Chapter2 禁断の果実
その夜。リモートワークだからと調子に乗っていたがちゃっかり仕事が増え、結局二時間ほどの残業をする羽目になった狩野は、遅めの夕食を取っていた。夜の八時過ぎから食べるカツ丼はやや重く、年齢を重ねていることを実感する。
ぴーんぽーん。
呼び鈴が鳴った。そもそも狩野に来客など滅多になく、通販を頼んでもいない。明らかに変である。
狩野は扉の覗き穴から外を見る。そこには、黒髪を後ろに束ねた青年が立っていた。角度的に顔は見えないが、身長はそれなりに高いことが分かる。
「はい? 何か?」
ドア越しに声を掛けた。明かりが外に漏れているから居留守も使えない状況で、返事をしないのは不自然だからだ。
「夜分遅くに失礼します。下の階に引っ越してきた者で、挨拶に来ました」
低めの声は丁寧な口調で、紳士然としている。
そういえば、下の階は長らく空き家で、大家がやっと入居者を見つけたと言っていた気がする。なるほど、入居日が今日だったという事か。
とはいえ、ラジエルの忠告もある。迂闊にドアを開けるほど、不用心では無かった。
「丁寧にどうも。今ちょっと手が離せないので、また今度改めて話しましょう」
「そうですか。では、今日は失礼して――わぁっ!」
どん、と大きな音がした。次いで、カランカランと金属が床に転がる音。
何事かと思い狩野が覗き穴から見ると、そこに男の姿はすでになく、その奥に見える手すりの一部が外れていた。
古い手すりは、かねてから外れかけており、危ないと思っていたところだった。それがついに外れて落ちてしまったのだろう。ということは、誰かがそこに体重をかけたということで。
嫌な予感がして、狩野は慌てて扉を開ける。
「大丈夫ですか!」
下に落ちてしまった姿を想像して一階を見ようとした、その時。
「ええ、大丈夫でした。ご心配をおかけしました」
真横から、声が聞こえた。
狩野は慌ててそちらを見る。優しい面立ちをした、眼鏡をかけた青年。彼の瞳は黒いはずなのに、光の加減か、うっすらと赤く光ったような気がした。
ぞわりと背筋が粟立って、狩野は本能的に後ずさる。目が離せないまま、取り繕うように声を出した。
「そ、それは良かった。手すり、老朽化して危ないんで、気を付けてください」
「そうですか、気を付けますね。ありがとう。――ああ、そうだ。せっかくですから話でもしましょう」
「すみません、俺、まだ作業中で」
「ふふ、食事中だっただけでしょう? ワンルームというのは良いですね。扉を開ければ、中が丸見えだ」
彼は開け放たれた扉越しに、机の上に置かれたかつ丼を見たのだろう。食べかけのそれは、見るからに食事中だったことを物語っている。
男はまるでエスコートするかのように、狩野の腕を掴んだ。振りほどこうと力を込めても、びくともしない。
「怯えなくて大丈夫ですよ、貴方を迎えに来たんです。何も命を取ろうというわけじゃない。ちょっと私に力をくれれば良いだけです。こうやって、ね」
「んぅ!?」
ぐいと引っ張られたかと思えば、唇に柔らかい何かが当たったのを感じた。少し湿り気のあるそれは、まるで重なっていることが正しいかのようにぴったりと付いている。
口付けは下卑たものではなく、どこか神聖なものにすら思えた。彼がちゅっと吸えば、ただ唇を合わせているだけなのに体中の力が抜けていく。力を吸われているという感覚を、否が応でも実感する。
立っていられなくなって足から力が抜ければ、男は優しく抱き支えた。まるで愛する相手にする仕草に、狩野は何となく恥かしさを覚える。
いや、そもそも狩野には、男とキスをして喜ぶ癖は無い。女性が恋愛対象だし、今までも何人か彼女はいた。
男とキスをするなんて信じられないし、人がしているのはともかく自分がするなど気持ち悪いとすら思っていた。
それなのに抵抗する力が湧かない。力を抜かれているせいか、この男の特殊な力なのかは分からないが、なんにしても気持ち悪いという感情は湧いてこなかった。
「ああ、可愛らしい表情をしますね。口付けはお好きですか?」
男がくすりと笑った。その瞳は血のようと赤くなっていて、彼はやはり人間ではないのだとしみじみと思う。襲われているのに呑気なものだなと呆れる自分がいる。
