参・第一章 第二話
少女の着衣は、どう控え目に言っても……ぎこちないものだった。
まず、飾り気のない純白の布きれを胸と股間に巻きつけ……恐らくアレが下着なのだろう。
次に白い肌着を身に着け、その上にシャツとズボンを穿き、ソックスに足を通す。
その後に、手袋で手先までを覆ったかと思うと、長衣を着込み、スカートに足を通し、膝までのブーツを履いて、その上の端を布でぐるぐると巻きつける。
更にその上、ベールのようなもので顔を覆うという……何と言うか、外気に肌が触れるのを極端なまでに忌避するような有様だったのだ。
……だけど。
その着替えの様子を、ちらちらと横目で……「周囲に敵がいないかの確認ついで」として見ていた俺が気になったのは、『それらの様子があまりにも手馴れていない』ことだった。
まるで、この少女が『服を着ることそのものに全く手馴れていない』とも感じられるその様子は……どう見ても不自然で……
──あ~、お嬢様ってヤツ、か。
周囲に転がっていた道具で、最も役に立ちそうな石製の手斧を掴みながら……いい加減待ち飽きた俺はそう嘆息していた。
異世界に暮らすこの少女がどういう出身で、この世界にどんな習慣が根付いているかなんて、俺には全く知識がない。
だからこそ、その鬱陶しいまでの厚着をする少女の着替えに、俺はいい加減苛立っていたものの……流石に覗いていましたと言える訳もなく。
──畜生、面倒くさい。
俺は内心でそうぼやきながらも……その血と臓物の匂いが充満した洞窟の中で、唇を尖らせたまま、少女が着替え終わるのを待ち続ける。
そうして覗きにも周囲の索敵にも飽きた俺が、いい加減ブチ切れそうになった……体感時間にして三十分あまりの時間が経過した頃。
「たすケてくれて、アリがとう、ございマス。
えっと……?」
着替え終わり、俺の前に立った少女は……もう衣服の塊でしかなく、少女であった面影など欠片もないその少女は、俺にそう尋ねてくる。
ぎこちなく首を傾げるその仕草から、俺は少女の名前すら知らず、俺自身も名乗っていないことに気付く。
……だから、だろう。
「……アル……ガルディア」
不意に俺は、あの堕ちた巨島で出会った……友人の名前の一部を口にしていた。
それは、俺があの勇者のように……この破壊と殺戮の力をもってしても世界を救えると確信できそうな、素晴らしい青年になりたいと思ったから、だろう。
とは言え、流石に他人の名前を名乗るのはどうも気恥ずかしくもあり、情けなくもあり……すぐに自らの、あの砂漠で呼ばれていた名前を口にしたのだが。
「アル=ガルディア、ですネ。
私ハ、ミル=ミリアと、申しマス」
相変わらずぎこちない口調で、ミル=ミリアとその少女は名乗っていた。
どうやらこの世界の名前は、名前と姓を同時に名乗る形式らしく……
幸いにして、俺の適当に口にした名前は……意外とこの世界に馴染んでいたらしい。
「……それで、私ヲ、送って、頂ケる、ので?」
「あ、ああ。
……ま、通りかかった縁だから、な」
おずおずと尋ねて来たその着ぶくれしまくった少女の問いに、俺は軽く頷いていた。
とは言え、それはただの善意ではない。
──あの砂漠でも、テテを助けたら衣食住には困らなかったからな。
俺には、そんな打算があったのだ。
……そう。
どんな武器だろうとまともに傷つくこともなく、どんな相手だろうと一撃で屠る膂力を持つ、破壊と殺戮の神ンディアナガルの化身たるこの俺が、異世界で困ることと言ったら……まず衣食住に限定される。
今までの世界では、どれもこれも衣類は劣悪、食事は最悪最低で、住む所も下の下という有様だったものだが……
それでも……飢えて干乾びて死ぬような真似だけは御免である。
そう考えた俺が、この少女に対して恩を売ろうと考えたのは……まぁ、それほど邪悪な発想ではないだろう。
──善意だけでは生きてはいけない、からな。
とは言え、やはり少しばかり後ろめたかったのだろう。
何となく俺は、そう内心で言い訳すると……石斧を手に、少女を連れてその洞窟から外へと踏み出したのだった。
……そして。
洞窟から足を踏み抱いた俺は、たったの一歩も歩かない内に、この世界へ来たことを後悔していた。
──臭ぇっ!
