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【完結済】ンディアナガル殲記  作者: 馬頭鬼
参・第一章 ~腐れ行く世界~
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参・第一章 第三話


 ──何だ、これはっ?


 蚊の津波とも言うべきその羽音と迫力を前に、俺は思わず後ずさっていた。

 いや、俺を後退させたのはその迫力でも、その数でもなく……ただの生理的嫌悪だったのだろう。

 破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能を手に入れる前の俺は、ただの人間に過ぎず……蚊に食われて嘆いたことなんて、それこそ数えきれないほどもある。

 勿論、今の俺が蚊如きに皮膚を貫かれるとは思えないものの……それでもあの痒いという感覚は、身体がまだ覚えている。

 その首筋に走る痒みの記憶に、何度も聞かされた蚊の羽音の鬱陶しさに、そして、膂力だけではどうにもならない、十万・百万単位の蚊の群れを前に……流石の俺も怯みを隠せない。

 そうして俺が思わずもう一歩後ずさった、その時だった。


「……ぁあアぁっ」


 顔までもが布に巻かれている所為で、その表情は窺えないものの……俺の背後に立っていたミル=ミリアが怯えたような、小さな悲鳴を上げていた。

 足場を気にしているのか、それとももう諦めてしまったのか……逃げるでもなく抵抗する素振りすら見せない彼女だったが……

 それでもあの蚊の大群に嫌悪し、恐怖していることだけは伝わってきた。


 ──無理も、ない。


 例え一匹一匹は大したことのない蚊の群れだとしても……あれだけの数に一斉に血を吸われたら、身体中の血液全てを失って果てかねない。

 そうでなくても、あれだけの蚊に身体中を吸われたら、痒みに耐えかね……自ら命を絶ちたいと思うだろう。

 俺がそんなことを考えた所為、だろうか?

 不意に俺の脳裏に……あの砂漠で見せつけられた、身体中を鋭利な刃物で貫かれた、少女の亡骸の姿が浮かび上がってきた。

 ……それは、俺が守ろうとして、だけど守れなかった少女の姿。

 だからこそ、俺は……このまま眼前で少女が殺されるなんて、見過ごせない。

 絶対に、許せる、筈がない。


 ──また、守れないなんて、冗談じゃねぇっ!


 そう歯噛みした瞬間、俺の右腕が急に熱を持ち始める。

 人間をあっさりと屠れる腕力をもってしても、たった二本の腕ではどうしようもなさそうだった、その蚊の大群が相手だったとしても、この破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能があれば、どうにかなりそうな……そんな確信が湧いてきたのだ。

 ただ脳裏に浮かぶその確信に操られるように、俺は右腕に権能を込め……空間を切り裂く『爪』を発動させる。

 

「ぅぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」


 そのまま、蚊の大群が迫ってきている方に目がけ、俺は大きく右腕を横薙ぎに振るう。

 俺がしたことと言えば、ただそれだけだったが……

 それでも、こんな雑魚の群れなんざ、ただ『それだけ』で十分だったようだ。

 ……俺の『爪』によって切り裂かれた虚空は、周囲に権能の余波を生み出す。

 それは、あの巨大な老蟲を切り裂いた時、傷口が塩と化していたのと同じ原理なのだろうが……小さな蚊にとって、その余波だけでも致命的になるらしい。

 破壊と殺戮の神ンディアナガルの『爪』は、空間を切り裂き、空中に存在していた蚊の大群を一瞬の内に塩へと変えたばかりか、周囲に漂う薄霧をかき消し……見渡す限りの枯れた木々や、悪臭を放っていたヘドロの沼までもを塩の塊へと変化させていたのだから。


 ──なっ?


 その予想を遥かに超えていた『爪』の威力に、俺は思わず自分の右手へと視線を落としていた。

 今までの俺の権能では、どう足掻いても百~二百メートルほど……巨大な蟲を真っ二つにするのが精いっぱいだったのに。

 それが……さっきのは一キロほどの爪痕が続いているように見える。

 幾ら大勢の蚊を狙うために、大きく『爪』を振るった結果とは言え、流石にコレは……


 ──二柱目の創造神を屠った結果、か?