男は再び唇を合わせたかと思うと、今度はぬるりと舌を差し込んできた。
ぞくぞくと鈍い電流のようなものが背筋を辿り、情欲の炎がちりちりと大きくなっていく。今まで経験したことの無い深い快楽のツタが体に絡みつき、意識がふわふわとし始める。その間も力を吸われているようで、もはや全身から力が抜けきっていた。
陶酔しているかのように思考を奪われて、狩野はすっかり彼の手中に収まる。
「さあ、共に私の城へ行きましょう。何不自由ない生活を保障します。貴方はこうして、私に力をくれれば良いだけ。大丈夫、怖いことはありませんよ」
「それで、一生飼い殺すのか。相変わらず悪趣味な奴だ」
苛立ちを隠さない声がして、狩野はハッと我に返った。そして、思い切り男を突き飛ばす。それほど強い力では無かったはずだが、男はあっさりと身を離した。
狩野はへたり込み、唇を拭った。先程までの生々しい触感と欲を隠しようのない体に、苦い気持ちになる。
まさか自分が男相手に劣情を燃やす時が来ようとは。
声を掛けてきたのは、黒髪短髪のスポーツマン然とした男だった。瞳の色は青灰色で、凛々しい面立ちをしている。
「これはサリエル殿。まさか貴方が来るとは」
「事情はおおかたラジエルから聞いた。消されたくないならさっさと消えるんだな、アスモデウス」
「そう睨まないでください、ここは大人しく退散しますよ。天使と争うなんてごめんですからね」
アスモデウスと呼ばれた男が、肩を竦めて狩野の手を離す。足に力が入らないので頽れてしまう。
サリエルはそんな狩野の様子を一瞥した後、アモデウスを睨むように見た。
アスモデウスは狩野へとにっこりと微笑み、軽く礼をする。まるで執事が臣下の礼でも取るかのように。
「それではまたお会いしましょう、可愛い方」
そして、スッと暗闇に消えた。それだけで、彼が悪魔と呼ばれる存在なのだと分かった。
あっさりと解放されたことを喜ぶべきか、気付けば周りには人外ばかりが揃っていることを嘆くべきか。
瓜谷もラジエルも、そして目の前に立つサリエルも、およそ影など似合わないオーラがある。しかしアスモデウスはむしろ、影が良く似合っていた。
「まったく、ラジエルから忠告されただろう。簡単に捕まりやがって」
サリエルはがしがしと頭を掻くと、腰の抜けた狩野を支え立たせようとする。しかし狩野はすっかり全身の力が抜けきっていたので、ピクリとも動くことができない。
先程のアスモデウスとサリエルの遣り取りに全く口を挟まなかったのも、声を発する気力さえ無かったからだ。そうでなければ、文句の一つでも投げかけていた。
「はぁ、面倒だな。ラジエルの頼みじゃなければ、お前なんぞ助けやしないってのに。いっそ、あのままアスモデウスに連れてかせれば良かったか……」
なにやら不穏なことを言いながらも、サリエルは狩野を抱き上げて室内へと入った。
扉がしっかりと閉められれば、日常が戻ってきたかのような安心感が部屋を包み込む。もちろん、現実はそんな事無いのだけれど。
「生気を完全に抜かれてるな。なるほど、ラジエルが俺に頼んだのも、それを見越してか」
ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、サリエルは狩野を丁寧にベッドに横たわせる。そして狩野の額に手を添えると、何かを呟いた。
温かい気が全身を覆う。緊張した体がほぐれていくかのようにじんわりと、活力が取り戻されていくのを感じる。
おそらくほんの数分ののち、彼は手を離した。
「ほら、動けるだろ」
「……ああ、ありがとう。それで、あのアスモデウスとかいう奴はいったい」
「あいつは色欲の悪魔だ。気に入った奴を城に囲って飼い殺す悪趣味野郎だよ」
吐くように言い捨てるところをみると、サリエルは彼のことが相当嫌いらしい。
それにしても色欲の悪魔とは、なるほど。いろいろと上手いわけだ。無力な狩野では、彼の色香に惑わされるのも仕方がないのかもしれない。
「で、俺はサリエルだ。ラジエルにお前を守るよう言われてきた」
「それは……助かった、ありがとう」
「礼はラジエルに言うんだな。俺はお前がどうなろうと、どうでもいい。あいつの頼みが無かったら、俺が直々に地獄へ堕としてたさ」
「……ラジエルが、天使も俺を狙ってると言ってたけど、それか?」
