Chapter4 裁きのとき
「みま、さか……」
狩野は、意識が浮くような感覚と共に目を覚ました。見慣れた景色は、そこが自室だと教えてくれる。
どうやらベッドに寝せてくれていたようで、慣れたスプリングの反発が背中に当たっている。
「起きた! 大丈夫?」
ラジエルが心配そうに覗き込んできたので、狩野は応えるように起き上がった。
記憶が一気に戻った弾みか鈍い頭痛はするけれど、体は特に問題がない。しっかり寝ていたのか、体力もある。
「思い出しましたね」
ウリエルが狩野の背後に視線を向けて、満足そうに頷いた。何のことかと思って振り返ろうとして、自分の背中に翼が生えていることに気付く。
六枚の純白の大羽根。間違いなく、ルシファーのものだ。
「なんか変な感じだな。本当に俺、昨日までは人間だったんだぞ。背中に羽根が生えるとか、夢見てる気分だ」
「でも、そちらが真実の貴方です。さて、後はミカエルですね。彼も最近、仕事をさぼって行方を眩ましてるんですよ~」
ミカエルの名を聞いて、ハッと携帯を見る。
「その件だが、俺は兄さんがどこに居るか知ってる。すぐに連絡を」
「その必要はないよ、ルシフェル」
玄関の方から声がした。狩野がそちらを見ると、スーツ姿の男性が立っている。
髪色は黒髪、瞳も黒目。顔立ちがやたら整っているにせよ、どこからどうみても日本人だ。
「美作……」
中学時代からの友人だった。同じ高校、同じ大学を出て、同じ企業に就職した。高校で同じになったとき、彼から、大学も同じにしようと持ち掛けられた。それは東京でもトップレベルの大学で、どうせなら上を目指したいと思っていた狩野はあっさり承諾し、結果同じ大学に。この企業を受けるつもりだと狩野が伝えると、美作が自分も同じだと返してきた。
けれどそれらはすべて、偶然では無かったのだ。どのような手段を使ったのかは分からないが、彼が狩野といるためにしたこと。
偶然だと思い込んでいた昨日までの自分を張り倒したい。もっとも、真実を知ったところで彼から逃げようとは思わなかったけれど。
「今は、私の本当の名前で呼んで欲しいな」
丁寧に靴を脱いで上がる彼は、どうやらこの数百年ですっかり日本の生活に馴染んだようだった。
ラジエルとサリエルが、警戒状態になる。ウリエルは黙って様子を見届けるつもりのようだった。
「兄さん、どうしてここに?」
「突然リモートにすると言ってたでしょう? 変だと思って来たんだよ」
「探してたんですよ、ミカエル。まさかこんなに近くにいるなんてね」
「仕事をさぼってたことは謝るよ、ウリエル。でも、それよりも大事なことがあったから。……あれ? どこかで見た顔だな。何でお前がここにいる」
ミカエルが、サリエルを睨んだ。サリエルはびくりと体を跳ねさせ、青ざめる。当然だ。相手は大天使、それも最高位の力を持つミカエルである。並大抵の天使では、彼の威圧に対抗できるはずもない。
それでもやはり、あの強い意志の瞳でミカエルを睨んだ。
「兄さん、やめるんだ」
「ああ、他を見てごめんね。私にはお前しか見えないから、安心して」
ベッドの傍まで近づいてきたミカエルは、安心させるように狩野を抱きしめる。
そういうことではないと訂正しようとして、いろいろと面倒くさいことになりそうだったのでやめた。
ラジエルは全身毛を逆立てた猫のようにミカエルを見ているけれど、それでも手出しできないようだった。ラジエルも決して地位の低い天使ではないが、それでも敵わない。
「さて、役者はそろったね。さて、裁判を始めましょう。手狭ではありますが、ここは異なる秩序だからこそちょうどいい。ルシフェル、貴方の思い出したことを話してください」
ウリエルが、何もない空間から紙とペン、そして『セファー・ラジエル』を取り出した。本をめくっているところを見ると、その内容を精査するつもりなのだろう。
ラジエルの書に嘘はかかれない。だが、真実が書かれているとは限らない。なぜならこの本は、すべてを識るラジエルが書いているものだからだ。意図的でなくても、真実が隠されることはあるのだろう。
ラジエルはミカエルを睨んだまま、時折こちらを見て来る。すべてを話してやれと目で訴えて来ていた。
ミカエルは困ったように笑っているだけだった。おそらくすべてが白日の下に晒されるとしても、それで良いと思っているのだろう。
