参・第一章 第四話
そうして俺とミル=ミリアは、ミゲル=ミリアムとかいう青年の案内するままに、ヘドロの沼をただ歩き続けた。
……と言っても、それは、そう長い時間ではなかっただろう。
彼らと合流してからすぐに、周囲に並んでいた朽ちた木々は緑の……まだ生きている木々へと変わっていたし。
更に、案内人がいるという安心感もあり……俺たちの道行は、普通に林の中を歩く程度の労苦しかない、ゆったりとしたものへと変わっていたのだから。
──助かった。
何よりも、死臭と腐臭を混ぜ合わせた、吐き気を催す悪臭から解放された俺は、思わず大きく息を吸い込んでいた。
緑の……少し鼻を擽るような木々の匂いが、これほどまでに嬉しいと思ったことなど、今まで一度もなかっただろう。
俺は肺の中から自分自身が洗浄される気分で、大きく息を吸い込み、吐き出す。
ヘドロの沼を歩き疲れた俺は、そうして軽く一息ついた途端、好奇心の前に敗北し……すぐにその眼前の『巨大な塊』へと視線を向けていた。
──凄まじい、な。
──これが……樹、か。
俺の眼前にあった『モノ』……薄霧の向こう側まで続くようなソレは、文字通り『巨大な木の塊』としか表現しようのない物体だった。
あの塩の砂漠で見た巨大な城塞のような……絡みついた木々で出来た、複雑怪奇な形をした、緑と褐色の、とてつもなく巨大な、塊。
巨木に巨木が絡みついて出来た、その塊の節々には、人々が打ち込んだのだろう階段やロープ、柵などがかけられていて……
他にも、あちこちの枝の上や、大きな洞の辺りに、樽やロープなど……木の上にあるとは思えない、妙に生活臭溢れる道具が目に入ってくる。
──何で、こんな場所に、こんなものが?
そうして薄霧の向こう側に霞む、常識を三つくらいぶち抜いているような、その巨大な木の塊を見上げるのに数分間を要した頃、だろうか?
首が痛くなって視線を落とした俺に向け、ミゲル=ミリアムは穏やかな笑みを向けると……
「ようこそ、アル=ガルディアよ。
……我らが、『聖樹の都』へ」
まるで俺を歓迎するかのように、そう告げて来た。
──聖樹、ね。
どうも聖剣とか聖槍とか、『聖』という名のつく品に良い思い出がなかった俺は、折角歓迎してくれているらしき青年の言葉にも、ただ軽く肩を竦めただけだった。
あの悪臭から解放されたことは嬉しい限りなのだが、俺にとって……いや、俺に宿る破壊と殺戮の神ンディアナガルにとっては、どうやらこの聖なる場所はあまり居心地の良い場所ではないらしい。
……何となく、周囲に圧迫されるような、身体が押さえつけられるような感じがある、ような、気が……
──いや、気のせい、か?
よくよく周囲を伺ってみると、木々の枝の上や、あちこちに空いている洞の中から、こちらを伺うような、警戒するような鋭い視線が幾多も向けられていて……
それが圧迫感のように感じられたのかもしれなかった。
一応、これでも殺意や敵意を至近距離から直接向けられることには慣れっこになる俺ではあるが……こう遠巻きに、『手の届かない場所』から殺意や敵意を向けられるなんてのは、まだ慣れぬ経験で……
「……ま、どっちでも良いか」
圧迫感が鬱陶しくはあるが、そうして遠巻きにこちらを伺う連中も、別に何かをしてくる訳ではない。
その上、この聖なる圧迫感とやらが実在するにしても、俺の……いや、「破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能自体には、何の支障もない」という確信がある。
だから例えコレが俺の苦手な『聖なる』樹だろうと……もしくは、ただのデカいだけの樹だろうと、俺にとっては関係のない話だった。
──ん?