「当たらずも遠からず。俺は癒しの天使でもあるが、同時に死を司る天使でもある。人間の魂を狩る者であり、罪を犯した天使に罰を与える役目もある」
「つまり、お前は俺を裁きに来たのか?」
「お前の裁きはすでに下された。天使たちがお前を狙うのは、我が主の命ではない」
「……なら、何故」
「聞いてはいたが、お前は何も覚えてないんだな。ラジエルも憐れだ。お前がこうしてのうのうと地上にいるのも、あいつのおかげだというのに」
サリエルは相変わらずぶっきらぼうに、けれどアスモデウスの時とは違い憎しみは感じられない口調で言った。
ラジエルのおかげで。そういえば、彼女が瓜谷ことウリエルに直談判をして裁判が開かれ直そうとしていると言っていたが、そういうことだろうか。
――それよりも、だ。
狩野は別に、頭が悪い方ではない。むしろ察しは良い方である。いくら単語が伏字になっていところで、すべてが分からない訳ではないのだ。
そしてその狩野の頭から、どうしても、一つの可能性が離れない。真実とは思えないその仮説は、それでもすべてを説明するのにうってつけだった。
「……サリエル。俺は、元天使とかそういう奴か?」
「ああ、そうだ。お前はかつて天界で大罪を犯し、****により天から堕とされた」
「やっぱりな」
聞こえなかった言葉が一つ、聞こえるようになった。おそらくこれは、俺がその言葉を推測できるからだ。音と意味が頭の中で一致したイメージに近い。
堕とされた天使、堕天使。ならばラジエルは、その罰が不当だとしてウリエルに直談判をしてくれたということか。
仕事の合間を縫って、少し天使について調べた。それによれば、ウリエルは最後の日に審判を下す役割を持つのだという。他にもいろいろな説があるようだが、ともかく裁きの天使という側面があるのだろう。それで、裁判の場を設けてくれることになったというわけだ。
しかし疑問はいくらでもある。狩野は幼少期からの記憶もはっきりと残っていて、人間としか思えない。生まれ変わりかとも思ったが、生まれ変わりの発想は仏教のものだから違うはずだ。天使が人間に生まれ変わるなど聞いたことも無い。
「俺は、人間じゃないのか?」
「今は人間と言えるかもしれないな。だが、それは本来の力が封じられているからだ。天使にも悪魔にも役割がある。そのどちらも有していないお前は、人間の状態と言える。だからお前には天使の羽根が見えないし、天界の言葉を聞くことが出来ない」
「なら、人間としての記憶は、嘘ってことか?」
「さあな。お前は天使の中でも少し特殊だったから、本当に人間のように過ごしていた可能性はある。だが少なくとも、お前が親だと思っている人間は親ではない」
「……そうか」
人間として、平凡な人生を生きてきたと思っていた。両親を尊敬するほど慕っていたわけではないが、かといって親子仲は悪くなく、まあどこにでもある親子関係を築いていた。それが、血の繋がりどころか種別すら違う相手だったとは。
まるで自分が世界から切り離されたように感じて、狩野は虚しさに呻く。
堕天使たる自分は、何故ここにいるのだろうか。
記憶とは自分を確立するための要素と言える。記憶があるから自分は自分でいられるのだ。けれど今の狩野には、天使の頃の記憶などない。天使と言われても実感はわかないし、けれど真に人間と言うわけでもない。自分が何者なのか分からず、それが言いようのない不安を掻き立てる。
「俺は、一体なんなんだろうな」
「大罪を犯した天使。お前なんぞそれで充分だ。神の寵愛を笠に着て、その奢りから悪事を働いた愚かな堕天使。****は今もお前を赦していない」
「教えてくれ。俺は何をしたんだ?」
「俺は当時天界を離れていたから、詳しいことは知らん。だがお前の悪行は誰でも知ってる。お前は***に**を授けたんだ。我が主は大層悲しまれたらしい。だから****はお前を堕としたんだよ」
「それは嘘だ」
サリエルの言葉を遮るように、鈴のような声が響いた。狩野とサリエルが、そちらを見る。
予想通り、そこにはラジエルが居た。
「戻ってくるのが遅くなってごめん。ちょっと手こずって」
相変わらず幼顔の彼女は、困ったように笑って狩野の下へと近寄った。
