参・第一章 第一話
魔法陣をくぐり抜けた俺は、すぐさま左右へと視線を向け、現状を確認する。
俺が自然とそうしていたのは……前の砂の世界でとんでもない場所に喚び出され、痛い目に遭った所為、だろう。
──暗い、な。
さっきまで蛍光灯が煌々と輝く、クズ共の事務所内にいた所為、だろうか?
遠くの篝火がゆらゆらと小さく輝くその薄暗がりに、俺の目はなかなか慣れず……周囲がどんな状況かも判断出来ずにいた。
──ま、地に足がつく分、前の世界よりはまだマシ、か。
足元に触れる、ゴツゴツと凹凸の大きな、だけどしっかりした岩の感触に、俺はそう安堵のため息を吐く。
相変わらず周囲は見通せないものの……周りに何かがいたところで、破壊と殺戮の神ンディアナガルの化身たる俺を害することなど出来やしない。
俺にとってそんな些事よりは、足が地につく、息ができる等……当たり前のことが当たり前に出来る方が、遥かに重要だった。
「いや、待て……コレ、は……」
そうして周囲の様子を伺う最中、最初に俺が気付いたのは、鼻を刺す鉄錆の……いい加減嗅ぎ慣れた、血の匂いだった。
どうやら今回の世界も例に漏れず……俺が喚び出された場所は、やはりろくでもない場所らしい。
そうして目を瞬かせている内に、ようやく俺の目は暗がりに慣れ始める。
──洞窟の中、か、此処は……
その少しばかり広い洞窟の中に……人が、十六人ほど存在していた。
篝火の近くに、奇妙な灰色の肌をした、腰蓑を巻いただけの、殆ど全裸の男女が……凡そ十人。
その足元には、全裸の少女の身体が数体……首から上を亡くした状態のまま、転がっている。
五つほどの少女の身体は、その全てが青痣や引っ掻き傷、刺傷など、数多の傷があちこちに見えていて……
──お、おい。
恐らく……近くに転がっている棘の生えた刺又や、棍棒で殴られながらこの場まで引きずられてきたのだろうことが伺わされる。
そして……その少女たちの首から上は、近くの槍らしきものに、飾るように突き立てられている。
その表情はどれもこれも、死の恐怖に歪み、泣き腫らしたように目が腫れ、殴られた痕なのか、真っ青な頬をしたモノもあった。
加えて、もう一人……灰色の肌をした連中が囲う祭壇らしき台の上には、こちらに向けて手を突き出したままの、全裸の少女が……
……死の恐怖と激痛に顔を歪めた状態で、横たわっている。
──何だ?
……そう。
その少女の胸は、大きく切り開かれ……もう、明らかに死んでいた。
何しろ、近くの灰色の肌をした女性の手に、心臓らしき血色の臓物が握られていたのだから……助かる余地など、ありはしないだろう。
「……何、なんだ、コレ、は」
やっと周囲の状況を理解した俺は、思わずそう呟いていた。
どう見てもコレは、生贄を捧げる儀式のようで……
今まで召喚された世界の中でも、その光景はとびっきり最悪の代物で……いい加減血にも臓物にも慣れた俺だが、流石にこういうのは気分が悪くなってくる。
「どう・なって・いる?」
「腐神・ンヴェルトゥーサの・神像が……」
「なんだ・あの男・は?」
その灰色の男女もようやく我に返ったらしく……俺の姿を指さしながら、口々に呟きを零していた。
少しアクセントが変なのは、彼らの民族的特徴なのかもしれない。
──いや。
……そんなことはどうでも構いやしない。
コイツらがどういう思想を持ち、どういう文化をしているか、どういう境遇にあるか……そんなことすら、俺には分からない。
……だけど。
──少女を、意味もなく嬲り殺す時点で……
──貴様らは、悪、だっ!
