Chapter:3 水底に眠る記憶
目を開けると、そこはごつごつとした天井だった。視線だけで周りを見ると、俺はどこかの部屋に横たわっているらしい。机や椅子など人間らしいものは無く、自身も冷たい岩の上に寝せられているだけのようで背中が冷たい。不思議なことに、光源は無いのに部屋の中がはっきりと見えた。
腕を動かそうとして、全身に力が入らないことに気付いた。それどころか、何かを考えようとしても頭がぼんやりとしていて、上手く考えを紡ぐことが出来ない。それでも起き上がろうとして、チャリと金属製の音が鳴る。それが手足に取り付けられた鎖だと気付くのに、おそらく五分とかかっただろう。
時間も空間も曖昧なこの場所では、正しい時を刻むのは難しかった。
「おや、お目覚めですか? 愛おしい方」
部屋の入口の方から声が聞こえて、そちらを見る。彼の名前は確か、アスモデウス。でも、なんで彼がここにいるのだろうか。
何も思い出せない、考えられない。
「すみません、昨日は無理をさせてしまいましたね。あんまりにも可愛らしいから……。私は癒す力がありませんから、彼を連れてきましたよ。本当は触れさせるのも嫌ですが、仕方ありません。ほら、入ってください」
アスモデウスが入口の方へ呼びかけると、鎖の音と共に、羽根を黒に染めた天使が入ってきた。手には枷を嵌めらえれ、足には堕天の刻印が刻まれている。黒髪は長く垂れ下がり、前髪は天使の顔を隠していた。
天使が横まで来ると、アスモデウスが天使の長い前髪を掴み引っ張る。すると天使はよろけて跪いた。
その拍子に現れた顔は薄汚れてはいるが精悍で、青灰色の瞳は何にも屈さないという強さが見える。
「図が高いですよ、サリエル。本来ならばお前が簡単に会える存在ではないのです。さあ、彼を癒しなさい」
「は? なんで俺がこいつを……くぅ、ああっ!」
不機嫌に呟いたかと思うと、サリエルは苦痛に顔をゆがませ、堕天の印を抑えた。痛みは引いたのか悲鳴はすぐに止んだが、肩で息をしている。瞳には涙を浮かべ、アスモデウスを睨んでいる。
「サリエル。お前のその性格は買っていますが、私の命には従いなさい。それとも、仕置きされたいですか?」
「……ちっ」
サリエルは強く舌打ちをすると、額の上に乗せて来る。そして何やら唱え始めた。
温かい水が全身に沁み渡るような感覚と共に、ゆっくりと力が戻ってくるのを感じる。それに対し、サリエルと呼ばれた天使はどんどんと顔が青ざめていく。だが、アスモデウスは止めようとしない。おそらく彼が制止する前で、サリエルは力を使い続けなければならないのだろう。
憐れに思えて止めようとしたが、その前にサリエルがどさりと倒れた。意識は失っていないようだが、体を支えるだけの力が無いようだ。
アスモデウスは彼に冷たい視線を向けたあと、彼に向けて極めて淡々と言葉を吐く。
「限界まで力を使って、この程度ですか。役立たずですね」
サリエルの方がびくりと揺れる。表情は見えなかったが、言葉が刺さっているのは分かる。
アスモデウスはそんなサリエルの様子に満足そうに口の端を上げ、彼を部屋に連れて行くように手下の小鬼を呼んだ。そして覚束ない足取りで小鬼に支えられながら出て行くサリエルを、アスモデウスは楽しそうに見送る。
なるほど、アスモデウスはサリエルを虐めるのが好きなようだ。可哀想に。
アスモデウスはこちらを振り返って、俺の髪をさらりと撫でて来る。
「まあ、相手が貴方では仕方ないか。貴方は天上でも誰よりも気高く、力を持った天使でしたから」
そしてうっすらと黒ずんでいる羽を撫でると、軽く口付けをした。
「私が貴方から力を奪うたび、この羽根は黒ずんでいく。けれど他の天使たちとは違い、少し経つと本来の白に戻ってしまう。初めは決して染まらない貴方が憎らしくもあったけれど、今は貴方の自浄力に感謝しています。こうして何度も、貴方を私色に染めることができるのですから!」