そして、安心させるように手をそっと握る。自分よりも随分若く見える相手だというのに、その仕草に安心した。
ラジエルの言葉に引っ掛かりを覚えたサリエルが、訝し気に問うた。
「ラジエル、嘘とはどういうことだ?」
「サリエル、君の言う事は長らく真実とされてきたことだ。でも、事実は違う」
「事実は違う? だが、現にこうしてこの大罪人は地上に堕とされているじゃないか」
「それがそもそもおかしいんだよ。だからウリエルに協力してもらって、汚名を挽回しようとしたってわけ」
「なら、何故未だに****はこいつを探している? 罰が十分では無かったからだろう」
「その****がすべての発端なんだよ。あの大噓つきがね!」
ラジエルはその名前の聴き取れない天使に良い感情を抱いていないようだった。可愛らしい顔に苛立ちが浮かんでいる。
自分のことだというのに、完全に置いて行かれている。それもそのはず、やはり彼らの会話は理解できないのだ。そしてラジエルは、それを解決するためにこの部屋を後にしたはずだった。
「ラジエル、何か解決策は見つかったのか?」
「あーうん、それなんだけど。そもそも君と天界の関わりを切ったのは、****の仕業だったんだ。僕はてっきり堕天したからだと勘違いしてたんだけど。堕天使は、通常なら天界と関わりが切れることは無いんだ。でも君は意図的に隠されていた。天界からも、地獄からも。その天使の能力を封じられることでね」
「一体、なぜ」
「さあ、それは本人じゃないと分からない。それか、君自身が何か聞いているか。ともかく****が能力を封じたなら、同等かそれ以上の力を持つ者じゃないとどうにも出来ないんだよね」
「つまり、現状維持ってことか」
聞き取れない天使がどのような立場の者かは分からないが、ラジエルの言葉を聞くに、よほど上位の者の仕業なのだろう。少なくともラジエルでは無理で、ここにいるサリエルも無理な相手なのだ。それならばどうしようもない。
もっとも、ラジエルがこうして必死になっているのは狩野の謂れなき罪を雪ぐためということで、しかし狩野にはその記憶がないので別段困っていなかった。だから現状維持で、明日からいつもの日常が来るとしても問題ないのである。
いつもの日常を送るには、いろいろと知りすぎてしまったけれど。人間ではない自分はこの先きっと、人間である友人や同僚と少しずつ違っていくのだろう。そうして取り残されていくのだとしても、それでもこの地上が狩野の生きる場所ならば、どうにかやって行くしかないのだ。
狩野の言葉にラジエルは少し考えてから、少し嫌そうに言った。
「実は、方法がないわけじゃないんだ。でも、これは君にとってあまり良いことじゃないかも」
「……というと?」
「その方法を取ると、君は二度と天に帰れなくなる」
「おいラジエル、まさかアレを使うつもりじゃ……」
サリエルが何かを察したようにラジエルを見る。ラジエルは無言で頷いた。
狩野は意味が分からず彼女を見たが、ラジエルは落胆と悲しみが混ざったような表情をしていた。
「君は、どうして人間が地獄でも天国でもないこの場所に住んでるか知っている?」
「まあ、人並には。確か悪魔がイヴを唆して、アダムに知恵の身を食べさせたとか」
この話はさすがに狩野でも知っている。どこで習ったというわけではないけれど、このシーンを組み込んだ芸術作品も多いし、何となくどこかで見聞きしたことがあるのだ。
狩野の記憶では、その知恵の実を食べたアダムとイヴは自分たちが裸であることに気が付き、それを恥じた。その様子を見た神は嘆き、神の怒りによって二人は地上に堕とされ、産みと労働の苦しみが与えられたとかなんとか。
ラジエルが頷いて続ける。
「そう。その知恵の実は楽園の中でも特に秘められた場所に植えられているんだ。けれどね、知らないことまで教えてくれる魔法のアイテムじゃない。正確には、無意識のうちに溜めている知識や、忘れられていることを思い出させてくれるアイテムなんだよ。例えば、歩いているときに聞こえる音は覚えてないけど、記憶には蓄積されてる。それを思い出させるんだよ」
「ん? それなら、初めからアダムとイヴはいろいろと知っていたのか?」
「うん。彼らは、僕ら天使たちが服を着ているのに自分たちが裸であることに疑問を持っていたし、天使たちが裸になることを恥じていると、それが恥ずかしいと思うようになったんだ。神は人間に、未来を考える力と過去を振り返る力を与えたからね」