しかも虐待の最後に首を落として飾ったり、祭壇の上で生きたまま心臓を抉り出すなど……許される筈もない。
俺は静かにそう決断を下すと、最悪の気分を殺意へと変え……ゆっくりと歩き出す。
「なん・だ・貴様・は?」
歩き出した俺の前へと立ちはだかったのは、灰色の肌をした……いや、身体中に乾いた『泥』を塗りたくっている、大男だった。
その右手には奇妙な、岩で作られた、血に塗れた大斧があり……その言葉の妙なアクセントと相まって、酷く野蛮に見える。
その表情は戸惑いながらも、この儀式を邪魔された怒りがありありと浮かんでいて……今にも俺に向けその岩で出来た斧を、今にも振り下ろそうとしているようだった。
だけど……俺の出す答えなど、既に決まっている。
──悪は、滅ぼす。
それが、この世界で俺が為すと決めた、唯一にして絶対のルールなのだから。
「失せろ。
儀式を・邪魔・するな」
石斧を見せても怯みすらしない俺に痺れを切らしたらしい。
眼前に立つ眼前の泥男は、俺の首筋に向け、その大斧を叩きつけてくる。
その余り鋭そうにない大斧であっても……少女の細首であれば、頭と身体を泣き別れさせることが出来たかもしれないが……
……生憎と俺の身体は、そんなにヤワじゃない。
その大斧は、岩壁に叩きつけられたかのように弾き返され……泥を塗りたくったその灰色の男は、予期せぬ衝撃に驚いたのか大斧を取り落していた。
「な・なんだ……きさま・は?」
衝撃で痺れたらしき右腕を抱えながら……怯えた顔をしたその男は俺へとそう問いかけて来る。
同じように泥を塗りたくっている周囲の、十人ほどの男女も、俺の方へと怯える視線を向けて来ていた。
その聞き慣れた問いに、俺は獰猛な笑みを一つ浮かべると……
「我が名は、破壊と殺戮の神ンディアナガル。
……貴様らは、全員、死んでしまえ」
そう吐き捨てると共に、目の前にいた男の腹へと無雑作に拳を振るう。
……その男は結局、自身の身に何が起こったかすら理解していなかっただろう。
何しろ、俺の拳を受けたその男は、口から血と臓物を噴き出しながら……十数メートルほど吹っ飛び、岩の壁に叩きつけられて動かなくなる。
それでも僅かながらにその身体が痙攣していたのは、身体の反射的な動きでしかなく……男が俺の一撃であっさりと即死したのを、右手に返ってきた肉の塊が潰れたような、奇妙な手応えで俺は何となく理解していた。
「お・おい。セル=シアム?」
「なんだ・この・男っ?」
「ば・ばけもの・だ」
その一撃を目の当たりにしただけで、その泥を塗りたくった連中は必死に俺から距離を取ろうとし始めた。
だけど……遅い。
──悪を、逃して、なる、ものかっ!