サリエルはどちらに転ぼうとも興味なさそうだった。むしろ、彼は狩野が嫌いだろう。狩野のために力を使わされていた過去を、彼は忘れていないはずだ。
狩野の腹はもう決まっていた。意識を失って、すべてを思い出している間に、ゆっくりと心の整理をしていたから。
「……全部、俺の責任だ。罰は俺が受けるよ」
全員の視線が集まる。
ラジエルは困惑している。ミカエルはどこか嬉しそうだった。ウリエルは面白そうにしているし、サリエルは呆れた表情をしていた。
たしかに思い出せば辛いことも多いが、結局は過去の出来事なのだ。
人間として生きて来たこの数百年で、人間の強さと儚さを知った。彼らはもう、原初の罪など覚えてはいない。こうして世界に根を張っている彼らは楽園よりも楽しそうに見える。争いも多く、不条理で残酷なことばかりだけれど、それでも人間は地に足を付けて生きている。
ミカエルの罪を赦すつもりはない。けれど、彼の愛情は本物だった。悔しいけれど、やっぱり彼を恨み切れないのだ。彼のために堕ちたことは後悔していない。思い出したくもないような過去もあるけれど、彼と過ごした日々は穏やかでそう悪いものではなかった。
何より、もう天へ戻ることは出来ない。真実を、地獄を、そして人間世界を知ってしまった自分が、かつてのように天界で務めを果たすことは出来ないだろう。それならば、天使としての任から解き放ってもらうほうが良い。もしまた、地の底へ行くとしても。
「貴方は、それでいいのですね?」
「……ああ、それでいい」
「まってよ! ルシフェル、考え直して。僕はあの日、誰が禁断の園に入ったか知ってる。記録だって持ってるんだ。他にも、証拠はそろってる。君が証言すれば」
「ラジエル」
慌てたように話すラジエルの言葉を、狩野は制する。
彼女が長い間、ずっと自分のために働いてくれていたことは分かっている。それを思えば申し訳なくもある。
だが、これはもう決めたことだった。
「ラジエル、良いんだ。俺のためにいろいろとありがとな。応えてやれなくて、ごめん。でも、俺はもう、お前の憧れる天使じゃないんだ」
ラジエルはルシファーに憧れていたという。けれど、その頃の面影はもう出せない。あの頃は清廉潔白で、誰よりも主と天のために忠実だった。しかし、今は違う。清廉潔白ではないし、主への疑問も湧いていて任務を忠実にこなすのは無理だ。
ラジエルは狩野の言葉に、意気消沈したように顔を伏せて涙を流す。
「ルシフェル、君は今でも僕の憧れた君だよ……。誰よりも思いやりがあって、優しくて……誠実だ」
「うん、ありがとう。ほとんど話したことないけど、俺、お前のこと結構好きだぞ」
「はは、なにそれ。そう思うなら、全部話して欲しいんだけど? 僕の時間を返して欲しいよ」
「それは……ごめん」
「うそうそ、冗談だよ」
下手くそに笑うラジエルが痛ましくて、胸が少しだけキュッとなる。けれど、それ以上は何も言わなかった。
次いで、サリエルを見た。
「サリエル。いろいろと世話になった。ありがとな。……それと、ごめん」
「今更だな。それに、かつて下されたお前への罰は終わっていない。むしろ、そこの兄が妨害したせいで残ってる。お前はそれに苦しめられるだろ。それで充分だ」
「随分な言い様だな。でも、まあ、そう言ってくれるだけ助かるよ。……償いきれないからな」
天使と人間では、時間の流れが違う。だからサリエルにとってあの時間がどれほどに感じたのかは分からない。
だが人間の感覚を持つ狩野にとって、それは途方もない時間だった。そうでなくてもあの暗闇に包まれた世界では、わずかな時間すら無限に感じられるほどだったのだから。
サリエルは狩野の言葉に俯いて、言いづらそうに口を開いては閉じを数回繰り返した後、小さい声で言葉を紡いだ。
「……俺があそこから出れたのは、お前のおかげだ。もう、気にするな」
「え? それってどういう」
「お前には関係ない。忘れろ」
「えぇー……」
そういえばサリエルが何故あそこにいたのかの経緯は知らない。それに、何故彼が助けられたのかも。
どうやら触れられたくないことだったようなので、狩野はそれ以上聞かなかった。
「兄さん、約束してくれ」
「なんでも。お前の頼みなら、聞いてあげるよ」
「これから先は、人間を守ること。それが、俺が貴方へ課す罰だよ」