人間が発展した理由に、学習能力があると聞いたことがある。過去の失敗から学び、未来を予測して行動する。それもパブロフの犬とは異なり、条件反射によるものでは無い学びだ。
もしアダムとイヴに知恵の実を食べる以前からその力が備わっていたのならば、自分たちと周りとの違いに気付くのはそう難しくは無かっただろう。
「神話のアダムとイヴが実を食べたことで知恵を得たというのは?」
「我らが主にとって、アダムとイヴには独自の存在であってほしかった。僕ら天使のような存在でもなく、かといって他の動物のようでもなく、純心清らかで、余計なことなんて知らない存在。だから、****に言って、彼らの記憶や余計な思考を封じたんだ」
神に命じられた天使はアダムとイヴの力の一部を奪い、二人は神の望む存在になれたのだろう。けれど悪魔に囁かれ、知恵の実を食べて、すべてを思い出してしまった。
そこまで考えて、狩野はふと気が付いた。不要な記憶を封じられ地上に放たれた。似た例を知っているではないか。
「……それって、まるで」
「そう、まるで君みたいだ」
「俺も、知恵の実を食べれば記憶を取り戻せるってことか?」
「おそらく。でも、あの実は禁断の実でもある。もし食べれば、二度と天には帰れなくなると思う。たとえ裁判をやり直して、君の汚名を返上しても」
ラジエルが地上に住む狩野の裁判をやり直したいと言ったのは、地に堕とされた狩野が天に戻れるようにするためだったはずだ。ラジエルが何故こんなにも親身になってくれるのかは分からないが、ともかく彼にとってこの不当な待遇は許せないのだろう。
しかし禁断の果実を自分の意志で口にすることは、自ら罪を犯すことであり、言い逃れは出来ない。原因が名も聞こえぬ天使のせいだとしても、罪を犯した事実には違いない。
狩野としては、別にそれで構わなかった。禁断の果実は無くしていた記憶を取り戻すだけであって今の記憶を消すわけではないようだから、少なくとも神代の頃から生活しているらしい地上の生活よりも天界の方が恋しくなるとは思えなかった。
それよりも今は、真実を知りたいと思っている。記憶なんてなくても良いと思っていたが、勝手に記憶を操作され、しかも自分を天から堕とした者は文字通り高みの見物をしているとなれば、腹も立ってくる。だから、実を食べて記憶が取り戻せるならば喜んで食べよう。
だが、ラジエルを思うと言い出すこともできなかった。
「もう一つ、懸念がある」
黙って聞いていたサリエルが、静まり返った空気を動かした。
「アダムとイヴは知恵の実を食べてすべてを思い出した後、我が主に対し疑いの心を持った。自分の記憶を封じ込め、望む通りの存在にしていたんだからな。信頼していたからこそ、裏切られたと感じたんだろう。で、二人は主に反抗的になり怒りを買って、地に堕とされた」
「俺が神に反乱するとでも?」
「可能性はある。お前の記憶を封じたのが****だったとしても、それがアイツの独断なのか、我らが主の命なのか分からないからな。もし主の命だったなら、お前はどうする?」
どうすると聞かれても、狩野は答えなど持ち合わせていない。いかにも日本人らしい宗教観で生きてきた狩野にとって、神から下される罰は因果応報だと思ってきたし、何より一人間が反抗しようとしたところで神に勝てるわけがない。RPGの世界ではないのだ。
だが。もしそれが因果応報などではなく神により仕組まれたものだったならば。そして狩野は、一人間ではない。
反抗したいと思うだろうか、と考える。
今の狩野ならばNOと答えるだろう。狩野は神を知らないし、それはもう不条理だったのだと諦めて、天界に帰らなくてせいせいしたとすら思うかもしれない。だが、記憶を取り戻した狩野が、堕天使たる自分がどう感じるかは分からなかった。
「即答できない、か。まあそうだろうな。だが忘れるな。俺は天使で、そこのチビも天使だ。我らが主の命ならばどんなことにも従う。それが、お前を消せというものでもな」
「サリエル、まって。もしこの件に我が主が関与しているなら、僕がこうして記憶を取り戻そうとしていることに何も言わないはずが無いよ」
