Final Chapter 曙の空
どれくらいの時が経っただろう。人の世は緩やかに終わりを迎えた。この地上で立っている"人間"は、おそらく狩野ただ一人だ。
見晴らしのいい高台から海を眺める。世界がどれほど変わっても、この景色だけは変わらなかった。
明けの明星が東の空に輝く、曙の頃。この時間が、ルシファーは好きだった。
それはきっと、かつて自分の代名詞だったからだろう。
静かな波の音が耳に響く。頬に感じる潮風に、ゆっくりと目を閉じた。
「すぐに見つけるって言ってたくせに、こないなぁ」
もう贖罪は終えているはずだ。力が戻っているのを感じるから。
けれど羽根を出すことは出来なままだ。きっと、これは何か別の理由があるのだろう。
羽根が無ければ天に戻ることはできない。だからこうして、待ち人を待つしかないのだ。
飛んできそうな二人の天使は、どちらもまだやって来ない。人間が居なくなってから、もうかれこれ十年は経っているというのに。
天使たちの時間感覚は人間と違うから、もしかしたらまだ贖罪を終えたことに気付いていないのかもしれない。
と、いつかのように、空に影が差した。ルシファーはすっと身を引く。
どさりという音と共に、天使が大の字で床に広がっていた。
「お、おい、大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
天使は呼びかけに応えると、がばりと顔を上げる。
空色の瞳がルシファーを捉え、大きく見開かれた。
「見つけた!」
「わっ、ちょっ、抱きつくな!」
天使は思い切りルシファーに抱き着くと、もう離さないとでもいうようにがっしりとホールドされる。
ルシファーは仕方なく彼女を抱きかかえた。
「久しぶり、ラジエル」
「久しぶり! まったく、探したんだよ」
「地上には俺しかいないのに、何をどう探したんだよ」
「原因はミカエルだよ! 君の贖罪が終わった後すぐに迎えに行こうとしたら、君の痕跡が全く見つからなくて。おかしいと思ったら、ミカエルが消してたんだよ! 絶対自分が最初に会いに来るつもりだったんだ」
なるほど、容易に想像できる。彼の重度のブラコンは、どれほど年月をかけても治まりそうにない。
「それで、兄さんは?」
「仕事。人間の世が終わったからって、世界は終わるわけじゃないでしょ? とくに今は、主が次の生物を創り出そうと躍起になってるから手が離せないみたい。ちなみに、ルシフェルの羽根が生えないのも君のお兄さんのせい」
「ああ、なるほど……」
羽根が生えなければ天界に戻りようは無いし、痕跡を消しているから他の天使が迎えに来ることも無いということか。
つまり、ミカエルは自分が先に会いたいがために、ルシファーの孤独を長引かせていたわけである。
もっとも、ルシファーもかなり孤独には慣れていて、最後の数百年はむしろ他人から認識されないというのは悪くないかもしれないとさえ思い始めていたものだ。
それに人間がいなくなってしまった世界は寂しいけれど、それでも待っていれば必ず誰かが来ると分かっていたから、真の孤独は感じなかった。
「ふふん、僕はすべてを識る天使だよ。痕跡をいくら消したところで、情報は常に僕に集まってくるんだ」
「それで、迎えに来てくれたわけか」
「そう。ミカエルのやつ、あれからまともになってさ。相変わらず悪魔どもとは悪友って感じだけど、逆に悪魔を上手く利用できてて便利なんだよね」
「そうか。……会いたいな」
懐かしさに胸が震え、思わず零れる。恨みつらみはすっかりと消えて、今はかつて天界にいたころの兄への思慕が戻っていた。人間生活を離れていたことも、理由の一つかもしれない。
しかしラジエルは不服だったようで、口を尖らせた。
「え、僕が会いに来たのに? しばらくは僕と話そう。ほら、前はあんまり話せなかったし。……君のためにいろいろ頑張ったし、ご褒美があっても良いと思わない?」
「ああ、それもそうだな」
肩を竦めて笑えば、ラジエルが満足そうに笑った。
明るい光が差し込み、二人でそちらを眺める。
海に照らされた太陽の光は、まるで天への道しるべのようだった。明けの明星は緩やかに薄らいでいく。
心地よい風は穏やかに二人を包み込み、地面の草が波のような音を立てた。
本物の波の音も耳に届き、平和な時間が包み込む。
「綺麗だね」
「ああ、そうだな」
「『明けの明星、曙の子よ。お前は天から堕ちたのだ』」
「なんだそれ」
「ふふ、君が天から堕ちた時のことを謳った書の一節だよ。まあその書は、君が高慢になった挙句に堕とされて地の暗い底に堕ちたって続くけどね」
不服そうに言うので、ルシファーはくすくすと笑い彼女の頭を撫でた。
「間違ってはないな。実際、俺は深淵にまで堕ちた」
「間違ってるよ!」
ラジエルが胸倉を掴む。そんなガラの悪いことどこで覚えたのかと問い詰めそうになったが、場違いなのでやめる。
「君は高慢とは程遠い。ミカエルに送るべきだね。ああ、人間の世界ではあのミカエルが清廉潔白でもっとも主からの信頼が厚いって言われていたんだ。信じられない」
「まあまあ。……もう人間はいない、許してやってくれ」
「……うん」
人間はいなくなってしまった。ルシファーが地に堕ちる原因であり、ルシファーが理の外に長い間囚われ続けた理由でもある、彼らの営みはもう潰えた。
多くの争いも、自然災害も、科学の発展も、信仰心の薄れも、彼らの未来を縮ませる要因ではなかったけれど。それでも動物はいつか、その種族としての役目を終えてしまうのだ。
「……寂しい?」
「少しな。でもまあ、見届けたから。折り合いはついてるさ」
一時は彼らの中に混じり生活をした。その後も、ずっと見守ってきた。寂しさはあるけれど、どこか諦観もあるし、満足感もある。
自分の住むべき場所はこの地上ではない。本来の役割に帰る時が来たのだ。
雰囲気を変えるように、ルシファーは努めて明るい声で尋ねた。
「……それで、話って? 何か話したいことがあるんだろ」
「ああ、それはさ」
二つの影が、賑やかな声を紡ぎ出す。その響きは、痺れを切らした双子の兄が迎えに来るまで続いたという。
こうして緩やかに、地上の楽園は終わりを迎えたのだった。
Fin