そうして俺が再び聖樹へと視線を向けると……少し遠くの根元辺りから、上へと続く道らしきモノが続いているのが目に入ってきた。
とは言え、その道を造っているのは樹に打ち込まれた細いロープや、横に敷かれた半分の丸太など、道と呼ぶのも粗末な階段で……どう見ても頻繁に往来するための道とはとても思えない。
つまり……上にいる彼らは、この樹の上で暮らしているのだろう。
「何でまた、こんなところに……ん?」
思わず俺はそう呟くものの……その疑問はすぐに解消される。
ふと足元に触れた冷たい感触に、俺が視線を落としてみると……木々の根っこからは一体どういう原理になっているのか清浄な水が湧き出しており、大きな泉になっていた。
どうやら、その泉から流れ出た水が、俺の足元を濡らしたのだろう。
と、そうして俺が視線を樹へと向けた、その時だった。
眼前の……聖樹の根元に湧く大きな泉に向けて、上部からは今も吊るされた桶が降って来て……
──水を汲んでいる、のか?
さっき降ってきた水の入っているのだろう桶は、俺が見ている間に、十メートルどころじゃない距離を延々と登って行く。
上の方には、その桶を持ち上げる男の姿があって……
それを見た俺は、彼らは生活を……この聖樹とやらの上で完結させているのだと理解する。
……そう。
彼らにとって、この樹は本当に生活の全てを依存する、文字通り『聖なる』樹、なのだろう。
「……不便、だろうになぁ」
エレベーターや水道どころか、通販までもが実在する現代日本から来た俺は、そのゆっくりと持ち上がっていく桶を見ながら、今度は口に出してそう呟いていた。
……水道も電気もない中、高層ビルに住むような感覚だろうか。
俺は何となく、少し前に「木々の上に住む東南アジア系の民族」とかいうテレビ番組を見たのを思い出していて……ついその言葉を口から零してしまったのだ。
尤も……幸いにして俺のその呟きは、周囲の連中の耳には入らなかったようだが。
「……ふぅ。
さて、やっとこの暑苦しいのを脱げる」
「ったく。
また生きて帰れる、とはな」
「……二度と帰らぬ覚悟をして、飛び出したから、な。
正直、もう一度外へと飛び出したい気分なんだが……」
ふと、周囲から聞こえていた「薄布を通さない」素の声に俺が視線を周囲へと戻すと、さっきまで着ぶくれした布の塊だった男たちは、その身体を覆っていた布きれを足元へと脱ぎ捨てているところだった。
その布の下から現れた、痩せこけたような、栄養失調っぽい彼らの顔には、何処となく悲壮感が漂っていて……
「……そう言うなよ、カル=カラナム。
そして、ベル=ベンザム。ファルス=ファルナムも。
俺たちは、ミルを助け出し、こうして、帰ってこられたんだ。
その……お前たちには、悪いが、な」
「……そう言うな。
ミル=ミリアが助かっただけでも、良しとしよう」
「ああ。そうさ。
だが……次に来たら、見てろよ。
くそったれの、『泥人』どもめ」
男たちはそう言葉を残すと、聖樹に打ち込まれてある横木の階段を身軽に登り始める。
まるで身体の重さを感じさせないその動きは、まるでサーカスか何かを見ているような感じで……ほんの一分もしない内に、彼らは樹の影に隠れて見えなくなっていた。
「……くそ。気を使いやがって。
お前たちこそ、身内を亡くして、辛いだろうに」
彼らの背中へと視線を向けるミゲル=ミリアムが、申し訳なさそうにそう呟くのを聞いて、俺はようやく理解する。
──ああ、そういう。
恐らく彼らは、身内を……あの生贄として殺された少女たちを助けようと、決死の覚悟でこの樹から外へと足を踏み出したに違いない。
尤も、俺が助け出したのがミル=ミリア一人だったという事実だけで、少女たちの死を理解していたらしく……道中、言葉を濁した俺の説明を聞いただけで、全員が少女たちの死と、そして仇を俺が皆殺しにしたという事実を受け止めてくれたのだが。
──もしかしたら、彼ら自身も……助けられるなんざ信じていなかったの、かもな。
首を落とされた少女たちの亡骸を……その悲痛な表情を思い出した俺は、少女たちを救えなかった事実に、少しだけ歯噛みする。
とは言え、あのタイミングで召喚された以上、俺に何かが出来る訳でもないのだが。
──ま、仇は取ったし。
──一人だけでも救えたから、良しとするか。
そんなことを考えた俺は、唯一助けられた少女の方へと視線を向けるものの……彼女は身体を覆うベールを脱いだだけで、何枚も重ね着をした暑苦しい服を脱ごうともせず、ただ呆けたように突っ立っている。
……いや、違う。
すぐにその少女は、周囲の何かに怯えているのか、俺の背中に隠れるように、制服の裾を握り始めたのだ。
──なん、だ?
