堂々とした口調で俺にそう告げる。
「……なん、だと?」
その一言を聞いた俺は、思わず目を見開いていた。
コイツは、こういったのだ。
……追ってこないなら、見逃してやる……と。
破壊と殺戮の神ンディアナガルの化身たる、この俺に向かって、上から目線で、偉そうにっ!
──っ!
身の程を弁えないその一言が、俺の怒りに火をつけ……
その激情は、さっきまで俺の足を聖樹の幹に縫い付けていた躊躇を、容赦なく吹き飛ばしていた。
「……っ、馬鹿に、してんじゃねぇえええっ!」
激昂した俺が選んだ選択肢は、右手に持っていた矛を……ただ力任せに横薙ぎに振るっただけだった。
その一撃を見たベーグ=ベルグスは……身の程知らずにも、右手に持った石斧を、真っ向からぶつけてきやがったのだ。
……まるで力比べでもするかの如く。
そして……その結果は、この目で見ても信じがたいものだった。
「馬鹿なっ?」
俺の口からは知らず知らずの内に、そんな悲鳴にも似た呻き声が零れ落ちる。
何しろ、俺が放った矛の一撃は……巨漢の右腕が振るう石斧によって、あっさりと砕け散ってしまったのだから。
──俺が、膂力で、負けた、だと?
俺は眼前で起こったその光景が信じられず、目を見開いたまま動けない。
幾ら、先ほどの一撃は、俺が一番力の乗らない柄の先端部分を握っていて……その上、片手で振るっただけの、おざなりな一撃だったにしろ。
幾ら、俺の……破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能がこの『聖樹の都』に着いてから、今一つ調子が出ないままだったにしろ。
それでも……今まで如何なる存在でも押し切っていた、この俺の膂力が、通じないなんて……。
その事実を前に俺は一歩後ろへ後ずさる。
だけど、すぐに気付く。
──いや、違う。
コレは、武器同士を叩きつけ合って、俺の武器が壊れただけであり……俺の膂力が負けた訳じゃない、ということに。
単純にこの腐りかけた矛の、強度が足りなかっただけ、だろう。
実際、ベーグ=ベルグスとかいう巨漢は、俺の一撃によって叩きつけた右腕の石斧ごと身体を数メートルほど後ろへ吹っ飛ばされ……
その挙句、武器同士がぶつかり合った衝撃で肩の関節が外れたのか、右腕が明後日の方向を向いているのが見て取れる。
……だけど。
「まだ……この程度・でっ!」
矛を壊してしまい無手となった俺が、まだ無傷の左手と石槍を持つコイツと正面衝突するのは……少しばかり骨が折れるだろう。
現に今も、右肩が外れているにも関わらず、その仮面の奥に見える瞳は、未だに戦意を失っているようには見えない。
俺にはこの巨漢が、このまま黙って退いてくれるとは思えなかった。
仮面の巨漢であるベーグ=ベルグスと向き合ったままの俺は、もはやただの棒と成り下がった矛の残骸を投げ捨てると、素手で戦おうと……いや、顔と咽喉を庇うべく、両腕を胸の位置まで引き上げる。
「……このままじゃ、ヤバい、な」
俺は口にそう呟くと、なるべく怪我をしないように祈りつつ……眼前の巨漢とにらみ合いながら、拳を強く握りしめたのだった。