嬉々として語る彼に変態めと吐き捨てようとして、声が出ないことに気が付いた。手足を動かそうとしても、両サイドから延びる枷が動きを封じる。
軽く動いたことで鎖が鳴り、アスモデウスうっそりと笑った。
「貴方の声が聞きたいけれど、貴方の言葉は強い力を秘めていますから。手足も自由にしてあげたいけれど、そうすると貴方は逃げてしまうでしょう? 我慢してくださいね」
愛おしそうに頬を撫でる。アスモデウスの瞳はどこまでも優しく、慈愛に満ちていた。
堪能するように俺の頬を撫でた後、アスモデウスの指が唇に触れる。ほとんど無意識に、その指をちろりと舐める。
アスモデウスが嬉しそうにふふっと笑った。
「口寂しいですか? 貴方の力が戻ったら、貴方の望む通りにします。もう少し待ってくださいね」
そして指を己の唇に口付け、そのまま俺の唇に合わせたかと思うと、つとなぞる。
たったそれだけのことなのに、条件反射のように背筋がぞくりと粟立った。内側の何かが、ゆらりと揺れる。体が彼に力を吸われることを望んでいるみたいに。脳裏には、もう幾度となく繰り返された儀式のようなその行為が浮かび、期待にトクリと胸鳴った。
ああ、どうしてこんなことに。俺は清廉潔白な天使だったはずなのに。すでに体は、その口付けの先にある快楽を知ってしまっている。慣らされて、受け入れてしまう。力が抜けて思考が奪われることに危機感を覚えているのに、まるで昔からそうあることが正しいかのように従ってしまうのだ。
「憐れな堕天使。兄に裏切られ、絶望のままこの地に堕ち、私の手にかかってしまうなんて。けれどね、私は貴方のそんな可哀想なところが、何よりも愛おしいですよ。こうして永遠に私の傍にいると良いです。何も怖いことはありません。そうでしょう? 明けの明星にして曙の子、堕天使の王ルシファー」
ルシファー。そうだ。確かに俺は、そういう名前だった。懐かしさもある。そう思うのに、どこかしっくりと来ない。けれど、それで良いとも思った。
名前なんて必要ない。アスモデウスは俺の名を呼ばないし、彼以外に俺に話しかけて来る存在なんていないのだから。
「天使の名前なんてお捨てなさい。貴方はもうこちらの住人。新しい名前を考えましょう。素敵な名前にしますから、楽しみにしていてくださいね」
アスモデウスは、鼻歌でも歌い出しかねないほど上機嫌に、足取り軽く部屋を出て行った。
先程よりもクリアな思考は、それでももうかつてのようにスラスラと回ることは無い。取り留めのないことばかりがぷつぷつと、浮かんでは消えていく。
俺は、先程のアスモデウスの言葉を反芻した。
新しい名前。それも悪くないかもしれない。天に居た頃のことなんて忘れてしまった方が良い。もう気の遠くなるような時間を経ているのに、それでも未だに思い出すだけで胸が痛む。そんな記憶、無い方が良い。
「分かってないなぁ。お前の名前は何よりも美しいのに」
何もなかったはずの場所から声がした。俺は視線だけでそちらを見る。
そこには、美しい金髪と碧眼、そして長い髪、大きな六枚の純白の羽根を携え、内側から光り輝く存在が立っていた。
彼を見た瞬間、まるでかつて天に居た時のように、思考が晴れていくのを感じる。これは彼の力なのだろうか。
それにしても、天の光が届かない地中深くのこの地獄に、天使は遣って来られないはずだ。それなのに、何故、天界で最も高位にある天使がここにいるのだろうか。
「誰がお前をここに繋いでると思ってるのさ、可愛い弟。私はね、ここに自由に来られるんだよ。そういう契約なの」
神の側近でもあるお前が、主を裏切っているというのか。