 あの砂漠で創造神らんうぇ……何やら面倒な名前の創造神が喋っていたの中に「破壊と殺戮の神ンディアナガルは殺した者の権能を奪う」とか何とかあったような気がする。

 ……いや、そう語っていたのは名前も知らない蟲皇の化身だったかもしれないが。

 兎に角、そういう理由で俺の権能は力を増しているのだろう。

 あの塩の砂漠で戦っていた頃より確実に進化した権能が創り出した、ヘドロだらけの地獄を、塩原へと上書きしたその光景に、俺は一瞬だけ怯むものの……


「ま、良いか」


 大は小を兼ねると言うし……力が強いに越したことはないだろう。

 俺は肩を軽く竦めると、その事実を深く考えないことにした。


「……やハり、堕修羅……」


 そんな俺を見て、背後の少女はそんな呟きを零していたものの……


 ──堕修羅?


 そんな疑問などよりも、今は一刻も早く……この臭くて不快な地獄から抜けることの方が大事だった。

 俺のその必死の思いが通じたのだろうか?


「……では、先ヲ急ぎマス」


 布に身体中を覆われたミル=ミリアは、そう告げると……またしても死臭と腐敗臭に満ちた地獄の中を、歩き始めた。

 眼前には、死臭と腐敗臭の湧き出すヘドロがまだ延々と続いていて……

 ……生憎と俺たちが向かう先は、塩の平原と化した場所とは全く別の方向だったらしい。




 その先の道行は、それほど労苦は感じなかった。

 少しずつ立木が増えて来て……歩ける場所が増えて来たということが一つ。

 そしてもう一つは……

 鼻の奥から脳髄をぶん殴るような、吐き気を常に催していた悪臭が薄まってきたことも大きいだろう。


 ──もしかしたら、ただ慣れて来ただけ、かもな。


 未だに周囲にはヘドロが溢れ、歩く度に腐敗臭が湧き上がってくるものの、その臭いは眉を顰める程度に過ぎず……空っぽになった胃から胃液を逆流させようとはしなかったのだ。

 それに、薄霧の向こう側に、何やら少し大きな影が……うっすらと浮かび上がっているようにも見える


「……もう、少し、デす」


 俺と同じものを見たのだろう。

 布で身体中を覆った少女が、そう小さく呟く。


 ──やっと、か。


 少女のその言葉を聞いて、俺は大きく息を吐き出していた。

 どうやらこの腐れ果てたヘドロこそが、この世界を襲う災厄なのだろう。

 だったら、このヘドロを俺の権能で全て吹っ飛ばせば……


 ──いや、下手にやらかすと、また失敗するな……


 不意にあの砂漠で見せられた……蟲皇『ン』を狩ったのに何一つ上手く行かなかった、あの蟲に喰い荒らされた巨島を思い出した俺は……

 一面を塩へと変えようと握りしめていた拳から、すぐに力を抜いていた。

 ……そう。

 ただ膂力に任せて、何もかもを倒せばハッピーエンド……なんて、簡単には世界を救えないことを、あの砂漠での経験から俺は学習していた。

 正義を執行するためには、その世界を歪めている『悪』を見つけ出さなければならないのだ。

 あの、塩の世界で勝手な予言を信じていた「最後の領主」のように。

 あの乾いた世界で紅石(こうせき)を用いて巨島を支配していたクソ共のように……

 そうして目標を再確認した俺が、気分よく顔を上げた、その時だった。


「おわっ?」

 

 俺の隣に立っていた枯れ木に突然、矢が突き刺さったのだ。

 勿論、そんな矢一本で俺の身体を貫ける訳もないのだが……不意を突かれるとやはり驚きは隠せない。


「敵かっ!」


 俺はミル=ミリアを身体で庇うと、あの洞窟から持ち出してきた石の斧を構える。


 ──どっから、来るっ?


