05.異世界の洗礼
女神様へのお祈りも終わり、俺が広間を後にしようとした途端、目の前にあった地面が大きく盛り上がった。そして地面は大きな吠え声を出し、大口を開けて襲い掛かってくる。
「な、何!」
地面の口の中には、鋭い牙が無数に生えているのが見える。なんだこれ、地面じゃない、怪物だ!
逃げる? いや、逃げるったってどこに! 倒す? いや、倒すったってタワシしか持っていないのにどうやって!
パニックになってあたふたしている間に、俺は大口の怪物の巨大な口で捕らえていた。こんなもん、どうしろって言うんだ!
怪物は巨大な口をモグモグして、鋭い歯を俺の体に突き立ててくる。その歯は俺の腕と言わず、足と言わず、頭の先から胴体、そして足の先まで、そこら中に何度も何度も突き刺さった。
「痛いっ! 痛いっ! めっちゃくちゃ痛いっ!」
怪物が口を動かすたびに、着ていた高校の制服は引きちぎられ、持っていたカバンはズタボロになっていく。
「痛いっ! やめろって、馬鹿! 痛いんだよっ!」
いくらそんなことを叫んだって、当然ながら怪物は俺を齧ることを止めたりはしない。
まったくもう、お手柔らかにってお願いしたのに。女神様基準じゃなくて、人間基準でって、ちゃんと念押ししておくべきだったか。ああ、これは死んだなあ、思えば短い異世界生活だった。
というか、何も思う間もなく終わりだね、こりゃ参った。
いくら暴れ回っても、怪物は俺をガジガジ噛むのをやめず、俺の体には噛まれるたびに鋭い歯がグサグサ突き刺さってくる。
もういいから、早く息の根を止めて食ってくれ。俺はあまりの痛みに生きることを諦め、早く食い殺すようにと願いそうになる。
駄目だ、駄目だぞ、ここは神様が実在する世界なんだ。お願いが聞き届けられて、さくっと殺されてしまう可能性だってあるのだ。
とはいえ、いつまでたっても怪物は俺を噛むのを止めないし、いつまでたっても俺は噛み殺されることがない。ガムのようにずっと噛み噛みされているままだ。
どう考えても怪物の歯は、俺の頭や胴体、腕や足を貫通するぐらいにぶっ刺さっているはずだ。それなのに俺は痛いだけで、元気に死なずに生きている。それにどうやら血も流していないようだ。
なんだこれ? ああ、そうか、そう言えば俺ってタワシだったわ。
俺の魂はタワシなのだ。それも女神謹製のタワシ×二個分なのである。タワシをいくら刺したところで血が出ることもないし、いくら深く突き刺したって抜けばほとんど元通りになる。考えてみれば当たり前のことだった。
もしかしたら、これって何とかなるんじゃないのか?
少し希望が見えてきた俺だったが、怪物は相変わらずずっと、俺のことを齧っている。ただ、何となくだけれど、歯の突き刺さり具合が甘くなってきた感じがする。
そう、最初は鋭い歯が根元まで突き刺さっている感じだったのに、今では根本をちょっとだけ残している感じなのだ。
さらに時間が立つにつれて、痛いのは全然変わらないのだけれど、突き刺さり具合が九割ぐらいになり、そのうち八割強ぐらいにと、じわじわと減っていくのがわかる。
こいつ、噛むのに疲れたか、飽きてきたのかな?