「どうだか。利用されているだけの可能性もある。この大罪人に更なる罰を与えたいがために、わざと知恵の実を食べさせようとしているのかもな」
「我が主を疑うの!?」
「俺は月を統べる者。相反する立場でありながら、世をあまねく照らす太陽なしには生きられない。俺が主に従う理由は、ただそれだけだ。主もそれを分かってるさ」
サリエルは淡々と、しかしどこか苦々しそうに吐き捨てた。
天使に罰を与える立場上、悪に染まった天使たちの考えに触れる機会も多いはずだ。そのうちに、サリエル自身の心にも神への疑いの念が出たとしてもおかしくはない。けれどサリエルは、神の命に従わなければいけない理由があるのか。
彼の天界での立場がどういうものかは分からないが、なるほど天界も一枚岩ではないらしい。いろいろな考えの天使が居て、それでも楽園は保たれている。
さて、どうしたものか。もし仕組まれたものだとすれば、知恵の実を食べることが罰を与える口実になるのは事実だ。しかし、記憶がないことには真実は分からない。彼らの口ぶりからすると、名も言えぬ天使の封印を解除できる存在は他に居ないか、協力して貰えないのだろう。狩野自身も真実を知りたいと思っているが、どうやら本件でかなり尽力してくれているラジエルが嫌がっているので、強く言えない。
「ラジエル、お前はどうしたいんだよ」
「僕は……君の記憶が戻ったら良いと思ってる。でも」
「でも、俺が天に帰れないことを気にしてる?」
「……それもある。でも、それだけじゃないんだ。もし禁断の果実を食べた罪を問われたら、君はまた地獄へ行くことになる。僕はそっちの方が嫌なんだよ」
「また?」
「あっ……」
ラジエルが慌てて口を手で覆った。目は見開かれ、失言に焦っているのが丸わかりだ。
狩野はてっきり、地上に堕とされた後ずっと人間界に居たのだと思っていた。ラジエルも、まるでそう錯覚するように話していたと思う。
しかし、事実は違うらしい。狩野は地獄に居たことがあり、ラジエルはそれが嫌だと言った。きっと地獄に居たとき、狩野は悲惨な目に遭っていたのだろう。まあ、地獄と言うのだから当然ではあるが。
そんな悲惨な記憶ならば忘れたままの方が幸せかもしれないが、すべてを知るための禁断の果実はそう都合よくは無いだろうから、もしかしたらラジエルは地獄の記憶が戻るのも嫌がっているのかもしれなかった。
狩野が知りたいことは二つ。何が起こり、誰によって、狩野は地獄へ堕とされたのか。そして、ラジエルは何故こんなにも自分に良くしてくれるのか。
「ラジエル。お前が俺に何を隠したいのかは分からない。でも、どうせ思い出すなら全部思い出したい。たとえ地獄の業火で焼かれるとしても」
「……光の差さない暗闇で永遠に閉ざされるかも。僕たち天使ですら入っていけないような場所に」
「その時はまあ、悪魔たちと上手くやるよ」
「その悪魔たちは、君の味方とは限らない! 彼らにとって、堕天使で、しかも力を持っているなんて、恰好の獲物なんだよ!」
ラジエルが泣き出しそうな声で叫んだ。その様子はすでにその光景を見たことがあると言いたげで、そしてそれが自分に関連するものなのだとすぐに分かった。
地獄で彼女が何を見たのか、狩野には想像もつかない。だからこそ、知りたいと思った。それがたとえ罪深いことだったとしても。
「はいはい、そこまで」
玄関から声がした。そちらを振り向くと、見知った顔がある。
「瓜谷さん!」
「こんばんは。明日までいない予定だったんですけど、予定変更して帰ってきましたよ~」
どこかふわっとした雰囲気に一瞬気が緩みそうになって、気が付いた。
彼は玄関のドアを開けて入ってきた。しかしドアには鍵がかかっていたはずだし、普通の天使や悪魔ならば入って来られないはずだ。
これは彼が普通の天使ではないこと、そして、天使であることを隠す気がなくなったということだ。
「はい、これお土産です」
瓜谷ことウリエルは、手に持った袋らしきものから、林檎に似た果実を取り出した。形こそ林檎に似ているが、色合いは黒く、どう見ても美味しそうではない。漂う香りは桃にも似ている。
ラジエルが狩野を庇うように立った。
「ウリエル、それは!」
「狩野さん、知恵の実を食べてください。これは天の決定です。ああ、罪にはならないので安心してくださいね~」
