(2)
今回はかなり長くなりました。
本当は3分の2くらいだったのですが、
後から後から追加していく内に大容量に。
では、本文を。
看板に色を塗るのにペンキを扱う為、俺達は教室から出て、中庭へ向かった。2ーBがある教室棟から他の校舎へ繋がる通路を、ひたすら道なりに進めば中庭に出られる。幾つか長いベンチが点々と置かれ、また、花壇には樹木や季節の花々が植えられており、生徒達の心を落ち着かせ豊かにしてくれる。また、吹きさらしに近い状態である為自然に吹く風が周囲から入り涼しく、まさに憩いの場として打って付けだ。よく生徒が昼食を摂る際に利用されるこの場所は、学園祭期間中は休憩所として使われる。風が入るのだから当然換気が充分になされる。ペンキなど強い臭いを発するものを使用する際は、ほぼここで行われる。これからお客さんを招き入れる部屋の中では出来ない、という理由からだ。
「ここら辺で作業するか」
「はい。芝生がありますし、丁度いいですね」
ペンキの缶――赤、黄、ピンク等の色がある――を芝生の上に置くと、三条も倣うように板を芝生の上に乗せた。
下書きは既に完成していて、デザインは中野さんが書いてくれたらしい。板の上には店名である、ポップスターという文字が可愛らしく、今にも弾け飛びそうに描かれていた。星やクラッカーがある辺り、パーティーをイメージしたのだろうか。祭に、楽しい一時を過ごすのに相応しいデザインだ。
「ポップな感じでいいな。ただ、文字に丸みを帯びさせるのが辛そうだな」
「ですけど、丁度小筆があるので、空白の大きい部分はこちらの大筆で書いて、細かな部分はこの筆で修正すれば問題ないですよ」
「確かに。後はペンキ同士が混ざらないように気を付ければいいか。先に色の薄い奴から塗っていこう」
「団扇か扇風機を持って来ますね。早く乾かすのに最適ですから」
「だったら下敷きで代用しよう。わざわざ用意するのは面倒臭い」
「面倒臭いって、いえ、そうかもしれませんね。では話した通り進めて行きましょう」
「了解」
その後二人で作業を進めていった。
風が吹く。安らぎを与える、心を澄ませる涼風が通り抜ける。
交わす言葉は少なく、聞こえてくるのは打音、跫音、声音。時を刻む秒針の音、水気を帯びたペンキの塗る音、風に揺れる梢の音。塗っては乾かし、塗っては乾かしを重ねて行く。
三条の息遣いが聞こえる。彼女の横顔を盗み見る。手元に全神経を集中させ、ひたすら完成に向けて筆を動かす三条からは、凛々しさと気丈さが溢れていた。普段のおっとりとした、けど少しお茶目なお嬢様という印象とは異なる、一つの三条の顔。
汗が白く綺麗な頬を撫で、すっきりとした顎のラインに沿って伝う。彼女はそれに気付かない。それに費やす意識が無駄だと言わんばかりに専念している。筆が板から離れるまで、きっと外部からの様々な感覚は一切彼女には届かないだろう。意識が筆から、板から離れない限り。絶対に。
彼女を信頼出来るのは、隠れていても確かに存在する芯の強さがあるからかもしれない。身体を一本に貫く強靭な芯。俺にもあるのだろうか。自分を自分だと言い切れる、強い芯が、小さなこの胸の中に。
三条の邪魔にならないように、細かな隙間を埋めていく。大きな骨組みが出来ている為難なく完成に近づいていく。そうして時間は川のせせらぎみたいに流れ、ついに。
「完成、か」
「完成、ですね」
「……」
「……」
俺と三条の視線がぶつかる。俺達はどちらかが求めるという事もなく、パチン、互いの手の平を打ち合わせて喜びを表した。三条の表情は達成感に満ち溢れており、きっと俺も似たような表情をしているのだろう。にしても三条ってハイタッチとかするんだな、と意外に思うと同時に親しみを感じた。看板に視線を移す。
