(2)
久方ぶりの投稿です。
ちょくちょく更新していく予定です。
校外へ飛び出て二十分あまりが経過した。路地裏を道なりに進むと、風情あふれる木造建築物が見えてきた。寂れ、無機質で、且つ僅かに温かみを帯びているようにも見える不思議な建物が建ち並ぶ辺りに対して、それは唯一、他とは違う類の温かみを持っていた。
「あそこが目的の店。見てくれは古臭いけど、でもすごくケーキがおいしいのよ。”穴場の店”っていうのは、まさにあの店のことを言うのね」
爛々と目を輝かせ、舞うように路地を突き進んでいく楓。その姿があまりにも微笑ましくて、あまりにも可愛くて、普段の少し不機嫌か小難しい顔とは違う表情に、自分でも分かるくらい顔がにやついてしまっていた。
「何にやにやしてんのよ」
「別に、なんでもない」
可愛かったから、なんて言った暁には拳と蹴りと「死になさい」の応酬が待っているに違いないので曖昧に誤魔化しておいた。下手に口を滑らせて、この先続くであろう人生に終止符を打ちたくはない。
「言いなさいよ」
「無理」
「言わないとその華奢な首を芸術的に手折るわよ」
「切断面が花みたいになるのか? マジで勘弁」
楓と暴力はどうやっても切れない、魔法のような繋がりがあるみたいだ。今度それを切断する手段でも考えてみるか。
「まさか、口に出せないようなことでも考えてたの? 変態。だからにやにやしてたのね」
「出せなんじゃなくて出したら殴られそうだからだって」
「殴らないから言ってみなさい」
「えー」
「言いなさい」
「可愛かったから」
蹴り飛ばされました。
涼風を彷彿とさせる鈴の音が鳴るとともに俺たち二人は店内に入った。
ランプの橙色の光が天井から降り注ぐ。焦げ茶色をした木製の家具が静かに座っている。
辺鄙とまではいかないが、少々面倒な位置に店を構えているにも関わらず、十数人もの客が楽しげに、あるいは穏やかに注文した品を食していた。歓談する者、読書をする者、意識を何処かに飛ばしている者。十人十色な行動をする客たち。ちょっと面白い。
「ここのケーキ、とてもおいしいのよ」
空いていた二人用のテーブルに各々腰を下ろすと、すぐに店員が現れ、注文を取りにやってきた。氷水の入ったグラスが眼前に置かれる。
「ご注文が決まりましたら、お手元にある呼び出しボタンを押してお待ちください」
「もう決まっています」
楓が流れるように告げると、店員はエプロンのポケットから注文用紙を取り出し、ペンを持つ。
「伺います」
ちらりと楓は俺の方を見た。何を聞いても驚くな、と目が言っていた。どんなものを頼むのだろうか。興味半分、恐怖半分。俺をここに連れてきたことに関係するのだろうか、とか、逆に何をされるのか、と瞬時に頭の中を複数の思考が駆け回る。だが、それらは一瞬にして停止を余儀なくされた。
「カップル限定の『ラブラブスイートケーキ』とコーヒー二つお願いします」
「ラブラブスイートケーキとコーヒー二つですね。かしこまりました」
店員が去っていく。楓は澄ました顔で水を飲んだ。まるで自分は何一つおかしなことを言っていないとばかりに。
「……なぁ、楓」
「今から店を出るまで、あんたはあたしのかっ、彼氏になってもらうわ。拒否したら泣く。泣きわめくわよ」
「地味に怖い脅しをかけるな。つーか噛んだのを誤魔化そうとしただろ」
「気のせいよ」
「んで、何? ラブラブスイートケーキ?」
「あんたの顔でラブラブとか言わないで。ギャグだわ」
「全然洒落になっていないことに気付け。で、それを頼むためにわざわざ俺を連れてきたのか」
「そうよ。私一人じゃ注文できないし、しかも男性と一緒じゃないと注文できないの。なら誰かに協力してもらわなきゃ駄目じゃない」
「和志に頼めばよかったじゃん」
「あんなのが彼氏なんて血反吐が出るわ」
「俺ならいいのかよ」
「宗一の方がいいわ」
比較が和志となので、正直喜んでいいのか分からない。微妙な心境だ。
「あまり驚かなかった」
「ん?」
「恋人役演じてって言ってもあまり驚かなかったなぁ、と思っただけよ。もしかして、結構そういう頼みとかされるの?」
「一切なし」
「まさか、さ。あたしを女の子として見てない、とか?」
テーブルに肘をつき、指を交互に絡ませ、楓はその上に顎を乗せた。潤んだ瞳で上目遣いで見つめてくる。あたしに全く興味がないの? と艶美な囁きが聞こえてくるようだ。楓の瞳の中へ吸い込まれてく感覚に体が支配される。
不意に何かが脳裏を横切った。
脳の表面を針でチクチクと突かれるような刺激を感じる。それとともに手繰り寄せられる、置き忘れた記憶の断片。
誰かの笑顔。
青い花。
トラック。
ガラスの破片。
大切な何かが抜け落ちている。何が? 何処に? それ以上思い出そうとしても靄に邪魔されて手がかりさえ掴めずにいる。一歩も先に進めない。何が俺を阻んでいるんだ。俺を束縛するものは一体何なのか。ぽっかりと空いた穴に塞がるピースは何処にある?