「私は主を裏切ってないよ。私のやり方で秩序を守ってるだけさ。もちろん、お前もね」
光り輝く大天使にしてルシファーの兄であるミカエルが、くすくすと笑いながら横に座った。
彼は優しく髪を撫で、愛おしそうにこちらを見て来る。
「酷い恰好だなぁ。好き放題してくれちゃって。まあ、仕方ない。お前の力を彼に渡す条件で、ここに囲ってもらってるんだし」
ミカエルが何を言っているのか分からなくて、困惑のまま彼を見る。するとミカエルは、まるで種明かしをするように、どこかワクワクした表情で言った。
「天で最も偉大と謳われるのは、一人で十分。そしてルシフェル、それはお前じゃないの。お前はずっと主からの寵愛が厚かっただろ? 目障りだったんだ。でもね、私はお前が誰より大切でもあるんだ。天使どもと話しているのも嫌だから、私以外と話さないようにずっと一緒に居たのに。それなのに、あの人間風情、気軽に話しかけやがって」
苛立ちを隠さないまま、ミカエルが壁をこぶしで殴った。力任せのそれはドンという音を立て、思わず体がびくりと揺れる。するとミカエルは、慌てて落ち着かせるように俺の髪を撫でた。
「ああ、ごめん。お前が悪いわけじゃないんだ。でもね、あの人間風情が邪魔だった。ただ、主はああいう存在をまた創り出すだろう? だから、その度にお前が取られないかと心配するのは嫌でね。お前ごと、堕としちゃえばいいやって思ったんだよね」
慈愛に満ちた表情が、悪魔の微笑みに思えた。悪寒と狂気で背筋にひやりとしたものが走る。
これは、誰だ。ミカエルはいつも優しく、朗らかで、誰に対しても優しい天使だった。周囲から尊敬の念を集める性格をしていて、社交的だったから、神である主からの信頼も厚かった。そんな兄を、俺もまた尊敬していた。
俺は口が上手いわけではなく、社交的な性格をしておらず、話し相手はだいたい兄くらいだった。だから天使の知り合いもそれほど多くない。俺は事務向きで細かな仕事やコツコツとした仕事は得意な方だったから、確かに主と接する機会が多かったし、信頼もされていたと思う。けれどそれは、兄よりもというわけではなかった。
「主があの知恵の実を与えるよう言ったと、お前に伝えたのは誰だった? あの女を唆したのは誰だった? 男と女が実を食べその横で微笑むお前を、他の天使に見つけさせたのは、誰だと思う? 裏切り者と汚名を着せ、碌な審議もせず楽園追放を提案したのは? お前が助けに来ると分かっていながらわざと天の端で足を滑らせ、お前を逆に堕としたのは、誰だった?」
一つ一つのシーンが思い浮かぶ。
かつて楽園に居た時、主が知恵の実を人間に食べさせるよう言っていたと告げてきた者がいた。それでアダムとイヴの下へ向かうと、すでに実を持っていて、それを食べればあらゆることを知れる賢い者になれると教えてもらったと言った。二人は最初は疑っていたけれど、ルシファーが同じことを言うのならば間違いないはずだと、それを口にした。使命を果たせたこと、そして二人が嬉しそうに食べている様子が微笑ましくて、俺も顔が緩んでいたと思う。そこに、ウリエルが通りかかった。アダムとイヴは慌てて己の体を隠し、恥ずかしいと言った。ウリエルが顔を真っ青にして、何てことをしたんだと叫んでいたのを覚えている。
それからいろいろあった。人間たちは償いのために地上に堕とされ、多くの苦しみを与えられた。俺が自分の裁判を待っている間、味方してくれる天使や励ましてくれる天使もあった。しかし、大切な人を守るため真実を告げない自分を、主を始めとした大天使たちは大罪人として断罪した。形式的には裁判をするけれど、有罪は確定だろうとは思っていた。
