序ノ六
俺は一つ。高校に入る前にたった一つだけ、ある目標を立てていた。
それはあくまで目立たず、騒ぎを起こさず、完全無欠、普通の高校生活をエンジョイする、ということ。
誰とでも話が出来、その上に数人の親友がある状態を目標に。
また、いざという時には役に立って、へー、コイツ意外に凄い奴じゃん。そう周りに思ってもらうこと。
彼女まではいかずとも、仲のいい女友達も何人かは欲しい。
クラス行事以外にも、学校でなければ経験出来ない青春フラグを一通りは立てておきたい。
出だしの自己紹介では若干失敗した。
しかし、これは失敗の部類でも比較的小さい方。まだ幾らでも修正は可能だろう。
これからの行い次第でどうにでもなるはず……。
そう考えていた。
だが、これは一体どういう訳だ?
学校帰り、いきなり大型トラックに挽かれそうになって、死にかけた。辛うじてその時は、九死に一生を得る。
けれども、俺が死ななかったのは黒い野良猫が身代わりになってくれたからであって、その犠牲の賜物。
ソイツには本当に、悪い事をしたと思った。
しかし、野良猫の正体は何十、何百年の時代を生きてきた猫神――とかいう訳の分からん奴だった。
しかも、今まで九つの命を生きてきたなんて途方も無い話(人間の姿になった時に名前は権左衛門とか、言っていた)。
そもそも俺を助けたのは老いた猫に生まれた咄嗟の優しさ、などではなく、ある目的を果たすためだったらしい。
ところが、ちょっとした不手際があり、その目的は破綻する。
猫神とかいうソイツは、原因がお前にあるのだから手助けをしろ、と理不尽な要求を叩きつけてきた。
断ろうとすれば、今度は呪ってやる、と戯言を抜かしやがる。有無を言わせぬやり口。
ふざけんじゃねえ! こっちはこっちで、言い分があるってもんだ。
命を救ってくれたのは感謝するが、それはそれ、これはこれ。
もう一度言っておく。ふざけんじゃねえ!
何もかも自分の思い通りに行くなんて考えるなよ。精々あがいてやる……
……と、ここまでが今、現在、俺が置かれている状況ということになる。
化け猫、権左衛門(今は人間の姿をしている)は、焦燥に浸る俺を半ば無視し、こんな要求をしてきた。
「ワシには契約者が住む場所を知る必要がある。まったくの不本意ではあるのだが、仕方あるまい。今すぐにお主の家へ案内しろ」
それについては少し考えたい、と返答したかった。
だがあいにく、俺にはそれを断るだけの切り札と言えるものが何もない。
下手に断ると呪われることは既に確定済みの要素だ。俺はわざわざそんなリスクを負う必要もない、そう判断した。
だから、
「……分かった」
このように、簡単に答える。
そして、尻尾と猫の耳を持った、傍から見れば何かのコスプレをしているかのように見えなくもない猫神を、人目を気にしつつ家へと連れてくる。
とりあえず、部屋に上がらせたまではよかったのだが……。
「狭い家じゃのう……まあ、よい。我慢してやろう。して、湯浴み場はどこじゃ? 汚れを払わせよ。ワシはお主を助けたがために、身が汚れておる」
この毒舌には正直ビビッた。
人様の家に勝手に上がっておいて、いきなり狭いだと?
……まあ、それはどうでもいい。些細なことだ。
だが、風呂を貸せだって?
狼狽する理由は分かると思う。
なぜなら、今の奴は俺の年とも然程変わらない、少女の姿だったのだ。
一度も染めたことのないであろう(もとは猫なのだから当たり前か)艶やかに伸びた黒髪。全てを見通してしまいそうな眼力を持った緑の瞳。
今更になって気が付いたことだ。よくよく見れば、権左衛門は目鼻立ちが整っていて、美少女と言っても相違ない容姿をしていた。
そんな少女に突然、風呂を貸してくれなどと言われれば、テンパらずに居られようはずもない。
頭に浮かびそうになる妄想を、屈強なる意志の力で打ち消す。
「……確か、猫は水浴びとか嫌いなんじゃないのか?」
「うむ、基本的には好かぬ。じゃが、こういった場合――つまり、死の邪気を払うために湯浴みは必要となる――」
やっぱ、入らにゃ駄目か……。
「む、どうした? 顔色がおかしいが」
「……何でもない。風呂はそこの廊下を突き当たりまで行った所を左に曲がって、そこをだな――あー、連れていった方が早いな。こっちだ」
「うむ」
長い廊下を進み、突き当たりを左に曲がる。そこから更に行くとまた廊下。更にその突き当たりを右に……。
幼少の頃から暮らしてきたからこそ、俺自身は慣れている。
だが、初めて入ったものなら、間違いなく迷ってしまうだろう、この複雑な家の構図。
正直言って面倒臭い。
俺は権左衛門を案内する間に風呂の簡単な説明をした。
「あー、棚に着替えの服が何枚か置いてあるから。そこから好きなのを選んでくれ……あ、それと、シャワーは手前に捻ると出るから――」
「ふん。しゃわぁ……な。分かった、下がれ」
何か、不穏な気配がしたが気のせいだろう。