二時間前まではペルー色と黒色のみで構成されていた木の板が横たわっているのみだったが、今目の前には、板の上で丸っこく書かれた「ポップスター」の文字が自由気ままに踊っている。ペンキなのにけばけばしくなく、ぬめりとした感じもなく、程よい色合いで描き切れた。これも三条の繊細なタッチと、俺のなけなしの几帳面さが掛け合わさった為だろう。
「もう少し乾燥させておくか。三条、修正する所はある?」
確認の意を込めて三条に訊くと、三条は親指と人差し指で丸を作り、ニッコリとした。
「ばっちりです。神崎君、お疲れ様でした。
「お疲れ様」
大きく背伸びをして体の緊張を軽く落とすと、やおら起き上がり、ペンキの蓋を閉めて一か所に纏めておく。その動作に続けて、時折跳ねたりして飛んだペンキがない所に移動し、その場で大の字で寝転がった。そして、眼前には、木々で縁取られた大空が現れた。
足早に過ぎる雲を目で追いかける。空の色は茜から紺へと、雲は桃色から灰色へと忙しく変わっていき、そして形すらも変えて行く、その様子が手に取るように分かる。
「綺麗、ですね」
真横から声が聞こえ、視線を隣にやると、いつの間にか三条も芝生の上に寝転がり、同じく空の千変万化する姿を見ていた。
「やっぱ、空は綺麗だな」
「はい、とても綺麗です」
雲が千切れてはくっつき、消えかかっては厚くなってを繰り返す。
変わる。変わる。変わる。変わらないのは空の広さ、ただ一つ。変わらないものが、あまりにも少ない。
「三条は好きなのか? こういう景色とか」
「はい。私、好きなんです。何気ない、ありふれた景色の中にある、こういう風景が」
三条は黒に移り行く空を、その手に収めんとばかりに、目一杯腕を伸ばし、目一杯手を広げた。
「私、小さい頃病弱だったんです」
その腕をぱたんと地面に下ろし、三条は秘密を打ち明けるようなノリで言った。突然の話に驚いたが、俺は口を挟まないでいる事にした。
「部屋から一歩も出られなくて、外で走り回れるようになったのは中学生の時からなんです。それまで、ずっとずっと部屋の中で、自然と外の世界ってどうなってるんだろう、とか、きっと素晴らしい世界が広がってるんだろうなぁ、とか、色々想像して過ごしてました。ある日、何日か体調が良い日が続いて、お医者さんから外出の許可が出ました。嬉しくて堪らなくて、私は山に登りたいって、無茶なお願いをして。あんまり私が駄々を捏ねるもので、両親は近くの丘になら、とそこに連れて行ってくれました」
右の手の平を胸に当て、三条は続けた。
「今でも忘れられません、あの時見た景色を。緑で包まれた草原と、眼下に広がる小さくなった私の街、そして夕暮れなるにつれて全てが黄金に染まっていく、その景色。そっか、外はこんなに美しいんだ、外にはこんなにも美しい宝物が眠ってるんだって、初めて知って、初めて感動した。それから、もっと色んな風景を見たいなって思うようになったんです。世界中の、ありふれた日常に隠れてる景色も、絶景と呼ばれる景色も、全部、この目で見てみたい」
今、彼女の目は何を映し出しているのだろう。見知った街の夜空、見知らぬ街の夜景、異国に広がる大自然、人が作り出した現代都市。想像の翼を大きく広げ、まだ見ぬ風光に想いを馳せる彼女は、天上に浮かぶ星々よりも遥かに尊く、そして輝いていた。
「俺にも、そういうものがあったらなぁ」
「神崎君は、もう持ってるじゃないですか」
「俺が? 何を」
俺は既に、三条みたいに、キラキラとした希望を、夢を、願いを手に入れているのか?