 俺は必死に目を凝らし、襲撃者の方向を睨みつける。

 手の中にある武器は石製の手斧一つだけではあったが……まぁ、俺が負けることはあり得ない。

 ……だけど、油断なんざ出来やしない。

 何しろ……俺が襲撃者を殺すことは楽勝でも、背後の着ぶくれした少女が殺されては何にもならないのだから。

 生憎と俺の膂力は人間の頭蓋を握り潰すほど凄まじいものの、反射神経や動体視力、思考速度は普通の人間と大差ない。

 つまり……時代劇のように飛んできた矢を受け止めたり、武器で防いだりするのは、難しいだろう。

 ……しかも。


 ──くそ、見えねぇ。


 薄霧の漂う、枯れた木々の間に人影など全く見えず……先ほどの矢が何処から放たれたかすら分からないのが実情なのだ。


 ──また、不意を打たれたら……

 ──この子が、矢に貫かれる光景を、見せられかねない。


 そうして俺が焦りを隠せないまま、歯ぎしりを周囲に響かせた、ちょうどその時。

 いつの間にヴェールを脱いだのか、その素顔を晒したままのミル=ミリアが、手斧を構えた俺の前へと歩き出したのだ。


 ──馬鹿かっ?


 俺は慌てて少女の前へと飛び出し、自分の身体を盾にするものの……どうやら俺の心配は杞憂だったらしい。

 少女の姿を見た途端、襲撃者たちが音も立てず……朽ちた木の陰から姿を次々と現したのだから。


 ──六人、もいたのか?


 現れた人影の数を数えた俺は、思わず驚きに目を見開いていた。

 この弓を手にした六人の襲撃者たちは、俺が助けたミル=ミリアのように、酷く着ぶくれしていて……顔すらも見えない有様だった。

 ……どうやらこの恰好が、この世界の正装なのだろう。

 ただ、そんな恰好のままヘドロの中を歩いているというのに、彼らは全く物音すら立てない。

 

 ──どうなってるんだか?


 その事実に俺が首を傾げている間にも、布だらけの襲撃者の一人……恐らく男だろうっ一人が前に出てくると、俺たちの方へと駆け寄ってくる。


「くっ?」


 残り五人が弓を構え、俺を狙っているのを知っているからこそ、俺はその向かってくる一人を薙ぎ倒しに向かえない。

 ただ近づいてくるソイツを睨みつつ、背中の少女を庇いながら、ゆっくりと後ずさるだけしか出来なかった。

 ……だけど。

 そんな俺の焦りは、ただの杞憂だったらしい。


「ミル!

 本当に、ミルなのかっ!」


「……兄、さん?」


 近づいてきた布だらけの襲撃者は、ミル=ミリアが行ったように顔を覆うベールを脱ぎしてその素顔を曝け出し、叫ぶ。

 その顔は……少女が呟いた通り、彼女に良く似てほっそりとした、美形と言っても過言ではない、好青年のソレだった。

 如何にももてそうなソイツの顔に、ついぶん殴ってしまおうかと拳を握る俺だったが……まぁ、美形と言えど人権も不要な悪人ではない。

 何となくその整った顔立ちにアルベルトのヤツを思い出した俺は、石斧を握りしめていた手からゆっくりと力を抜く。

 ……そんな俺を、コイツはどう見たのだろう?


「……で、この……何というか、非情に、その、命知らずの、彼は?」


 信じられないモノを見つめるような視線で俺を二度見した後……酷く言いづらそうに言葉を濁しながら、その少女の兄らしき青年は妹に向けてそう尋ねる。

 その不躾極まりない仕草に、少しばかりイラッと来る俺だったが……流石の俺でも、助けた少女の兄を苛立ち任せに殴り殺す訳にもいかず……

 ただ足元にあった出っ張った枯れ木の根っこを、右脚親指で潰して苛立ちを鎮めることにする。


「アル=ガルディアさま、デす。

 私を、助けて、くれまシた。

 こちラは、私の兄の……ミゲル=ミリアムです」


 青年の問いに対し、ミル=ミリアは俺とその青年とを交互に紹介してくれるものの……

 ミゲル=ミリアムという名の青年は、その紹介を聞いても、俺に対しての、「ものすごく変なモノ」を見つめる視線には全く変わりがなかった。


「おっと、その……失礼をした、のか、な?