近くに転がっていた岩を、俺は軽く握って持ち上げると……振りかぶって放り投げる。
大人の上半身くらいあるその大岩は、まるでソフトボールを投げたかのようにまっすぐに放たれ……
「んべっ?」
並んで逃げていた男女の、泥を塗りたくっただけの裸の上半身を、仲良く下半身からもぎ取っていた。
倒れ込んだ下半身からは、残された臓物と血液が床を汚していたものの……そんなの、今さらである。
「ひぃいい・いいいいっ?」
「助け・助けて・助けて・下さいっ!」
その一投を見て腰を抜かしていたのだろう。
三人ほどの男が、俺を拝んで命乞いを始めていた。
尤も、それに対する俺の答えも、もう決まり切っていたのだが。
「そう言った、あの少女たちに、貴様らは、一体、何をしたんだ?」
「うぁあああああああああああっ!」
俺の呟きを聞いた、男たちの行動は様々だった。
俺に向かって石のナイフを突きつけてくる者、腰を抜かしたまま頭を垂れる者、そして……俺に背を向け仲間を捨てて逃げ出す者、と。
とは言え……ソイツらに対する俺の行動は一つしかない。
「失せろ、ゴミ」
まず、俺に跳びかかって来た泥塗れのゴミを、俺は左手で軽く振り払う。
勿論、俺にとって軽く振り払っただけの一撃であっても……コイツらにとっては洒落にならない打撃なのは承知している。
その泥塗れのゴミは、振り払った俺の左腕によって吹き飛ばされ、三回転半した後で岩壁へと激突し、脳漿を噴き出したまま痙攣を繰り返し始める。
「いぃ・かかかか・み・さま・たす・け……」
ついでに足元で腰を抜かしたまま頭を垂れている男の頭蓋を、前に一歩踏み出すことで踏み砕き……
次の目標に向かうべく、俺が視線を移すものの……仲間を見捨てて逃げ出したその男はかなり足が速かったらしく、もう既に数メートルほどの距離が開いていた。
「逃げるな、クズがっ!」
俺は何となく「そう出来る」という確信のままに、右手の人差し指をソイツに向けて突き出す。
その次の瞬間、だった。
俺の人差し指の爪が変貌したかと思うと、人の頭を飲み込めそうなサイズの黒い蟲が……あの墜落した巨島で何度も見た蟲……幼蟲と呼ばれていたサイズの蟲が現れ、その男へと喰らいついたのだ。
──なっ?
何となく使えた、その新たなる「権能」に、俺は思わず目を見開いていた。
だって、正直な話、あり得ない光景だったのだ。
俺の指先が……爪が、あんな化け物へと変貌する、なんて。
──じゃあ、何か??
そして、すぐに直感する。
あの時、あの巨島の人々へと襲い掛かった蟲共は、俺とは無関係だった蟲が、餌に惹かれてただ襲いかった訳ではなく……
俺の権能になった蟲たちが、俺の意思を汲んで、あの巨島に巣食っていたゴミ共を駆除してくれたのだ、ということを。
──道理で。
俺が命じるだけで、あっさりと動きを止めたり、俺が「もう不要」と思った瞬間に塩と化して消え失せる訳である。
種を明かせば大したことはない。
結局、あの巨島のゴミ共全ては、無関係な蟲が喰らい尽くした訳ではなく……この俺が手を下し、この俺自身が殺して回った。
ただそれだけの……要は、あの塩の世界と同じだった、というだけなのだから。
「うぉあああ・あああああああああああっ?」
「助け・助けてくれぇええええええっ?」
そう俺が考察している間にも、蟲は餌に……か弱く栄養が豊富な、哺乳類という名の餌に向かってその咢を開く。
そうして、俺がそれ以上何かをすることもなく……その黒い蟲は、その場に蠢く泥を塗りたくったクソ共を、あっさりと喰らい尽くしてくれていたのだった。
「……さて、と」
蟲がその場にいる生きとし全ての存在を喰らい尽くしたのを見届けた俺は、そう出来るという確信と共に軽く手を振るう。
ただのそれだけで俺の権能たる黒き蟲は……あっさりと空中で砕け散り、ゆっくりと塩の塊へと化しながら、虚空へと消え始める。
「……つっ?」
その直後……俺の右手人差し指には、痛みが走っていた。
久々に感じた『痛み』というその感覚に、慌てて俺が右手に視線を向けると……人差し指の爪の先僅か1センチほどが、忽然と消え失せてしまっていた。
そして、確信と共に理解する。
この痛みは、この消え去った爪は……あの蟲を現出させた、対価だということを。。
──この権能は、封印、だな。
指先の痛み……まだ一般人をやっていた頃に深爪をした時と同じような、僅かな痛みに眉を顰めながら、俺はそう内心で呟いていた。
幾ら便利とは言え、痛みを伴うような能力を、そう次から次へと放ってはいられない。
ようやく痛みが引いてきた俺は、人差し指から視線を外すと、周囲を見回す。
「……さて、どうするべき、か?」
周囲に残されているのは、食い散らかされた泥の連中の肉片や骨片、臓物や皮膚の残骸と飛び散った血液。
そして……首を失った少女の死体が五つと、祭壇の上で殺されていた……
「……ん?」
その時……ふと気付く。
十三歳くらいの、少女の薄い胸は……確か前に見た時には切り裂かれ、心臓が抉り取られていた筈のその胸が……
……未だに血まみれではあるものの、その傷口が何故か塞がっていることに。
──なん、だと?