その世界の第一の感想は……ただその一言しかなかった。
さっきまでの洞窟は、幸いにして血と臓物の匂いが充満し、意識すらしなかったのだが……洞窟から出た途端、その臭いが鼻を突き始めたのだ。
その臭いを簡単に言い表すならば、『下水』という表現が一番しっくりくるだろう。
吐き気を催す糞便の匂いと、嫌悪を招く腐った屍の匂いに加え、鼻を突くヘドロの匂いが混ざり合った……そんな臭気が漂った沼が、眼前には広がっていたのである。
──何なんだよ、この世界っ!
その刺激臭に思わず鼻を摘みながら、俺は内心で悲鳴を上げる。
尤も……庇護対象である少女の手前、悲鳴を上げるような無様な真似は必死に堪えたのだが……
──ひでぇ、場所だな……畜生。
そうして酷い臭気が催す、嫌悪感と吐き気を堪えたまま周囲を見渡した俺の胸には……ただその感想しか湧かなかった。
それほどまでに、眼前に広がるその世界は酷い有様だったのだ。
まず、辺り一面が妙な薄霧に覆われている所為か、太陽が周囲を照らすことはなく……
周囲に並び立つ木々は、太陽が届かない所為か、全て枯れ果ててしまっている。
そして……それら木々の根元は緑と紫を混ぜたような、ブキミな色のヘドロに覆われていた。
このヘドロが……もしくは周囲の枯れた木々こそが、臭気を放つ原因であるとは察するものの……
……だからと言って、この見える範囲一面に広がるヘドロなんて代物、俺の膂力があったとしても、どうにか出来る訳もなく。
ただ俺は鼻を掴みながら……このヘドロの中を歩かなければならないのかと、前へ踏み出すのを躊躇っていた。
──くそっ、こんなの……
今履いている靴が、元の世界の……親の金で買ったとは言え、自分の持ち物と認識しているスニーカーだったことも、俺がそのヘドロの中へ足を突っ込むのを躊躇っていた理由の一つだろう。
事実、霧の所為でそのヘドロの沼がどれだけ深いかすら分からず……はっきり言って、俺はもう『正義も人助けもどうでも良い』から、早くも日本へと『帰りたくなっていた』。
「こちラ、です」
「……あ、ああ」
そうして早くも決意を挫かれ、沼を前に躊躇っている俺を……方向が分からずに戸惑っているのだと勘違いしたのだろうか?
ミル=ミリアというその少女は、相変わらずぎこちない歩き方のままで……だけど、殆ど躊躇うこともなくヘドロの中へと足を突っ込んでいた。
そこで、ようやく俺は気付く。
彼女のブーツが膝ほどまでの長さをしているのは、このヘドロの沼を歩くためのものなのだということに。
──じゃあ、あの布ダルマみたいな格好も、何かの意味があるのか?
こちらの世界の世俗・風習について俺が何となく悩んでいる間にも、少女は洞窟内から持ってきたらしき二メートルほどの棒切れを手にし、それで足元を確かめつつ、ゆっくりと沼の中を進んでいく。
その動きはやはり、相変わらずぎこちないもので……だけど、服を着ていた時に比べると、少しばかり動きが良くなっているようにも見える。
──もしかして、クスリでも使われていた、のか?
……あんな訳の分からない儀式を行う連中だ。
その辺りの木の根っこに生えている、あの奇妙な色形をしたキノコ辺りを喰えば、身体が痺れて動かなくなっても不思議じゃないだろう。
俺はそう思いつつも……少しだけ遠くなった少女の背を追いかけるべく、また少しだけ躊躇った後、ヘドロの沼へと足を突っ込んでいた。
──うげぇ。
そして、次の一瞬で……俺はその一歩を既に後悔することになっていた。
何しろ、ヘドロに足を突っ込んだ時点で、さっきから感じていた凄まじい臭気が更に強烈になって俺の鼻腔へと襲い掛かり……
通気性の良いスニーカーはあっさりと水を通し……その妙に生暖かい、肌にへばり付いてくるようなヘドロの感触が、俺の不快感を倍増させる。
「……あと、どれだけ歩くんだ?」
たったの一歩を踏み出しただけで、俺の口からはそんな……辟易とした言葉が零れ出ていた。
とは言え……コレは、仕方ないだろう。
既に息を吸うだけでも、何かが咽喉からせり上がってくるほど……辺り一面にはとんでもない匂いが充満しているのだから。
「……分かりまセン。
でも、こちらナノは、間違いないデス」
……だけど。
俺の問いに返ってきたのはそんな……あやふやな答えだった。
その言葉に大きくため息を吐きそうになった俺は、咽喉元からせり上がってくる胃液を必死に堪えると、布ダルマのような少女の背を追いかけて、ヘドロの沼を歩き始めた。
薄霧に覆われたその木々の向こう側は……生憎と俺の目では、何があるかさえ見通すことさえ叶わなかった。
そうして始まった少女との二人旅は、俺の予想以上に苦難を極めた。
まず何よりも……先へ進まない。
ミル=ミリアという名の少女は、手に持ったその長めの棒を使い、手馴れない様子で足元をいちいち調べながら歩くのだ。
しかも、延々と枯れ木の根っこを伝うように、右へ左へと迂回しながら歩き続けるものだから、それはもう遅々として進まない。
──クソ、歩きにくい。
いい加減、靴は完全に泥を吸い、この気色悪い感触と悪臭には慣れてきたものの、ヘドロをかき分けて進む所為か、思い通りに足を動かすことも叶わず……
その上、俺たちが歩いていくのは枯れ木の根の上で……油断をすると躓く恐れもあり、一歩前へと踏み出すことさえ慎重にならざるを得ない。
俺でさえこうなのだから、先導するミル=ミリアの歩みが、蝸牛が這うような速度の旅になるのも……まぁ、仕方ないことだろう。
……そんな酷い道行が、凡そ三十分ほど続いた頃、だろうか?