たとえ狩野が身代わりになったとしても、ミカエルの罪は消えない。それが天界に裁かれることは無くても、彼は許されざることをしたのだ。堕天していない彼の翼は純白だ。けれど、彼の魂は穢れているだろう。主はそれを分かっているだろうに、それでも傍に置いている。それは紛れもなく、彼を寵愛しているからに他ならない。
悪魔と契約を交わす禁忌を犯し、主の寵愛を奪い、人間を騙し、最愛の弟を裏切り穢し続けた。その彼が憎む人間という存在を守ることは、十分な罰になるだろう。
「わかった。人間がすべて消滅するその時まで、出来るだけ守り導いてあげよう。それでいい?」
「ああ」
狩野が頷けば、ミカエルは愛おしそうに眼を細めて、狩野の額にキスをした。彼の口付けに応えることはこの先もないけれど、何度だって甘んじて受け入れるのだろう。
そして最後に、狩野はウリエルを見る。するとウリエルは、瞳をつと細めて問うた。
「もう取り消すことはできませんよ」
「分かってる」
「……そうですか」
ウリエルはサラサラと紙に何かを書き上げると、それを丸めて、虚空へ消した。おそらく天へ送ったのだろう。
そして、粛々とした声で告げる。
「かつて貴方は、自らの罪を認め悔い改めるためにその身を投げたとされています。けれど貴方の翼は白く、堕天の刻印もない。よって貴方は事故により堕ちてしまったとみなします。前回貴方が出廷しなかった裁判では、その堕天の行いが認められ罪が軽くなっていました。しかし、その事実がない以上、改めて罰を決めねばなりません」
なるほど、どうやら狩野が地の底にいた件はそういうことになっていたらしい。おそらくミカエルが、天使たちの介入を防ぐためにそうしたのだろう。
以前の罰がどのようなものだったかは分からないので、今改めて罰を告げられてもどれほど重くなったのかはピンと来なさそうだ。
ミカエルが、ウリエルを制すように声を上げた。
「ウリエル。この子が地獄で囚われていたのは事実だよ」
「それは不慮の事故です。……とはいえ、裁判前に貴方の翼を封じていた結果でもあります。考慮しましょう。他には?」
ミカエルの意見を聞き入れたのち、他の天使を見回す。
裁きの天使の名に恥じぬ公正な姿に感心してしまった。
ウリエルはおそらく、事の顛末を知っている。『セファー・ラジエル』を読んでいるし、四大天使の一人である彼がミカエルの魂の穢れに気が付かないとは思えない。それでも狩野が告発をせず受け入れているから、今更ルシファーの仕業であるという決定を覆すことは出来ないのだろう。一度決まった決定は、本人の上告無しに変更するのは難しい。他の天使も納得しないだろう。
そして決定は変わらなくとも、罪や罰が適切では無かったので、その点についてのみやり直すことにしたというところか。
ラジエルが、スッと手を挙げてウリエルに言った。
「ルシフェルは人間世界で人間と同じ苦楽を受け、それでも清く正しく生きていた。アダムと同じ罰を償っていたことになるんじゃない?」
「確かにそうとも言えますね。良いでしょう。貴方が人間として生きていた時間を考慮します。他にありますか?」
「ミカエルに、人間を守るように約束させた。最近ミカエルの所業は目に余っていたはずだ」
意外にも、サリエルが申し出てくれた。嫌そうな顔をしているが、やはり彼は真面目で実直な天使のようだった。
ミカエルがサリエルに指摘されたことに苛立ちを見せていたので、狩野は彼の手を取り、宥めるように優しく叩く。するとミカエルは怒りを鎮め、溜息を大きく吐いた。
なるほど、彼の扱い方を少し分かってきたかもしれない。
「良いでしょう。考慮します。さて、ルシフェル。貴方自身から何か言いたいことは?」
「何も……ああ、いや」
何もないと言いかけて、まだ別れを告げてない天使が居たことに気付く。
狩野はウリエルを見て、努めて気さくな笑みを浮かべた。
「瓜谷さん。俺、貴方のお隣さんできて良かったですよ」
「……それは僕もです、狩野さん」
たまに鉢合わせて言葉を交わす程度の仲だったけれど、一人暮らしで会社と家を往復するくらいしかなかった狩野にとって、瓜谷は唯一話していた社外の人間だった。人柄がよく、親切で、夜中に騒ぐようなことも無い住人。そのなんてことない存在が、何より有難かった。
ウリエルは困ったように笑って、狩野の名を呼んだ。その名はきっと、もう呼ばれることは無い。
ウリエルは虚空から丸められた紙を取り出すと、それを広げた。天からの返事のようなものだろうか。