罪とされた内容は、アダムとイヴを唆し、禁断の果実を与えたこと。そして、彼らを使って己の権力を誇示し、主の威光を穢そうとしたことだった。一度もそんな事企んだことは無かったけれど、それでも何も言えなかった。真実が、愛すべき者を表に出してしまうことを恐れたから。
そして、正式な裁判の前の日に、その愛すべき者に呼び出された。真実を告げられないことを申し訳なく思っていること、それでも俺が代わりになるのが嫌なことを告げられた。俺は気にしていないと告げると、彼は悲しそうに後ろず去り、そして――足を滑らせた。
堕天とは文字通り天から落ちることだ。通常は羽根が生えて自由に行き来できるが、堕天の刻印を表れた者は天へ戻ってくることは出来ない。そして印が付く条件は二つ。一つは、天界からの裁き。もう一つは、罪の意識などで自ら堕ちること。足を滑らせたのに羽根を出そうとしない彼は、後者に当たる可能性があった。だから慌てて助けたら、その反動で今度は自分が天から堕ちることとなった。しかし、飛ぶことは出来ない。当然だ。裁判までの間に逃げ出さないように、翼を封じられていたからだ。
そのままみるみる地上を抜け、さらに深い闇の底にまで落ちたところで、アスモデウスに捕らえられた。そこからは、彼にただ力を与えるだけの存在になっている。
いつの間に使えるようになった翼は、囚われの身ではもう役に立たない。アスモデウスに力を奪われると穢れを孕むことで黒くなるが、正式に堕天使したわけではないため、その穢れは少し経てば晴れていく。足に堕天の印は無いのでサリエルのように縛られることはないから、アスモデウスは物理的に俺の動きを封じていた。
元来最上位であったためか、聖なる力は無尽蔵に湧いて行く。どうやらその力は、悪魔が蓄えるとより彼らの欲を叶えやすくなるようだった。悪魔の力を強化するのか、あるいは別の力として使う事が出来るのかは不明だが。
そしてその、ここに至るまでの一連の流れを作ったのだ誰だったのか。聞くまでもなかった。すべての場所に関わっている者など、一人しかいない。誰よりも守りたいと思っていた、たった一人の尊敬する兄。
「そう、私だよ。全部、私が仕組んだんだ。可哀想に、そうとは知らず私を守るために犠牲になるなんてね」
可哀想にと言うその口で、満足そうな微笑みを浮かべている。嬉しくて仕方がないとでも言いたげな表情が、たった一人の弟に向けられているとは思いたくなかった。
フラッシュバックした景色がある。
彼を助けて天から堕ちたとき、ミカエルの表情は、笑っていた。考えてみれば、あれは計画通りに事が運んだことが嬉しかったからだったのか。
あの時はその表情が信じられなくて、いつしか幻覚だったのだと思い込んでいたのだけれど。
「アスモデウスがね、持ち掛けてきたんだ。もしお前の力をくれるなら、お前を匿ってくれるって。いつでも出入りしていいから、好きにしてくれってさ。名案だと思ったよ。アスモデウスに触らせるのは嫌だけど、他の奴らの眼に触れる方が耐えられない。はは、今お前の瞳も、頭の中も、私でいっぱいでしょ? 最高だよね」
愉悦を浮かべた表情に、本能的恐怖を感じる。彼の執着心はいったい何なんだろうか。もともとこんな性格をしていたのか、あるいはどこかで歪んでしまったのか。少なくとも、人間が誕生する前までは、こんな風では無かった気がした。
それにさらりと言っていたが、悪魔と契約をしたのか。それはつまり、彼はもうすでに正真正銘の敵対者――。
「ふふ、怖い? その表情も最高だよ。でも大丈夫、お前には優しくする。たった一人の弟なんだから」
ミカエルは顔を近づけると、そのまま唇を俺のそれに重ねて来た。触れるような優しい口付けは力を奪われるそれではないのに、慣らされた体は無意識にあの心地良さを探して、次第に深くなっていく。