「はい、でも秘密です」
「えっ」
「自分でちゃんと見つけないと駄目ですよ。でも心配しなくても大丈夫です。遠くばっかりじゃなくて、近くを見れば、きっと見つかります」
三条は体を起こし、すぱっと立ち上がると。漆黒の長髪が秋風に流れる。さらさらと流れる。
「早く看板を置いて帰りましょう。下校時間を過ぎてしまいます」
三条は完成したばかりの我等が喫茶店の象徴を丁寧に持つと、すたすたと去って行く。急いで立ち上がりペンキの缶を慌てて手に取ると、三条の後を追い駆けた。
「突然あんな話をしてすみません」
「いや、俺は気にしないけど」
「優しいですね、神崎君は。何だかよく分からないのですが、神崎君に話したいって思ったんです。わたしと似ている所ありますし」
「三条と俺が?」
「えぇ。それに桜木さんも」
「文も……」
教室棟の中から窓に区切られた空を見る。空は濃紺に染まり、街明かりがぼんやりと辺りを照らす。いつもそうだ。夜の訪れはいつも静かで、でもその変わり様は大きく、そして雄大だ。
その後三条と一緒に看板を所定の位置に掲げ、ポップスターの完成を見届けると、足早に自宅へと向かった。
文との夕食を終え、いつもの如くソファでくつろいでいると、いつもと様子の違う文が隣に座った。
「どうした。表情暗いぞ」
自信なさ気な表情は時偶見せるが、憂いを帯びた表情はあまり見ない。どことなく気懸りなので、俺は努めて明るく問う。だが、その表情は崩れず、文は揺れる瞳をそのままに確認するように訊いてきた。
「明日の学園祭、一緒に来てくれる、よね」
一瞬文が、ガラスが割れるように崩れていくのを幻視した。
心臓が大きく拍動する。
目を瞬かせると、変わらず文がそこに居た。大丈夫。今のは悪い幻だ。疲れが大分溜まってるのかもしれない。今日は早い所休んで、明日に備えるようにしなければ。
動揺が表に出ないように気を付け、文に応答する。
「一緒に行くよ。ちゃんと約束しただろ? ゆびきりげんまんしたし」
「でも」
「そんなに俺って信用無いのか?」
文とは付き合いが長いが、その中でも一番の疑われ様だ。俺が何かしたのだろうか。あるいは動揺を悟られたのか。
「ううん。そうじゃないの。わたしは宗くんを信用してる。でも、不安なの。覚えてる? 小学二年生の時、一緒に夏祭り行く約束してたのに、前日になってキャンセルした事。結構ショックだったんだよ?」
「その件は、本当にごめん」
罰が悪くなり、俺はしばし、文の視線から逃れるようにテーブルをじっと見つめた。
小学二年生、夏祭り、約束。そのキーワードが脳内に並ぶ。途端、頭に残る記憶が呼び覚まされた。
記録的な猛暑が過ぎ去ったばかりの頃の記憶。頭に包帯を巻き、病室に横たわる俺。ベッドに顔を埋めて泣く文。
そう言えば、あの時俺は、自分の所為で、自分が傷付いた所為で、誰かが傷付くのが、どうしようもなく嫌だった。自分を犠牲にして、誰かを守ろうとして、でも助けられなくて、結果自分まで大怪我してしまった自分が情けなかった。悔しかった。苦しかった。でも逃げたくなかった。
誰かの為になりたい、支えになりたい。
身近にいる人達を守る。
身の丈にあった世界の中で誰かを守る、支える。
そんな存在になりたいと願った。
いつからなのか、はっきりと覚えていない。ただいつの間にか俺の心に、火の灯った蝋燭みたいに穏やかに燃え続けていた。
きっかけも、曲げずにいた理由も、何もかも霞が掛かっている。
あぁ、そっか。だから俺はこんな曖昧で、でも大切な夢を、いつまでも持ち続けていたんだ。
「ごめん、じゃないよ。しかも祭りの後、全然会わないと思ったら、昏睡状態で、一か月ずっと目が覚めなくて。凄く心配だったんだから」
「面目ない」
本当に、立つ瀬がないとはこの事なのだろう。
「……昔の事を言ってても仕方ないとは思うけど、でも時々不安なの。宗くんが遠い所に行っちゃうんじゃないかって。ふと気が付いたら、もう宗くんに会えなくなるんじゃないかって」
文の目は涙で潤み始め、今にも崩壊しそうだった。俺はそっと文を抱き締めると、背中を優しく叩く。
「俺は、行かないよ。いつまでも、俺達は仲良しだ。今までそうだったんだ。だから、これからもずっと一緒だ、そうだろ?」
「うん、そう、だよね。ずっと仲良し……」
仲良し、と文は大事なもの扱うように、そっと口にした。
夜十一時。明日に向け鋭気を養うべく、普段より早く消灯しようとしていた時だった。ケータイが低く重い振動を鳴らし、眠る気満々だった俺の耳朶を細かく揺らした。
ケータイの背面にある、申し訳程度についたディスプレイを見ると、そこには「和泉 宙」と表示されていた。すぐさまケータイを開いて通話ボタンを押す。
「はい。もしもし」
「夜分遅くに申し訳ありません。神崎先輩のお宅ですか?」
「宙、俺だけど」