目を通したウリエルが、目を見開く。そして、嫌そうに顔をゆがませた。
しかしそれは一瞬で、すぐに厳粛な表情に戻る。
「貴方への罰をお伝えします」
ウリエルが、狩野に向き直る。
体が僅かに震えたのを自覚する。天罰がどのようなものかは分からないが、辛い罰を望んで受けたい人間などいない。腹を決めているおかげか心穏やかではあるが、それでも恐怖心を感じていないわけではなかった。
「貴方の犯した罪は、たとえ数多の償いを経てもなお許されざる行為である。ただし、その罪を自覚し、過去の責め苦を抱え続ける贖罪の心、また天界での貢献も否定できない。よって――人間の世が続く限り、この世の理からの追放を命ずる」
「な、それはどういうことだ!」
「お、落ち着けって兄さん!」
ウリエルの告げる決定に、ミカエルが立ち上がって募る。掴みかかろうとするミカエルを制しながら、罰の内容を反芻した。
理からの追放とは何だろうか。ミカエルは何かを知っているようだけれど、いまいちピンと来ていなかった。
なにせ長らく天を離れていたので、その間に出来た罰などには理解が及ばないのだ。
ウリエルが続ける。
「補足はこうです。ルシフェルの力の強さはミカエル以外に並ぶ者は無く、地獄へ繋げば瞬く間に堕天使や悪魔を従える王となるだろう。天への謀反を起こされるのは困る。またルシフェルは人間を誑かした罪を持つ。地上に留め置けば再び人間を誑かし悪事を働く可能性がある。地上に留め置くことはできない。よって、すべての理から外れた場所に存在させる」
なるほど、主にとってはルシファーは絶対悪なのだ。少なくとも、真実を語らない以上そうしたいということだろう。
果実を食べる前にウリエルは、主はミカエルと共にまとめて堕天させても良いと考えていると言っていた。しかし、天界にとってその両方の力を失うのは本意ではないはず。そして、この双子の天使が堕天し謀反を起こせば、間違いなく天界は負ける。どちらかに全ての罪を被せてしまうのが最善だと考えたに違いなかった。
「で、それって結局どういうことだ?」
「……文字通りだよ。君は天使でも人間でも、もちろん悪魔でもない存在になる。天使でなければ天界には行けないし、堕天使か悪魔か死んだ者以外に地獄への扉は開かない。人間でもないから、死ぬことも消えることもできず歳を取ることもなく、ただ地上に存在し続けるだけ。君は理から外れるから、人間や他の動物たちからも僕たち天使からも、もちろん悪魔からも、認識されることは無くなるんだ」
「……つまり、孤独が罰ってことか」
ラジエルの説明に、苦笑する。
きっと、誰もいないところに放り出された方がマシだ。自分は周りを認識できるのに、周りは自分を認識できないのだ。それはきっと、一人でいるよりもずっと孤独だろう。もちろん人里離れた場所で静かに暮らすのも良いかもしないけれど、きっと自分は結局人間を見に来てしまうのだ。もう、その賑やかさを知ってしまったから。
ミカエルが怒るわけだ。ミカエルもまた、ルシフェルの刑期が終わるまで会えなくなると言う事だから。あるいはウリエルは、そして主は、わざとそうしたのかもしれない。ミカエルの執着が生んだ一連の出来事だと分かっているだろうから。弟離れには良い機会だ。
ミカエルはミカエルで、ルシフェルとの約束を破ることは無いだろう。となれば、双子の天使はまた長い時を別々に過ごすことになる。
人間の世がどれほど続くかは分からないが、きっと天使たちにとってさえ短くは無い時間だろう。
「刑期が人間の世が終わるまでの根拠は?」
「貴方が犯した最も重い罪は、人間を唆したことです。傲慢な心を持っていたとしても、それは罰には当たりません。せいぜい軽い罰程度です。しかし貴方は人間を妬み、彼らを唆した。裏を返せば、貴方は彼らが居なくなればその心も晴れ、再び敬虔な主の僕となることができるでしょう」
これは詭弁だな、と思った。本気でそう思っているわけではなく、そういうことにしておくのが都合が良いのだ。
しかしそれは狩野にとっても都合がよかったので、素直に受け入れる。
「すべて御心のままに」
両手を組んで、頭を垂れる。それはいつも、主の御前で命を受けたときに行っていた忠誠の印だった。
「では、これより刑を執行します。……ミカエル、離れて」
「私は納得していないよ! 何故そんな罰を受けなければならない?」
「それは、彼が大罪人だからです」