相手は兄で、しかも自分を嵌めた存在であり、そのうえ敵対者である。悪魔が力を得るために行う口付けとは異なるそれは、本来ならば天使同士で、ましてや兄弟で行われるものでは無いはずだった。
自分を手酷く裏切った相手からの口付けを、何故受け入れているのだろう。何故、愛しさを感じてしまっているのだろうか。
俺は自分が分からず、さりとて彼を拒むこともできず、ただ為すがままに深くなる口付けを受け入れることしかできない。
力を吸われる時とは異なり、そこに悦楽はない。けれど、なぜか満たされる感覚がある。
それは、彼から向けられる感情が愛情だと無意識に感じ取っているからだろうか。これが、兄弟の繋がりなのだろうか。ミカエルの持つ執着心は深いけれど、もしかしたら、自分もまた彼に執着心を持っているのかもしれなかった。
自慢の兄が誰かと話しているのを見て、わずかでも嫉妬心が湧かなかったと、言い切れないから。
しばらく口付けを堪能したのち、ミカエルは名残惜しそうに唇を離した。
「……はあ、戻りたくない。また来るよ。それまでずっと、私を思っててね」
ミカエルはおでこに軽くキスをしたかと思うと、ふっと消えてしまった。
胸がどきどきと高鳴っているのは、恐怖か、畏怖か、あるいはそれ以外の感情なのか。
ミカエルが立ち去って鈍ってしまった頭では、その答えを見つけることは出来なかった。
空色の瞳の天使がやってきたのは、それからしばらくした後だった。人間の世界で言えば、おそらく千年は経っていただろう。
本来は入れないはずの闇の地獄にやってきて、アスモデウスが大層驚いた様子でその幼顔を見る。
「これはラジエル殿。どうやってここへ?」
「アスモデウス、ルシフェルは返してもらうよ。もちろん、サリエルもね!」
ラジエルと呼ばれた天使は高らかに宣言して、そそくさと俺の手足の枷を外していく。
力を吸われたあとで意識は朦朧としていたし、そうでなくても鈍っている頭では、彼らが何について話しているのかを理解するのは難しかった。
音の流れが耳に入ってきて、休みたいのに煩いと思ったくらいである。
「そもそも、返すとは? 彼は天より堕ちたのでしょう」
「裁判のやり直しが行われることになったんだ。正確には、前回は本人不在で勝手に決まっちゃったから、ちゃんとやり直しましょうってことだけどね。それで、ここに入れてもらった」
「……誰に?」
「誰って、主にだけど。他に居るの?」
「いえ。なるほど、天界の主の決定ならば、どうぞお連れください。サリエルも連れて行くのですか?」
「サリエルの罪は、ここに来るほどじゃなかった。それなのに、君が勝手に連れて来たんだろ! 主は天界に戻すって言ってたから、何か考えがあるんだと思うけど……君には関係ないね」
「そうですね。では、早くお連れなさい。私は争いを嫌うだけで、本来天の神に従う理由はないんです。貴方もここに縛り付けても良いんですよ」
「うげぇ、悪趣味。永遠に性欲持て余してなよ!」
「幼い女顔の子から罵倒されるのも悪くありませんね」
「近寄るなロリコン! それじゃあ、僕はいくから。じゃあ!」
無間の闇にふさわしくない賑やかな客人は、二人の天使を抱えるとあっという間に地獄を後にした。
次に目を覚ました時、どこかのベッドの上に居た。ふかふかなそれは地獄とは違い、何より窓の外から光がさしている。
気の遠くなるような時間を経て、再び地上へとやってきたのだ。
「ああ、目を覚ましたね」
隣に置かれた椅子に座る天使――ラジエルと呼ばれていた――が、こちらを見て安心したように微笑んだ。
「……お前は?」
声が出せた。地獄で掛けられていた封印が解かれたのだろう。久しぶりに出した声は掠れていた。
「僕のこと、覚えてない?」
「どこかで会ったか?」
「うーん、覚えてないなら気にしないで。僕はラジエル。この世の全てを識る者だよ。だから僕は、ミカエルの罪も、君の無罪も知ってるんだ」