「お待たせいたしました。ラブラブスイートケーキとコーヒーです。以上で宜しかったでしょうか」
店員の声に意識を戻すと、目の前にはやや大きめの白い皿の上に悠然と乗っかるハート形のケーキがあった。赤紫色のソース――ベリー系と思われる――がジグザグに、チョコレートでコーティングされた表面に掛かっていた。コーヒーの、あの焙煎されたことによって生じる独特の深く芳ばしい香りが鼻孔をくすぐる。
「おいしそうだな」
俺の平凡すぎる感想に楓は苦笑した。
「おいしそう、じゃないわ。おいしいに決まってるの。早くいただきましょ。溶けない内に、冷めない内に、ね」
今まで見たことのないくらい上機嫌な楓に、またもや笑ってしまいそうになり、何とか表に出させまいと懸命に努めた。
さっそく楓はケーキを一口食べると、目をぎゅっと瞑り、身をよじった。どうやらとても上手いのだそうだ。
「そういえば俺の分が見当たらないんだけど」
「え? あるじゃないの」
「いや、コーヒーじゃなくてケーキ……」
いくらテーブルの上を凝視しても新たに皿が出現するわけではなく、先ほど運ばれたものが鎮座するのみだ。
「何言ってるの」
楓は首を傾げ、さお当然のように、
「このケーキ、二人で一つよ」
と小型爆弾を放り投げた。
「なんで」
「だって、ほら。よく見なさい。一人分にしては大き過ぎない?」
ハート形のケーキを再度見る。よくよく観察してみると、高さは五センチメートル、縦と横幅は大体十五センチメートル四方(形が複雑なため正確ではないとは思うが)あった。確かに楓の言うとおりだ。まぁ元々カップル用に作られたものだから当然といえば当然か。フォークが一つしかない事も手伝って失念していた。
……一つしかない?
「あ、そうそう。カップル専用だからフォークも一つしかないわよ」
「なんで」
「そりゃあ、食べさせ合うからじゃないの」
言いながら楓はもう一口ぱくりと食べ、表情をふわっと和らげる。対して俺は頬の筋肉を強張らせ、冷や汗というには些か大粒の滴を幾つもだらだらと垂らしていた。
「あ、食べる?」
「いやいや。そんな付き合ってるわけじゃないし」
恋人ごっこでそこまでする必要はないのではないか。そう考えての発言だった。
「今は恋人でしょ? さっき約束したじゃない」
平然とした態度を楓は装っているが、顔全体を赤らめているため全く意味がなかった。恥ずかしいのならやめればいいのに。
「んじゃ、食べさせ合うか?」
「バカなこと言ってるとその口縫い付けるわよ」
恋人らしさ皆無であった。あと赤面して言うセリフではない。
「まあ? どうしてもと言うならやってあげなくもないわよ」
「遠慮する」
「なんでよ!」
特にないと返したら蹴られるだろうから、黙り込む事に決めた。
「ほら、頬が床に転がるくらいおいしいから食べてみなさいって」
「頬が落ちるくらいの間違いじゃねぇのか」
「うだうだ言ってないで。さっさと口を開けなさい」
楓の頭の処理が限界に達しているようだ。俺自身も同じようなものだが。
はぁ、と溜め息をつくと大きくを口を開けてみせる。
「えぐい」
「早く食わせろ」
楓はケーキをフォークで器用に切り取ると、俺の口内へと運んだ。
口一杯に広がるビターチョコの香り、ラムレーズンの豊かな味わい、パウンドの柔らかな食感。なるほど、「甘いだけがラブラブではない」というシェフからのメッセージだと俺は受け取った。
「……うまい」
「よかったわ」
純粋な賞賛に楓が我が事のように喜ぶ。今日はいい事でもあったのだろうか。中学から約四年間の付き合いだが、ここまで開けっ広げに喜ぶ楓は初めて見る。
「たまにはこういうのもいいものね」
歩くような時間の流れを感じながら過ごす。このこそばゆくも心地よい雰囲気に身を任せる。
「ごちそうさま。じゃ、勘定はよろしくね」
「……は?」
その数分後、店の前には、ケーキ代、コーヒー代を全て押し付けられ、財布を見つめ続ける俺がいた。
二度と楓と二人で出かけてたまるか。