「……ん?」
ふと顔を上げ、薄霧の向こう側……枯れ木の根元へと視線を向けた俺は、そこに奇妙なモノを発見する。
何と言うか、短めの枯れ木っぽいものが、十本ほど規則正しく連なっているような。
……枯れ木にしては、上下のバランスがおかしいような。
いい加減、この遅々として進まない、不快感ばかりの旅路に辟易していた俺が、好奇心に釣られてその奇妙な光景へと警戒感なく足を運んだのは……そう不思議なことではなかった。
「……あの、アル=ガルディアさま?」
追い越したところで少女が戸惑った声で俺を呼ぶが……こういうのはモチベーションが大事なのだ。
沼をかき分け、休む場所すら見当たらない旅路には、こういう……何らかの刺激がないと気力が先に尽きてしまうだろう。
そう内心で言い訳を考えつつ、俺は十本ほどの枯れ木の根っこを伝い、その奇妙なオブジェへと近づき……
「……う、げ」
そして、『ソレ』を見た瞬間……俺は好奇心に釣られたことを、純粋に後悔する。
はっきり言って『ソレ』は、ただただ吐き気を催すだけの物体だった。
……『ソレ』を一言で言い表すならば、串刺しにされた人間が、老若男女関係なくずらりと並べられた……ただそれだけのオブジェである。
腹を突き刺すことで、十の字を描く串刺し死体や、肛門から口までを一直線に突き刺された死体、その逆さバージョンなど……それらのオブジェには幾つかのバリエーションがあった。
尤も、それら串刺しの死体は、俺の目には生きたまま串刺しにされたのか、それとも死体をこうして何らかの意図があって串刺しにしたのかは分からなかったが……
──気色悪い。
付け加えるまでもなく……この湿地帯の中で串刺しにされた死体が、大人しくそのままの状態で保存されている訳もない。
それらの、身体中に泥を塗りたくったような死体は、当たり前のように腐敗し、周囲には蠅が群がっていた。
──ぐぉ、臭ぁっ?
その所為か、周囲には鼻を突き刺し脳髄をぶん殴るような、嫌悪感を催すだけの肉の腐敗した臭気が広がっていて……足元のヘドロの匂いを凌駕して襲い掛かってくる。
そうして涙が滲むほどの悪臭に、苛立ったのが原因だろうか?
……つい俺は、その死体へと視線を向けてしまっていた。
まず内臓と眼球から腐ったのだろう。
目には大きな穴が開き、腹も同じようにどす黒く変色した穴が開いている。
更に、その穴の周囲には巨大な蛆が蠢いていて、蛆に食われたらしき場所からは、ヌルっとした、ブキミな液体が垂れ滴っている。
それは、死体を見慣れたと自負する俺ですら、吐き気と嫌悪を堪え切れないレベルの物質で……
「……お、ぐっ」
俺は胃の中からせり上がってくる吐瀉物を堪え切れず、直下に吐き捨てる。
酸っぱい匂いと咽喉を逆流する固形物の不快感に涙を滲ませながら、俺は近くの枯れた木へと、必死にしがみついていた。
俺が渾身の力で握りしめた所為か、その枯死した木はあっさりと握り潰されていたものの……まぁ、腐敗した肉片と蛆が浮かぶヘドロの中へと頭からダイブすることを避けられたのは、不幸中の幸いと言えるだろう。
──何なんだよ、この世界はっ!