「人間を誑かした何が悪い。唆される人間が悪いんじゃないのか?」
「兄さん、やめよう」
「ルシフェル、どうしてお前も黙っているんだ。あんな出来損ないのために、どうしてお前が苦しまないと」
「兄さん!」
思い切り、ミカエルの頬を叩いた。彼は信じられないものを見るような目で、狩野を見る。
それもそうだろう。彼は他の誰からもそのような所業をされたことはないだろうし、何より狩野がそのような行動をするなど、今までなら有り得なかったからだ。
残念ながら今の狩野は酸いも甘いも知っているごく普通の人間であり、清廉潔白など似合わぬ大罪人であり、共に馬鹿をやっていた彼の中学以来の親友でもある。敬愛する兄だと分かっていても、人間として接してきた時間が無くなるわけではない。叩くことだって、あっさりできてしまう。
きっとミカエルだって、ともに人間として過ごした日々を悪いものだったとは思っていないはずだった。彼が狩野と接するときは、いつだって心底楽しそうだったから。
「兄さん。これ以上、天の決定に逆らおうとしないでくれ。俺が何のために、誰のために受けれたかを忘れるな」
我ながら嫌な言い方だと思った。恩着せがましく、無理矢理にでも従わせようとする言い方。それでも、引くことは出来ない。
「兄さん、これは貴方への罰でもある。せいぜい人間のために尽くしてくれよ」
ミカエルはすっかり黙ると、悔しそうに手のこぶしを強く握った。先程とは違い、そこに手を添えることは無い。悔しくても辛くても、彼にはこの苦しみに耐えて貰わなければならない。
狩野はミカエルを離し、ウリエルの前に跪いた。そして、先程のように手を組み、頭を垂れる。
まるで洗礼を受けているかのようにも思えるその光景に、ラジエルの嗚咽が漏れ聞こえた。泣いているのだ。
ついぞ彼女が何故ここまでしてくれるのかは分からなかったけれど、これから先も知る必要は無いだろう。彼女の想いの元が何であれ、もう消えてしまう存在なのだから。
「サリエル」
「……分かった」
ウリエルがサリエルを呼んだ。そういえば、サリエルは天使を堕天させる役割も持っていたんだったか。
ならば、今回の罰を下すのもまた彼なのだろう。最初から最後まで、彼には迷惑をかけているようだ。
彼は狩野を癒した時と同じように、頭に手を乗せる。そして、何かを呟いた。
癒されていた時とは異なり、冷たい流れが全身を伝って彼の手に収まっていくのを感じる。力を取られているのだ。
アスモデウスの時とは違い、もっと根本的な力の源を潰されているように感じる。
ああもうすぐ理から外れるのだ、と本能的に分かった。だから目を瞑ったまま、小さく呟いた。
「それじゃあ、また」
すべての力が吸われ終わったのだろう。自分の体から、羽根が失われているのが分かる。
サリエルの手が下ろされ、狩野は顔を上げた。
そして、今この場にいるすべての天使の瞳から自分が消えたことを理解した。
「ああ、ルシフェル、ルシフェル……いるんだろ、返事してくれ」
ミカエルの悲痛な声が響く。応えてやりたいけれど、応えたところで声も届かないのだろう。ならば虚しいだけだ。
サリエルはなんとも言えない表情のまま舌打ちをすると、早々に部屋を後にした。
ウリエルはなおも部屋にしがみつこうとするミカエルを無理矢理引っ張って、天界へと戻っていった。
最後まで残ったのは、ラジエルだった。涙に濡らした表情は幼さを際立たせ、まるで子供を虐めたような気持ちにさせてくる。
「ルシフェル。僕は君が憧れだった。いまでも、変わらない。君がどれほど人間のようになったってね。あーあ、こんなことなら君に全部話せばよかったよ。まあ、いいや。君が償いを終えたら、僕が必ず迎えに来る。なんせ僕はすべてを識る天使だから、ミカエルより早く君の元に駆け付けられるよ。そしたら、その時話そうね」
ラジエルはすくりと立ち上がり顔をパチンと叩くと、「それじゃあ、また」と声を掛けて去っていた。
いよいよ、本当に一人になった。きっとこれから自分は、多くの孤独を感じるのだろう。それでもなお人の営みを見続けてしまうのだ。
「まあ、今まで結構自由にさせてもらってたしな。全部終わったら、しばらく兄さんをこき使ってやろう」
人間の世がどれほど長く続くかは分からない。けれど願わくば、それはずっと先であってほしい。
成長を続ける出来損ないの生物の世は、まだまだ終わるには勿体ないのだから。