その「あり得ない」光景に、俺は開いた口が塞がらない。
……だって、そうだろう?
死者が生き返るなんて、そんなこと……この俺の、破壊と殺戮の神ンディアナガルの権能ですら、出来ないのだから。
そうして俺が唖然としている間にも、その祭壇の上の少女はゆっくりと起き上がり……まだ現状が把握できないのか、周囲をきょろきょろと見渡し始めていた。
死んだ筈の少女が動き出したのを目の当たりにした俺は、首を左右に振る。
──いや、そんなこと、ある訳がない。
……そう。
死んだ人間が生き返る筈がない。
である以上、さっき彼女の胸が開かれていたように見えたのは、俺の『見間違い』だったのだろう。
近くに転がっている少女の死体のどれかから心臓を抉り出し、あの少女の胸へとその血を滴らせていたに違いない。
彼らが行っていたのは何らかの宗教的儀式のようで……あの泥まみれの連中がその儀式をどういう意図をもって、どういう手順で行っていたかなんて、生憎と俺の知識には存在しないのだから。
──まぁ、生きていたなら、それで良し、か。
分からないことを考えても仕方ない。
あっさりとそう結論付けた俺は、ゆっくりとその全裸の少女へと近づいていく。
その少女は、腰までの長い黒い髪と、透き通るような真っ白な肌に、余分な肉が欠片もないほっそりとした身体をしていて……
少しばかり年下で、俺の好みからは若干離れているものの……将来が期待出来そうな美少女だった。
──うっ。
思わず、俺の視線は少女の身体へと……血にまみれていても、何とかうっすらとした膨らみが確認できる胸部と、やはり血まみれの、ほっそりとした太ももの付け根の方へと惹きつけられ……
──くそっ!
──こんなの、ダメ、だっ!
そしてすぐに、ソレは悪であり……犯罪者の行動だと思い返す。
少なくとも……全裸の少女をそのままにして置くのは、とても正義の行う行動とは言い難いだろう。
そう頷いた俺は、気力を総動員して彼女から視線を逸らすと、周囲を見渡し……近くに落ちてあった誰かの長衣を掴むと、少女の身体へとかけてやる。
「……ぁ」
「良いから、着ろ。
……家までは、送ってやる」
俺の口調は、ついついそんな……ぶっきらぼうなものになってしまっていた。
何というかこう……全裸の少女の身体が近くにあると思うと、俺の内心は何となく落ち着かなくなってしまうのだ。
と言っても俺は……これから彼女をどうこうするつもりがある訳でもなく。
しかも、人が死ぬところも人の臓物や脳漿も見慣れた俺は、この少女すらも一枚の皮を引き千切れば、中身は他の人間と同じ、ただの血と肉と臓物が噴き出ることを良く知っている。
知っているのだが……それでも、やはり、妙に落ち着かない気分は拭えない。
「……ぁりガ、とう、ごザい、マス」
彼女がどういう表情を浮かべて、その長衣を受け取ったのか……顔を逸らしていた俺にはよく分からなかった。
ただ、少女が放ったその声は、蚊の鳴くような小さな……ぎこちない声で。
その、可憐な声を聞いた俺は……
──今度こそ、救ってみせる、さ。
──この、世界を。
全裸の少女が長衣を着込む衣擦れの音から必死に意識を逸らしながら……そう誓いを新たにしたのだった。