宙にしては珍しい、改まった声に違和感を覚えつつ応答した。「神崎先輩のお宅ですか?」って、家の固定電話にでも話しているみたいな事を言うな、と不思議に感じた。……まさか。
「え、せ、先輩ですか!? わたしです、宙です!」
「うん、知ってる」
「キャーッ! 初めて先輩の家に電話したら最初に出たのは先輩本人だったなんて! もうこれは運命です赤い糸です! わたし、幸せ過ぎて今にも天に昇りそうな気持ちです」
「昇れ」
「あ、すみません。先輩との初電話トークに緊張して変なテンションになってました」
「いつも通りだから大丈夫だ」
「良かった。変なテンションなってなかったんですね」
「違う」
いつも通り変なテンションだと言いたいんだ。だが、この言葉が宙には届かない。届ける間も与えられない。
「もしかして、周りに誰かいます? 例えば文先輩」
間髪入れずに質問する宙。しかも、内容からして周囲に人が居てはならない事柄を口走るのではないかと、要らない神経を使う。空恐ろしい奴だ。
「別に、今自分の部屋にいるし、誰もいないけど」
「え? 自分の部屋に固定電話を置いてるんですか?」
やはり先程の予感は的中していた。宙は盛大な勘違いをしているようだった。早めにその勘違いを正すのが道理というものだろう。結果。
「なんと! わざわざ神崎先輩かどうかを確かめる必要はなかったのですか。何とも恥ずかしい限りです。今すぐにでも布団に潜り込みたいです」
滞りなく宙の誤認を正した。
「布団があるなら、潜り込めばいいんじゃない?」
「実はもう潜ってます」
どうりで音がこもってる訳だ。
「で、本題なんですが、先輩。学園祭、一緒にまわりませんか?」
「待て。話の展開についていけてない」
「今のわたし、ハイテンションなんです」
「知ってるよ」
これでローテンションだったら驚きだ。
「それでそれで、どうですか? 予定がなければ、ぜひわたしと甘い一時を過ごせればいいなと思ってるのですが」
「甘い一時か」
「もし先約があるのでしたら、そちらを優先して下さい」
宙が妙な所で謙遜する。いつもの勢いで押し切ればいいのに。これもまた美徳というやつなのかもしれない。
「二日目なら空いてるけど。いいか?」
「まわってくれるのですか? OKサインと受け取ってもいいんですね?」
「OK」
「わあ、わあっ♪ すっごく嬉しいです。感激です! バージンロードまで後数歩ですよ」
「何を言ってる」
「先輩のハートを学園祭で仕留めてみせます!」
心臓を押さえて舎内の廊下で転がる自分の姿が思い浮かんだ。何とも哀れな姿だった。
「手加減よろしく」
「全力でいきますね」
俺の人生は明後日を以て終わりそうだ。
「恋の矢をバンバン放ちますよ。手当たり次第に」
「他の人に当たるかもな」
「先輩にしか効果が現れない魔法の矢なので安心です」
大量の矢が体中に刺さった状態で廊下に転がる自分の姿が思い浮かんだ。何とも惨たらしい姿だった。
「おっと、もうこんな時間に。ではまた明日、お会いしましょうね。おやすみなさい、せ・ん・ぱ・い♪」
「お病みなさい、宙」
「す、が抜けてますよ!?」
「おやすみなさい」
「わたしは絶対に挫けません。では」
通話が切れ、枕元にケータイを置く。ベッドに横になり、しばし考え事をする。
文との会話の時、確かに何かを思い出し掛けていた。一体俺は何を忘れているのだろう。どうして忘れてしまったんだろう。時折ちらつく場面。一か月の昏睡。交通事故に遭ったのだと、両親から聞いているし、事実だろう。だが、何故あの時道路に飛び出したのか、未だに分からない。水風船が転がって、それを追い駆けたのだと聞くが、本当なのだろうか。
「……寝よう」
分からない所だらけで、何の結論も出ない。学園祭が終わったら調べてみよう。
長年の謎を解決する為に、自分の過去にけじめをつける為に、そして自分の未来の為に。
「そーいち。夏祭り行かない?」
少女は笑顔でそう言った。
三条は昔病弱なお嬢様でした。
なんというありふれたキャラ。
今まで多くの伏線を張って来ましたが、今回、大きく核心部分に踏み込みました。
> 一瞬文が、ガラスが割れるように崩れていくのを幻視した。
これは今後書く予定の番外編にて詳細を記すつもりです。
その前に本筋を書くのが優先なので、まだまだ先の事になりそうです。
これから先、学園祭後はひたすら真面目な話が続きます。
宗一が悩んで、悩んで、悩んで。そして答えを見つける物語を描いていこうと思います。
その答えが正しかったのか。
その先に何が待ち受けているのか。
宗一は何を背負わなければならないのか。
そんな物語を紡げるように、頑張りたいです。
感想、意見、「こんな話はどうよ」というのがありましたら、
感想フォームまでご一報を下さい。
では(・ω・)ノシ