「天の……? いったいどうして」
「今回の件は、主も気に掛けているんだ。罰を与えたはずなのに忘れてちゃ、罰にならないだろ?」
「つまり、記憶を消したのは****の独断か?」
「その通りだよ、サリエル。主にとって、今回の主犯が誰かなんてどうでもいいんだ。ともかく、関与した者たちが天からいなくなることが大切。だから、疑わしいなら両方堕天させて良いとまで言ってる」
いかにも罰を与える神らしい発想だな、と狩野は遣り取りを聞きながら思った。そして、理に適っているとも。
神にとって、狩野が犯したとされている罪はそれ自体が許せないことなのだろう。だから疑わしい二人が居るのならば、両方とも罪人として裁いてしまえば、確実に懲らしめることができる。神は正しき存在であり、それは神にとっての正しさを示す。人間社会の正しさとは違う。たとえ理不尽に思えても。
しかし、サリエルは納得していないらしく、訝し気に眉を顰める。
「****は主の側近のはず。それなのにか?」
「たしかに****は良く働いてるけど、代わりはいくらでも。実際、主の寵愛をもっとも受けていたと言われる****を堕天させただろ」
「だからそれは違うって!」
「ラジエル。事実がどうであれ、主にとっては、悪魔のような天使が天界に存在している可能性があること自体が嫌なんだよ」
「いかにも、我が主らしい意見だな。いつだって正しき存在しか身近に置きたがらない」
「サリエル、言葉が過ぎる。君が天に住めるのは我が主の温情だと忘れないで」
「温情、ね。体の良い汚れ役が欲しいだけだろ」
「あーあー、ちょっと待て」
喧嘩でも始めそうな雰囲気に、狩野は口を挟んだ。天使たちのことは良く分からないが、ともかく仲は良くないことは分かる。
それに、今回のいざこざの中心は狩野なはず。それなのに、このまま蚊帳の外というのも気持ち悪い。
「天界の事情は分からないが、そもそも天の決定を俺が聞く必要があるのか? 今は人間界で人間として生活していて、天使とは違うだろ。もし、このまますべて忘れて地上で生きていくと言ったら?」
「狩野さん、いや、****。貴方にはそれが許されないんです。今の貴方は、あくまで冤罪の可能性が浮上したから、天でも地でもないこの場所にいるだけ。貴方がやはり大罪人ならば、住処は日の当たらない地獄に。貴方の罪が冤罪なら、貴方は天使として役目を果たさなければならない」
「どう転んでも、俺がこの地上で生きることは出来ないって?」
「貴方は天使ですから。人間のようには生きられません。人間として楽しそうに暮らす貴方も、悪くはなかったですけれどね」
ふふっと微笑むウリエルは、狩野の奥に天使を見ながらも、人間としても認めてくれているようだった。それが嬉しく感じるのが不思議だ。まるで、人間として生きてきた時間も真実なのだと肯定してもらっているようで。
ラジエルもサリエルも、狩野のことは天使としてしか見ていない。だが瓜谷はお隣さんとして、お互い人間として接してきた。だからこそ人間として見てくれていて、だからこそ人間としての生き方に決別を促しているのかもしれなかった。
腹を決めなければいけない。昨日まで、当たり前に明日が続いて行くと思っていたけれど。もう昨日には戻れないのだから。
真実を知ることは自分のためでもある。記憶とは自分を形成する者だ。どのみち地上に居られないのならば、天使としての自分を取り戻した方が良い。
拒んでも無理矢理食べさせられそうだし。
「分かった、食べるよ」
「****!」
「ラジエル。俺はな、お前が読んでくれる俺の名前も、聞こえないんだよ」
そう告げると、ラジエルがぐっと口をつぐんだ。天使たちは、狩野が聞こえている言葉と聞こえていない言葉が分からない。そして、狩野ではなく天使の名を呼ぶ。彼らにとって、狩野は天使だからだ。
無意識に読んだ言葉が自分の名前だと言う事は、雰囲気で分かる。そして、彼女が告げる自分の名を聞きたいと思った。
狩野はウリエルから禁断の果実を受け取ると、昨日までに別れを告げるように、しゃくりと噛む。林檎の触感で桃のような味のするそれをゆっくり咀嚼し、飲み込む。
その瞬間、暗闇に突き落とされるように、意識を失った。