俺は言われた通りに下がって、ドアを閉める。
曇りガラス越しに着物がさわさわ擦れるような音がする。カチャリ、と折畳みの扉を開く音。
これから風呂に入る奴がいるんだから、当たり前、当たり前……。
そう、自身を説き伏せて、後退りするように離れる。
「さて、どうしたものか……」
そこで、これからの対処について考えようと思った、その時だった。
「にゃあぁぁぁあああ!?」
風呂から謎の怪音波が発せられる。それはまるで、猛獣の唸り声にも、黒板を爪で擦った時の音にも似ていた。
あまりに唐突な轟音に鼓膜が破れるんではないか、と思わず耳を押さえる。
すぐ目の前で窓ガラスが破砕。天井からは埃が落下する。
「うぉい、何だってんだ!?」
俺が独り言を言う間も、騒音は風呂場から吐き出され続け、まったく止まる様子を見せない。
耳を押さえながら、何とかそこへ向かう扉に隙間を作ることが出来た。
空間に体を無理矢理、ねじ込む。
たった今、この先には俺と同じくらいの歳に見える少女が――。
そんな考えが一瞬頭をよぎったが、すぐ様、振り払う。
そして、扉を開いた。
中では毛を逆立てた黒猫が目を見開き、びしょぬれになっていた。
ガッカリなような、安心したような。少々、複雑な気持ちである。
それはそうと、このままでは耳にも限界が来るだろうし、近所に騒音被害で騒がれても困る。
水浸しになり、うずくまって吠える黒猫を尻目にシャワーの蛇口を止める。
「一体、何だってんだよ!」
ビクリと震え、黙る黒猫。その首辺りを無造作に掴み、風呂の外へ。
渋きを飛ばされないよう、すぐ上にバスタオルを被せた。
黙っていた黒猫は少しすると、人間の姿の時と同じ、若干低めな女性の声で話し始めた。
「……あれを捻れば水が出る、などとは言わなかったではないか」
「言っただろ! あ、れ、がシャワーだ! 知らない癖に知ったかぶりするんじゃねぇよ!」
押し黙る黒猫。
「そもそもだ、俺は助けてくれなんて言わなかっただろ? 助けたのはアンタの勝手。それで上手く行かなかったからって俺を巻き込むなよ!」
ちょっと言い過ぎたか。実際、感謝はしてる訳だし。
いや、でも普通の高校生活を営むにはコイツにいなくなって貰わないと……。
「……お主、もしや、気付いていたのではないか? ワシがしゃわぁを理解していないのを」
「うっ……」
図星だったかも知れない。
追い出す口実を見つけるため、分かっていない様子に気付きながらも、見て見ぬ振りをした。
「そもそも、ワシはここ最近まで野良で暮らしていたのじゃ。最近のカラクリなど分かる訳があるまい?」
それもそうだ。だが――。
「一度の失敗をなじってはならぬ。幾度でもチャンスを与えよ。そして、次からはもう少しきちんと説明するのじゃ。よいか?」
「……分かった」
完全に言い負かされた。悔しいが、コイツの言っていることは正しい。
妙に勘がいいし、年の功って奴だろうか。
「分かれば良い。……さて、今度こそきちんと湯を浴びねばな」
そう、権左衛門が言うと、バスタオルの中で何か異変が起きた。
シルエットが猫の形から人の姿へと移り変わっていく。
いかん、と思った時にはもう手遅れ。
目の前にはバスタオルに身を包んだ黒髪の美少女がいた。
濡れた髪が妙に色っぽく扇状的で……ああ、何を考えてるんだ、俺は。
コイツは猫だぞ、猫。
「……顔が赤いがどうかしたか?」
そんな俺の心情も露知らず、権左衛門は尋ねてくる。
「な、何でもない! ……が、その状態で人間の姿にならないでくれないか?」
「?」
バスタオルを外套のように纏ったまま、権左衛門はすくっと立ち上がる。
「意味が分からぬが……まあ、よい」
そして、普通に風呂場に入ろうとする。
俺はその時、家中のガラスが割れていることを思い出した。
「ちょ、ちょっと待った! 風呂に入る前に、お前のせいで割れたガラス、何とか出来ないか?」
姿を見ないため、目を逸らしつつ言うと、
「ふむ……。面倒ではあるが仕方あるまい。そこで見ておれ」
猫神はしばし思案の後、ため息を吐いた。
それから、精神統一をするように目を閉じる。左手でバスタオルを押さえながら、右手をゆっくりと振り上げる。
空気が固定されるような奇妙な感覚。時間が止まる。
緑色のオーラが猫神の全身を包んでいた。
そして、次の瞬間、人差し指だけを立てると、素早く振り下ろす。
パキパキパキ……
目の前で、不思議な現象が起こる。
割れたはずのガラスが時間を巻き戻すように元の姿に戻っていく。
俺があっ、と声を上げようとした時にはもう、割れたはずのガラスは完全に元通りになっていた。
「ふぅ、これでよかろう。では、ワシは湯に入る」
何事もなかったかのように身を翻し、猫神は風呂場へと入っていった。
「コイツはマジ物みたいだ……」
その場で俺はへたり込む。腰が抜けたみたいだ。
「こういうのを聞くならやっぱアイツか――」
独り言を呟くと同時に、俺はアイツに連絡を入れることを決めた。