「……そうか」
どうでも良いと思った。今更冤罪が晴れたところで、天界に戻りたいとは思わない。それに、罪を暴くことはミカエルの失脚を意味する。それでは、何のために自分が代わりに堕ちたのかが分からない。アスモデウスの下で幽閉され、ただ彼の従順な駒として生かされていた時間が、すべて無駄になってしまう。
ラジエルはそんな考えに気付いたのか、少し悲しそうにトーンを落としていった。
「君がミカエルを守りたいのは分かる。でも、彼は最近、変わってしまった。以前はもっと高潔で、誰よりも天を思い、慈しみ深い天使だった。でも、君が堕ちてしまってから……意に沿わない天使は堕とし、救いを求める人間には天罰と称して災いをもたらし、秩序を守るという理由で好き放題なんだよ。そして、四大天使たちでさえ、彼に強く出れなくなってしまった」
「主は何と?」
「主は、楽園が平和で清らかならばそれでいいんだ。もともと楽園は主が心安らかに住めるように造られたものだし。人間のいざこざはミカエルが勝手に解決しちゃうし」
「何が、駄目なんだ?」
「僕たち天使は、主の言葉を人間に伝えると同時に、人間を守る存在だ。それなのに、ミカエルは人間に手を貸そうとした物を堕とす。……サリエルもそうだった」
サリエルと聞き、あの青灰色の瞳を思い出した。地獄の底に居てもなお屈さない強い意志のそれは、自分にとっては少し眩しかった。
そうか。彼は人間に手を貸して堕とされたのか。実直そうな顔をしていたし、きっと真面目な天使なのだろう。
「ミカエルに戦いを挑みたいのか?」
「そうじゃない。僕はただ、裁判で君の無罪を証明したいんだ」
「何故?」
「……もともと君が天界に居た頃から、憧れではあったんだよ。ミカエルに比べると目立つタイプではなかったけど、静かで、コツコツと仕事をしてて……すごく綺麗だった。人間のイメージする天使様は、きっと君のことだよ。で、昔、君に助けて貰ったことがある。覚えてないと思うけどね。あの時から僕は、もし君がピンチになる時は助けようと思ってたんだ」
助けたことがあると言われても、まったく記憶にない。きっと些細なことだったのだろう。そんなことを律儀に覚えて、手助けをしてくれるという。
すでにすべてから見放されたと思っていたから、その好意は単純に嬉しかった。
しかし同時に、迷惑でもあった。真実を暴きたいなどと、欠片も思っていないのだ。叶うならば、もうこのまま地上で生活できれば、それでよかった。
懐かしそうに話すラジエルに礼を言う事も出来ず、ただ窓から見える青空を眺める。
天界に居た頃は気にもしていなかったけれど、空とはこんなにも美しかったのか。光と言うのはこんなにも懐かしく、温かいものだったのか。
「僕は少し出てくる。ゆっくり休んで」
ラジエルはそう言うと、木製の扉を開けて出て行ってしまった。
一人残された部屋は静まり返り、人間たちの紡ぎ出す喧騒が聞こえてくる。それが人間たちだと気付いたのは、彼らの話す言葉が原初の二人を連想させたからだった。
深い闇の中で生きている間に、人間はこんなにも多く、そして発展していた。楽しそうに話す彼らの声は、地上を堕とされて苦を与えられた末路とは思えぬもので。人間にとって、すべてに縛られ知恵を得ることも許されなかった天界よりも、自由に生きることのできる地上の方が合っているのかもしれないと感じる。
ああ、いいな。もし地上で生活できるならば、すべてを忘れて人間のように生きたい。彼らのように、自由に、楽しく暮らせたら。きっとそれは、幸せなことだろう。
「ルシフェル。やっと見つけた」
腹の底が冷えるような声に、思わずごくりと喉を鳴らす。見なくても、その声の主が誰など分かる。
「にい、さん……」