口の中に残った酸味混じりの唾と、咽喉の奥に湧き上がる苦みの強い唾液を吐き捨てながら、俺は思わず内心で悲鳴を上げていた。
今までの俺は幸か不幸か、腐敗すら生じない塩の世界と、一瞬で死体すら干乾びる砂漠を旅するばかりで……こんな、腐敗する死体を目の当たりにすることも、その臭いを間近で嗅ぐこともなく生きて来られた。
だけど、これは……こんな汚らしく、気持ち悪いものが……
「……こんな、何だよ、これ、は」
生まれて初めて『死』を目の当たりにしたような気分で、俺はそう呟く。
事実、死体というものがこんなに悲惨な有様を見せるだなんて、俺は知らなかった。
血でも脳漿でも臓物でも骨でもない……こんな……
と、そんな俺の呟きをどう勘違いしたのだろう?
「……『肉林』、デす」
いつの間にか俺の背後に立っていた少女が、小さくそう呟く。
あの顔を覆うベールのお蔭だろうか?
さっきまで息を吸うのもしんどそうだった彼女は、腐乱死体を目の当たりにしたというのに、俺のように吐くこともなく、平然と立っていた。
……恐らくこの最低の世界に暮らす彼女は、この手の死体を見慣れているのだろう。
「……何だ、それ、は」
「これガあれば、『泥人』が襲い掛かっテ来ませン。
私の集落まで、もう少しデす」
俺の問いに、さっきよりも少しだけ変なアクセントが消えた口調で、少女は呟く。
その言葉に俺は活力を取り戻すと、歯を食いしばり、俯いていた顔を上げる。
──人の住める場所まで、行けば……
こんな悪臭だらけの地獄から出て、一息つくことも出来るだろう。
その希望だけで……泥まみれの足も、身体中にまとわりついた悪臭も、口の中の酸味すらも、気にならなくなるから、人間というのは不思議なものだ。
「……デすが……」
そんな俺に向け、少女は何か言葉を続ける。
……だけど。
その忠告を俺が耳にすることは、なかった。
何故ならば突然、耳元に聞き慣れた、酷く不快な羽音が響き渡ったからだ。
「……っと」
その不快な音……聞き慣れた蚊の羽音を聞いた俺は、ほぼ反射的に手を上げ……
「……ダメっ!」
俺の手が上がるのと、それに気付いた少女の叫びと……果たしてどっちが早かっただろう?
とは言え、そのミル=ミリアの必死の叫びを聞いたところで、一度動き出した手は止められる筈もなく……俺はかなり力を込めて、己の耳を引っぱたいていた。
「ったぁ……」
聖剣以外ほぼ全ての攻撃が通じない、破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能があるとは言え……ソレは実のところ、自分自身の攻撃に対しては意味がない。
そのことをあの塩の砂漠で、創造神ラーウェアから教えられていた筈なのに……
俺は思わず自分で思いっきり引っぱたいた耳の痛みと、脳の奥まで響き渡る耳鳴りについ悲鳴を上げていた。
とは言え、己の身を削っただけの戦果はあった。
俺の手のひらには狙った通り、見事に潰れた姿の蚊がへばり付いていたのだ。
──デカっ?
──しかも、汚っ?
その漆黒の蚊は、今まで俺が見たこともないサイズの……親指の半分ほどもある、とんでもなく大きな蚊だった。
しかも誰かの……恐らく、あの腐乱死体の血でも吸っていたのだろう。
潰れた腹からは、黒褐色のドロドロした気色悪い液体を滲ませていて……その液体は、さっき嗅いでしまった腐乱死体の臭いが漂ってくる。
「うげっ」
慌てて俺はその死体を放り捨てると、黒褐色のその液体のこびり付いた手を、その辺りの朽ちた木になすりつける。
そうして力を入れ過ぎた俺が、その朽ちた木をへし折った時だった。
「なん、何テ、ことを……」
服で着ぶくれした少女が、そんな悲鳴を漏らす。
布に覆われているその顔は良く見えないものの……俺には彼女の顔が青褪めているのだと直感していた。
そのまま落ち着かない様子で左右を見渡す少女を見た俺は、まだこれ以上何かが起こるのかと軽く舌打ちし……
「……ったく。これ以上、一体、何が?」
少女に向けてそう問いかける。
とは言え、その問いは無駄に終わっていた。
何しろ……
俺がその問いを口にした次の瞬間には、凄まじい羽音と共に、千や万どころではないほど凄まじい数の蚊が、まるで放たれた毒ガスのように周囲から押し寄せてきたのだから。