少女に懐かれる理由が思い当たらなかった俺は、首を傾げるものの……その理由はすぐに判明する。
何しろ周囲からは、相変わらず奇異と敵意に満ちた視線が、俺の方へと向けられていて……
……どうやらこの聖樹とやらの住民は、あまり余所者を歓迎する風習はないらしい。
そして、まだ幼さの残るミル=ミリアは……こうして俺に向けられている敵意を敏感に感じ取ってしまったのだろう。
それなら兄貴の方へしがみ付くのが普通の反応だとは思うが……まぁ、この美形で華奢で頼りなさそうな兄よりも、命の恩人である俺の方を頼みとした、のかもしれない。
まぁ、理由はどうあれ……正直なところ、美少女に懐かれるというのは、そう悪い気はしない。
「……ま、まぁ、恩人。
こっちへ来てくれ。
我が家へと案内しよう」
そんな俺たち二人に、少しだけ眉を吊り上げたミゲル=ミリアムだったが……流石に俺から妹を引き剥がすようなみっともない真似をしようとは思わなかったらしい。
すぐに青年は先導するかのように、聖樹の階段を登り始めていた。
──っとと、コレは、かなり。
ミゲル=ミリアムの先導に従って、その道を歩き始めた俺は、ほんの一分も経たない内に、この世界へ来たことを再び後悔し始めていた。
……何しろ、『怖い』、のだ。
歩く度に、足場である横木はギシギシとヤバい音を立てているし、下に浅い泉はあるものの、ここから落ちたらかなり痛いことになるだろう。
──う、おぉ。
第二の創造神の策謀によって、高いところから異世界へと放り出された俺は、少しばかり高いところに対して、苦手意識が植え込まれてしまっている、らしい。
どうもこう……丸太に乗っている足の感覚が覚束なく、重心を満足に前へと運べない。
二の足を踏み出す、ただそれだけの行為に、大きな覚悟と決断を要する。
……要は、俺の体勢は見事な『へっぴり腰』になってしまっていたのだ。
──コレ、は……
俺が自分の身体を縛り付ける『ソレ』を、『恐怖』だと認識するのにそう大した時間はかからなかった。
とは言え……自分が怯えているなんてことを、今まで『破壊と殺戮の神ンディアナガル』として無敵を誇ってきた俺が、そう容易く認められる訳もなく。
俺は必死に虚勢を張ろうと歯を食いしばり……前へ前へと足を踏み出す。
……だけど。
やはり俺の足は、思い通りには動かない。
「大丈夫、デすか?」
「……あ、ああ」
そんな俺に気遣うような声を上げたのは、俺が助けた筈の少女……ミル=ミリアだった。
少女の動作は未だに、助けた直後の……薬品の影響らしきぎこちなさが多少残っているものの、それでも彼女は随分と手馴れた様子でその横木を登って行く。
──くそ、格好悪いっ!
少女よりも歩くのが遅いという事実に、俺はそう自分を叱咤するものの……魂の底に刻まれている『高所』という新たに生まれた俺の弱点を、簡単に克服できる筈もなく。
俺はおっかなびっくりその木杭の上を歩き続け……
そうして俺は酷い労苦の末にようやく、木々の上にある『聖樹の都』へと足を踏み入れたのだった。