9月26日
気になる点が幾つか残ったまま眠りに着いたが、思いの外熟睡出来たらしく、目覚めは爽やかだった。更に二十分程早く起きた事もあって気分は上々だ。目覚ましのスイッチを切り、カーテンを勢い良く開ける。日差しが肌を心地よく刺し、脳の覚醒を加速させた。
一通りの支度を済ませ部屋から出ると、下の階から物音が聞こえてきた。トントントンというリズミカルな音は恐らく包丁によるものだろう。もう文の体調が治ったのか。いや、治っていたとしても、千代さんが外に出す事を許さない筈だ。病み上がりなのだから。
では誰だ? 昨日の会話がまるで本が捲るように脳に表示されていく。
「先輩はしばらくの間一人暮らしですよね」
「うん。どうした、改めて訊いてきて」
「あ、いえ、何でもないです。ちょっと気になっただけです」
まさか。
階下へと急ぎ気味に下りていく。すると味噌汁のいい香りが漂ってきた。それと何かを焼いてる音が徐々に聞こえてくる。
リビングへ入りキッチンの方を向くと、予想通りの光景が広がっていた。
「あ、おはようござます先輩。早起きなんですね」
制服の上に、赤を基調としたチェック柄のエプロンを身に纏う宙の姿があった。俺の姿を認めると、宙は輝かんばかりの笑顔になり、弾んだ声で朝の挨拶をした。
「おはよう。そして何故俺の家に居る」
挨拶を返すと、早急に本題に入る。おかしい。ちゃんと戸締りをした筈なのに。一体どのようにして侵入したのか。宙の行動力は馬鹿に出来ない。ピッキングを愛の力と称した正体不明の恐ろしい力で実行してもおかしくないのだから。愛さえあれば何でも出来るとは世間でよく聞く文句ではあるが、少なくとも今回の場合は事実である必要はない。
「あぁ、はい。そういう事でしたらご安心下さい。ちゃんと鍵で開けて入りましたから」
宙は俺の方に向き直り、ポケットの中を探ってから銀色の物体を取り出した。紛う事無く我が家の鍵だった。
「文から渡されたのか?」
「いえ、文先輩のお母さんからです。先日お見舞いに行った時に事情を説明したら、少しの間宜しくね、と渡してくれました」
「千代さん……文のお母さんの言伝通り、俺の食事を作りに来てくれたと」
「それだけじゃないです」
宙の両親は昨日から出張で家を空けているらしく、明日まで一人なのだそうだ。正直一人きりというのはかなり心細かったらしく、自分と同じ境遇の俺と一緒に過ごせたら心強いと思い行動に移したらしい。更に、地球と同様の包容力を持つ俺ならば、いきなり我が家に転がり込んでも怒りはしないだろう、と考えたのだそうだ。確かに怒りは湧いて来ない。だが代わりに呆れが浮上して、勢いのあまり遥か上空に飛び去って行った。地上に降りるのは翌朝になりそうだ。
「宙の家の安全も考えて留守番を頼んだんじゃないの。鍵は掛けてあるだろうけど、家に居た方がいいんじゃないか?」
「一日に一回は様子を見に行きますし、何よりセキュリティ会社と契約してるので、不法侵入されればすぐに連絡されます。なので無問題です。問題無く先輩とラブラブ出来ます」
「最後のは関係ないだろ」
とは言っていても、実の所これは俺にとっても嬉しい話であった。何しろ宙の手料理が味わえるのだ。約四日間連続炒め物は俺の胃に多大なるダメージを与えるのは、去年焼肉屋に行った時に身をもって体験したのでちゃんと分かってる。以前料理には自信あると豪語していたので味に関しては大丈夫だろう。
……いや全然大丈夫じゃない。
「待て。よくよく考えたら女の子が男一人の家に上がり込むのは駄目なんじゃないか?」
「それってわたしを女の子として意識してくれてるって事ですよね! 感激です。とても、とても嬉しいです」
宙は両腕を胸元に寄せ、きゃーきゃー、と言いながら身を捩じらせている。周りにハートマークが飛んでいるように見えるのは錯覚ではあるまい。
「正直な感想は置いといて、先輩は幼気な少女に襲い掛かる狼ではないと信じてます。あと奏先輩も甲斐性無しが服を着て歩いているようなものだと言ってましたし」
あとで奏と話し合いをしなければならないようだ。事実が時として人の心に深い傷を付ける事を理解して貰わなくては困る。
「そうだったとしても」
尚も食い下がる俺に、宙は顔を赤らめながら止めとばかりにある意味危ない発言を口にした。
「あ、先輩になら全てをさらけ出せます。なので誤った事があっても、いいですよ?」
いいですよ? じゃねぇよ。
「自分の身体を大切にしなさい」
「では先輩の為にも大切にしますね」
会話を切るように、宙はグリルから焼き鮭を取り出し、テーブルの皿に盛りつける。本日の朝食は焼き鮭とサラダ、味噌汁、ご飯のオーソドックスなものだ。
「先輩、よーく味わって食べて下さいね」