そうだとすれば脱出出来るかも知れない。しかしそれは、思ったほど簡単なことでは無かった。怪物の顎の力は強烈で、俺がいくら力一杯押し広げようとしても、まったくびくともしないのだ。
こんな時に剣や槍を持っていればいいのだけれど、あいにくと俺が持っているのはタワシだけ。いくら考えても、タワシでどうにかする方法は思いつかない。
この状況が永遠に続くかと思われたのだが、幸運なことに、それは突然終了した。怪物が俺を噛むのに完全に飽きたのだ。怪物は幾ら噛んでも食べられない俺のことを諦めて、ペッと吐き出すと、そのままどこかに立ち去っていったのだ。
「ふう~、何とか助かったぁ……。」
俺は怪物の唾液でべとべとになりながらも、何とか生き残ることに成功したのだった。
生き残ることは出来たものの、その代償は小さくは無かった。着ていた制服どころか下着まで完全にこなごなになっていたし、靴やカバンもズタボロで、もうその形を成していない。
かろうじて残っている物といえば、パンツのゴムぐらいだ。しかもそれだってビヨビヨに伸びてしまっていて、すぐに膝どころか足元までずり下がってくる。
哀しいことだが諦めるしかない。さよなら、俺のパンツのゴム。
俺は異世界初日にして、パンツも含めて所持品のすべてを失ってしまったようだ。いや、正確には、タワシは次元収納の中に持っているんだけど。
「でも無事に生きてるし、この先も多分、何とかなるよね!」
パンツを失い、股間に粗末な物がぶらんぶらんしているのが気になりはしたが、俺は元気に歩き出した。
そうして二十メートルほど歩いただろうか、また目の前の地面が急に盛り上がったかと思えば、またもやそれが大きく口のように開いて、俺に襲い掛かってきた。
「ちょ、なに? なんで! またお前かよっ!」
多分だけど、最初の奴とは違う個体なのだろう、俺はまた大口で鋭い牙を持った怪物に食いつかれ、噛み噛みされることになってしまった。
痛いのは相変わらずだけれど、飽きるまで噛ませておけばそのうちに吐き出してくれるはずだ。それが分かったので、最初の時よりも心には随分と余裕があった。
そして怪物は思ったよりも早く、俺をペッと吐き出してくれた。
どうやらこの辺りには大口の怪物が大量に住み着いているらしい。それからは、ちょっと歩くたびに大口の化け物に齧られ、しばらく噛み噛みされた後で、ペッと吐き出されるのがずっと続くことになった。
四六時中ずっと噛み噛みされ続ける、そんな毎日が過ぎていく。それでも噛みつかれる合間にちょっとづつ歩き続けて、廃墟から少し、また少しと離れていった。そうして廃墟がまったく見えなくなるぐらいに離れた頃には、俺は噛みつかれることにも、そしてその痛みにも、完全に慣れ切ってしまっていた。
噛みつかれると逃げられないし、怪物が飽きるまで放っておくしかないし、慣れたとは言っても痛いので、もうほんとにどうにかして欲しいとは思っている。痛いのは痛いままだけれど、痛いのが気持ち良く感じるヤバい体にはならなかったので、それだけが救いだった。
そう思ったことが女神様に届いたのだろうか、それとも廃墟から離れたからなのか、大口の怪物の出現がピタリと止まって、気が付いたら快適に歩けるようになっていた。
「あの廃墟の周辺だけに湧いていたってことなのかな。」
あんなにたくさん一ヶ所に集中していたら、食べ物だって足りないだろうに。あの大口の怪物どもは、いったいどうやって暮らしているのだろう、共食いでもしているのだろうか。さすがは異世界、怪物の生態も良くわからない。
廃墟を離れてどんどん進んで行くと、周囲にはだんだん木が生い茂るようになり、さらには深い森のようになってきた。そして大口の怪物の代わりに、違う怪物が俺に襲い掛かってくるようになってきた。
ある時は巨大なオオカミのような怪物に齧られ、またある時は大蛇のような怪物に丸飲みにされ、上から下から、ペッとかブリッと外に出される、そんな新鮮な毎日だ。
肉食恐竜みたいな奴に噛まれた時も、巨大な蜂の大群に襲われてプスプス差しまくられた時も、痛いのは痛かったが、別に怪我をすることは無かった。さすがはタワシである。いくら刺されても何ともないぜ。
ブリッとされた時は臭くて大変だったが、俺には女神様に貰ったタワシがあるからね。ゴシゴシこすれば結構なんとかなるものだ。
そうやって森の中を何日さすらっていたのだろう。俺は怪物たちの徘徊する森を出て、草原に辿り着くことが出来たのだった。




