辺境に来た騎士
春の光が、荒れた畑をやわらかく照らしていた。
エリスは袖をまくり、ひざをついて土の状態を確かめていた。
指先に触れる土は、以前よりもしっとりと柔らかい。
(……ちゃんと、応えてくれている)
小さな水の魔法を流し込み、乾いた部分を均一に整える。
派手な魔法陣も、光もない。ただ、地味で時間のかかる作業だ。
「エリス様、今日はここまででいいですよ」
村の老女が声をかけてくる。
「いえ、もう少しだけ……」
そう答えながら、エリスは空を見上げた。
王都にいた頃、こんな空を見たことはなかった。
いつも視線は床か、人の背中ばかりだった。
そのときだった。
領地の門の方から、馬のいななきと人の声が聞こえた。
「……?」
鍬を置き、スカートの裾を払って門へ向かう。
そこには、見慣れない青年が立っていた。
黒髪、引き締まった体つき。
簡素な鎧と、腰の剣。
風に揺れるマントの端が、彼が遠くから来たことを示している。
「この地の領主様にお目にかかりたい」
門番が戸惑っている。
「り、領主様は……今、畑で……」
「私です」
エリスが名乗ると、青年は驚いたように目を見開いた。
「……あなたが?」
そして、すぐに姿勢を正し、片膝をついた。
「王国騎士団所属、アレク・ディーンと申します。
辺境の治安および領地状況の確認の任を受け、参りました」
騎士団。
その言葉に、胸が少しだけ強く鳴る。
(……王都と、繋がっている場所)
「こんな所まで、ご苦労さまです。
どうぞ、中へ」
屋敷の応接室は、王都の貴族の屋敷とは比べ物にならないほど質素だった。
古い机、木製の椅子、ひびの入った壁。
アレクは一瞬だけ周囲を見回したが、すぐに視線を戻した。
「失礼します」
二人は向かい合って座った。
沈黙。
先に口を開いたのは、アレクだった。
「……失礼ながら、エリス様。
王都では、あなたのお名前を聞いたことがあります」
エリスは、指先をきゅっと握った。
「婚約破棄の件、でしょう」
「……はい」
「無能令嬢、捨てられた女、役立たず」
淡々と並べると、アレクの眉がわずかに動いた。
「……そんな言われ方を」
「事実です。私は、何もできないと……」
「それは違います」
きっぱりとした声だった。
「ここに来て、私が見たものは」
アレクは窓の外を指した。
「整えられた畑。
壊れかけだった柵。
水が澄んだ井戸」
「……」
「これを“何もしていない”とは言いません」
エリスは、言葉を失った。
王都では、一度もそんなふうに言われたことがなかった。
「派手な魔法も、英雄的な戦果もありません」
エリスは静かに言った。
「でも、毎日……少しずつ、続けているだけです」
「それが、強さです」
アレクはそう言った。
「逃げなかった強さ」
その言葉は、胸の奥に静かに落ちた。
⸻
その日、アレクは村を視察した。
壊れた家の壁を修繕し、病人の手当てをし、魔物避けの簡易結界を張った。
村人たちは次第に彼を受け入れていった。
「騎士様なのに、気取らないな」
「エリス様と似てる」
夕方、焚き火のそばで、エリスとアレクは並んで座った。
「……怖くはなかったですか」
アレクが尋ねる。
「辺境へ来るのは」
「……怖かったです」
エリスは正直に答えた。
「でも、王都にいる方が……もっと怖かった」
「……」
「ここでは、誰も私を笑いません」
「それは……あなたが、ここで必要とされているからです」
「必要……」
その言葉を、エリスは心の中で繰り返した。
「王都に戻る予定は?」
「……ありません」
「それなら」
アレクは少しだけ視線を逸らしてから言った。
「私が、あなたの領地を守る側に立てればいい」
「え……?」
「任務としてだけでなく」
その声は、静かだったが、確かだった。
エリスの胸が、熱くなった。
(……誰かが、私を守る側に)
夜風が、二人の間を通り抜ける。
星が、静かに瞬いていた。
⸻
その頃、王都。
レオンは苛立ちを抑えきれず、机を叩いた。
「なぜ、こんなに失敗続きなんだ!」
新しく始めた事業は赤字。
社交界での評判も落ち始めている。
「……辺境領が、市場で話題になっています」
部下の報告に、レオンは顔を上げた。
「どこだ」
「リュシア領。領主は……エリス・フォン・ルヴェール様です」
一瞬、理解できなかった。
「……誰だ?」
「元婚約者の……」
レオンの喉が鳴った。
「あの、地味で、無能だった……エリスが?」
胸の奥に、説明できない違和感が広がる。
(俺は……何を、捨てた?)
◆ アレク・ディーン
•王国騎士団所属
•辺境調査の任務でリュシア領を訪れた
•誠実で不器用