可愛らしくウィンクを飛ばす宙に、俺は浮上していた呆れが再び戻ってきたのを感じ取った。
宙が作った朝食はとても美味であったとここに特筆しておく。
俺と宙が一日に顔を合わせる時間が大幅に増えたと言っても、他の面々との時間が減る訳ではない。授業の前後、昼休み、放課後、話をする機会は山のように存在する。それ自体は喜ばしい事なのだが、今回ばかりは都合が悪かった。
何故なら宙が俺の家に泊まっている事がバレてしまったからだ。細かく説明すると、宙が会話の途中でうっかり漏らしてしまったのだ。あの事実が公開されれば俺や宙に多大なる迷惑が掛かるのを予見し、明かすつもりはなかったのが、その挙動から見て取れた。当然の帰結として、俺らは見事、今日一番の大騒動の中心人物に祭り上げられたのだ。
宙はクラスメートに「上手くやれよ」「チャンスだ」「結果報告は後日詳しく聞くね」と温かく前向きな言葉を湯掛け祭りのように思う存分浴びせられ、既成のカップルから色々アドバイスを貰ったらしい。
そして俺はと言うと。
「覚悟はいいか?」
修羅の集団もとい、我がクラスの男子生徒達による尋問を受ける羽目になった。俺は気丈に彼らの質疑に応じ、明確かつ簡潔に事実を述べた。普段当てられる事のない殺気に身が強張るが、声は一切震えてなかった事は自信をもって言える。
午後四時過ぎ、同級生に多少手厳しい尋問を受け、心身ともに摩耗しながら、俺は文の家に辿り着いた。顔に疲労の色が表れてたのか、千代さんが「大丈夫?」と気を遣ってくれた。それに笑顔で応え、框を跨いだ。一昨日と同じく二階へ上がると、ドアをコンコンとノックする。
しかし、十数秒待っても一切の返事が無いので、きっと寝ているのだろう。体力を回復させなければならないし、ましてや浪費なんてさせられない。千代さんからは病状が大分良くなったと聞いている。無用な心配はしない方が互いにとってもいい筈だ。
回れ右をし階下へ向かおうと二、三歩進んだ、その時。
「きゃっ!」
文のものと思われる短い悲鳴と、床に倒れこむ鈍い音が確かに聞こえてきた、不安を覚えた俺は急いで戻り、ドアを開け放ち、室内へと飛び込んだ。
「どうした!」
「……へ?」
何事かと入った文の部屋。眼前に現れたのは、予想外の光景だった。
脱ぎ掛けのピンク色のパジャマ。
レースのついた黒色の下着。
両足が前に出され、両手が後方の床に着け、後ろ気味になった重心を支えている。しりもちをついた状態である上に、着替えの途中であろう恰好の文を見てしまい、俺はしばし呆然としてしまった。文も突然過ぎて何が起きているか分からないみたいだ。
「へ、あ、や、その」
意味の分からない文字の羅列が俺の口からぼろぼろ零れた。逸早く平常な思考を取り戻そうと必死になるが、余計に、まるで絡まったあやとりのように頭の中がこんがらがる。
文の顔が羞恥に染まるのに大して時間を要さなかった。文はベッドから掛布団を、奪うように引きずり出すと、その生まれたままに近い姿を覆い隠した。
「で、出て行って」
涙目になりながらも、悲鳴を上げるのを懸命に堪え、文が震えた声でそう言った。
素早く文に背を向けると「ごめん」と謝り、部屋から去った。
階下に行った俺は千代さんに一声掛けて帰る事にした。随分と早い帰宅に、千代さんが何かあったのかと探るような目で訊いてきた。俺は言葉を濁すだけで精一杯だった。
靴を履き、外へ出ようとした時、上方からドアの開く音が聞こえ、慌ただしい足音が徐々に近づいてきた。
「宗くん!」
余程急いだのか、荒く呼吸を繰り返す文の姿が、階段の中途から見えた。今は当然ながらきちんと服を着ている。
「わ、わたし、気にしないから!」
そう半ば叫ぶように言い放つとそのまま引き返して行った。
「あら、明日には登校出来そうだわ」
心から嬉しそうに、でも何かを含み、千代さんは笑みを浮かべながら「安心した」と付け加えた。
久々の恥ずかしハプニング。
ギリギリセーフですかね。
R-15指定をした方がいいでしょうか。
話の流れを再確認するために、今『夢と願いの学園恋歌』を読み返してるのですが、
ここで説明し忘れていた事を補足しておきます。
9月16日(3)、奏の初登場シーンで、
帰り際に「ほんじゃらば」と言ってます。
あれは「それでは、さらば」という意味です。
それではさらば
そんじゃあさらば
ほんじゃあさらば
ほんじゃらば
という変化です。
小学生の時に思いついて、一時期使っていたものです。
これを言った時の友達の反応は今でも忘れられません。
感想、意見、「こんな話を書いてほしい」という希望があれば、
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では(・ω・)ノシ