 その名前は、えっと……この人は、女性、なのかな?」


「いえ、殿方のようです。

 ただ、彼は……その、堕修羅、かと……」


 ミゲルと言う名の青年が一体何を根拠にして、俺を女性だと判断したのかと、突っ込みたい気持ちに襲われた俺だったが……

 生憎と、その機会は突如として失われていた。


「堕修羅、だとっ!」


 何故ならば、言い辛そうにミル=ミリアが俺のことをその奇妙な響きの単語で紹介した、その瞬間。

 ミゼルは後ろに大きく……このヘドロの沼を意に介すこともなく、数メートルの距離を軽く跳んだかと思うと、殆ど手品かと見紛う速度で、その手に弓を番え……

 ……俺へと、狙いを定めていたのだから。


「───っ!」


 その殺意を剥き出しにした動作に、俺は舌打ちしつつ石斧を取るものの……


 ──遠いっ!


 ミゲル=ミリアムが軽々と跳んだ距離は……俺にとっては一刀足で跳べる距離ではない。

 しかも、コイツが後ずさったのを見た途端、周囲の布まみれの連中までもが、俺に狙いを定める始末である。


「……くっ?」


 周囲から飛び道具で狙われた俺は、殴りかかりたい衝動をただ押し殺すしか出来なかった。


 ──く、そっ。

 ──俺、一人ならっ!


 ……そう。

 正直な話、本気で殺しにかかれば、こんな連中など一瞬で真っ二つにした挙句、塩の塊に変えられるだろうし、連中の矢が何本刺さったところで、俺には傷一つつきやしない。

 だけど、俺の後ろには荒事の気配に立ち竦んでいる無力な少女が立っている。

 彼女を見捨てて殺しに行くことも出来ず、かと言ってこのままじゃ、俺は一方的に矢の餌食になるだけで……


 ──どうすればっ?


 俺はただ、周囲に殺意を放ちながらも、その場でただ歯噛みすることしか出来なかった。

 その俺の殺気を正面から受けた青年は……

 ふと軽く肩を竦め……番えていた矢を下ろす。


「この状況でも妹を庇うのを止めないのを見る限り……どうやら、悪い堕修羅(ヤツ)ではないらしい、な。

 ならば、我々『樹人』はキミを歓迎しよう、アル=ガルディアよ」


 俺を見極めるように告げた青年のその声を聞いて、周囲の連中も弓を下ろしていた。

 どうやら俺は、連中の御眼鏡に適ったらしい。


 ──何だ、そりゃ。

 

 その傲慢極まりない態度に、俺は苛立ちを隠せなかった。

 実の妹を助けられておいて、その恩人を試すような、傲慢極まりない態度は……紛れもなく悪の所業なのだから。

 俺は、このクソの整った顔面にせめて一発ぶち込んでやろうと、拳を再度握りしめる。

 ……だけど。


「……アル=ガルディアさま」


 そんな俺の憤りを察してくれたのか、気付けばミル=ミリアが静かに俺の右腕に触れていた。

 少女のほっそりとしたその手のひらの感触に……例え布越しであるとは言え、男の手とは比べ物にならないその小さな手に、俺の怒りはあっさりと霧散してしまっていた。

 正直なところ、コイツへの怒りは傲慢さ故のが半分、イケメン故の怒りが半分で……ちょっと八つ当たり気味だったのは否めない。

 俺は自分の正義が微妙に歪んでいたのを認識し、大きく息を吐き出すことで平静を取り戻すことに成功する。


「じゃあ、案内しよう。

 ……俺たちの街、『聖樹の都』へ」


 そうして俺たちは、彼らのその声に従い……『聖樹の都』とかいう彼らの街へと、この死臭と腐臭の漂うヘドロの中を歩き始めるのだった。



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