「ああ、声が戻ったんだ! 声が出せないなんて勿体ないよね。お前の声は心地良いから」
「どうして、ここに?」
「どうして? それは愚問だね。お前を迎えに来たんだよ。あのチビ天使のやつ、どうやったかお前の気配を探らせないようにしてたんだよね。さあ、一緒に行こう?」
「……嫌だと言ったら?」
「お前に拒むことはできないよ。これは決定。今度は私と二人きり、怖いことなんてない。私たちの秩序が及ばない場所を見つけてね。あそこなら、お前と天界との縁さえ切ってしまえば見つからずに済む」
声は優しく明るく穏やかなのに、底知れぬ狂気が見え隠れする。頭の隅で、逃げろと警鐘を鳴らしているのが分かる。
けれど長い間動いていなかった手足はろくに役に立たなそうになく、彼から逃れることは出来ない。
ミカエルは大層丁寧に、俺を抱き上げて来た。まるで割れ物を扱うような素振りがより一層恐怖心を引き立て体が強張るけれど、彼はそれに気付かないようだった。
「ああ、初めからそうすべきだったんだよ! あんな変態悪魔の力なんて借りずにね」
苛立った声が、彼の情緒の不安定さを強調する。以前にミカエルはこれほどコロコロと感情が変わる天使では無かった。むしろ誰かに怒っている姿など見たことが無いような気がする。主に忠実で、誠実な、そして偉大な天使だったのに。
「人間とは気楽なものだな。私たちの苦労も知らず、主の願いもろくに聞けないような駄作め」
吐き捨てるような言葉は、外にいる人間に向けられていたようだった。
悪魔との契約が彼の心を穢してしまったのか、それとも人間の存在が彼の心を壊したのかは分からないけれど。少なくとも、ミカエルは人間が酷く嫌いなようだ。
ミカエルはそのまま窓を開くと、六枚の大羽根を広げてふわりと宙に飛び上がった。
一人の天使を抱えながらも不安定さが無い飛行はさすが大天使といったところで、ぐんぐんと高度を上げる。そして進路を東に取り、ひたすら空を飛び続けた。
「……俺を、どうするつもりだ」
「君は私とずっと一緒にいるんだよ」
「どうして、そこまで俺に執着するんだ? 俺は兄さんに、何かしてしまったか?」
「たった一人の双子の弟を慈しまない兄はいないよ。私とお前は産まれた時から消える時まで、ずっと一緒にいる。ただそれだけのことさ。お前が天に帰れないなら、地上で共に過ごせばいい。私には務めがあるけれど、できる限り一緒にいるよ」
「……俺はもう、消えてしまいたい」
小さな呟きはミカエルにはっきりと聞こえたらしい。彼はぴたりと止まると、俺をぎゅうと強く抱き締める。
「ああ、可哀想に。酷い目に遭い続けたんだ、そう思うのも無理は無いよ。でも大丈夫。私たちの新しい住処に行ったら、嫌な記憶はすべて消してあげるからね。お前には私しかいない、それで良いんだから」
記憶を消すという言葉に、知恵の実を食べた二人を思い出す。彼らもまた、主の意に沿うために記憶を消された者たちだ。
すべてを忘れられるなら、もうそれで良いと思った。ともかく疲れ切っていて、何もかもから逃げ出したいと思っていたのだ。
「一つ頼みがある」
「何でも言ってごらん。愛する弟の願いはなんだって叶えてあげるよ!」
「……人間に、なりたい」
その言葉に、ミカエルの表情がみるみると変わる。初めは怒りに、次に悲しみに、そして、憎しみに……。
このまま消されるか、ここから落とされることを覚悟していたけれど、ミカエルは努めて冷静になろうと深呼吸をして笑みを浮かべた。
「どうして、そう思うの? 人間なんて出来損ないじゃないか」
「それでも、主の創り出したものだ。俺は彼らが嫌いじゃない。それに、自由だろ。俺も、もう、自由になりたい」
――すべてから。天のしがらみも、地の記憶も、兄との関係も。もう、必要がないものだから。
言葉にせずとも、ミカエルには伝わったらしかった。そしてこれは、ある意味でミカエルへの拒絶でもあった。
さすがにショックを受けたようで、傷付いたような表情でこちらを見て来る。まるで捨てられた子犬が必死に縋ってくるようなそれが、少しだけおかしかった。
考えてみれば、天界に居た頃から今に至るまで、一度もミカエルを拒んだことが無かった。当然だ、その理由が無いのだから。今だって、本当にミカエルと離れたいとか、彼を遠ざけたいと思っているわけではない。ただ彼からの裏切りのような行為は魂にまで深く刻まれていて、それでもなお彼を恨めない自分の甘さが辛くて、それなら彼ごと記憶から消してしまいたかった。それだけだ。
ミカエルは無言のまま、東に飛び始めた。
彼がどういう選択をするにせよ、どのみち抵抗する気力は無い。ただ願わくば、願いを聞き入れて欲しい。
その想いから、体重を彼に傾ける。ミカエルはそれに気づいたようで、無言のまま俺を支える力を強くした。
どれほど経ったろうか。ミカエルはとある島国の村に降り立った。木製の家と、茅でできた建物。明らかに自分たちのいた場所とは異なる風景が、奇妙で、興味深い。
秩序が通じないというのは事実なようで、まるでこの世界から拒まれているような、そして誰かに見られているような感覚がする。人間は天使が見せようとしない限りその姿を見ることはできないので、その感覚は彼らによるものでは無いだろう。
「……人間になりたいなら、その願いを叶えてあげよう。もちろんお前は天使だから、実際に人間になることはできない。でも、体験ならさせてやれる。お前が嫌だと思うまでね。はぁ、お前と過ごすのはその後にするよ」
「それでいいのか?」
「いいよ。お前の願いだもの。それに人間なら、私がいないと駄目だろう? どう足掻いてもいつかは私に縋りつく。それも悪くないね。ああ、私は、結局お前には甘いんだ」
諦めたように笑う表情は、彼がここに来るまでの間にした沢山の葛藤を表していた。
それは、まだ人間が生まれる前の平和だったころを思い出させた。お願い事をすると、彼はこうして困ったように笑ったのだ。
いろいろあったけれど、二人で仲良く過ごした時間が嘘だったわけではない。それだって大切な想い出だ。長い時の中で、忘れてしまっていたけれど。
ミカエルは俺を地面に下ろすと、俺の頭に手を添えた。
「私はお前を誰よりも大切に想っている。それだけは、本当だよ」
そう言って、彼は何かを唱え始める。すると急速に意識が遠のいて行く感覚がして、意識は暗闇に包まれた。
最後に見たミカエルの頬に一筋の雫が煌めいていたのは、錯覚だったのだろうか。
それから何度も、ミカエルは俺の記憶を捏造しては、消した。
成長するにつれ周りと共に歩めなくなることに気付いた時、彼は必ず現れて聞くのだ。まだ人間でいたいか、と。
俺は意味が分からず、けれど毎回、人間でいたいと答えた。そして、ミカエルは俺の記憶を消し、捏造し、人間社会へと戻すのだ。
たぶん、人間の世代が少なくとも十は下るくらいの年月をそうして過ごして来た。
ミカエルはいつでもそばにいたし、困っていたら必ず助けてくれた。そして根気強く待った。俺が人間をやめたいと思うその時を。
今回の生でウリエルが瓜谷として隣に引っ越してきたとき、彼は一度俺を見て驚いた顔をしたと思う。今思えばあれは、俺があまりにも普通に人間として生きていて驚いたのだろう。
ウリエルが何を思ってずっと俺のお隣さんをしていたのかは分からないけれど、それは後で聞けばいい。彼との繋がりが切れたわけではないのだし。
ああ、それよりも。ミカエルは、ずっと傍にいた。時には遠くから見守るように、そして時には人間として。
今だって。彼はずっと、傍にいたじゃないか。




