4:あなたはだあれ
ゼルは鎖の音を止め、振り返った。その顔はまだ涙でぐちゃぐちゃだった。
「なんだあの女……」
濃い紫色の髪を短く切り揃えた女。彼女の周囲だけ、気持ち悪いくらい静寂だった。そして彼女の視線はゼルの破壊の痕跡――灰の山々――に向けられていた。
その表情は恐怖や嫌悪ではない。まるで最高の芸術作品を鑑賞するような、陶酔に満ちていた。
彼女は、口元に手を当て、小さく息を漏らした。
「ぁぁ! これよ、美しい……! 素晴らしい。素晴らしいわ! これが、あなたの『美徳』ね」
だが、ゼルはそれを疑念の目で見た。
「お前は誰だ」
少女は灰と化した自販機に近づき、何の躊躇もなくその灰に触れた。能力が伝播する様子はない。そしてゆっくりと、まるで宝石を愛でるように結晶を指で撫でた。
「私の名前はウィズよ」
は?
「……げっ、あんまり美味しくないわ」
少女は一握の灰をぺろりと舐めたのだ。
「お前は……逃げないのか? 俺のこの力から」
「逃げる? 私が、私の救世主から? ふふ。そんなことしないわ」
ウィズは立ち上がり、ミニスカートについた土や埃を器用に払った。
「私はウィズ。あなたと『怪物』を愛し、協力する者」
ゼルは全身に鳥肌が立った。自分の悲劇を前にこんな狂った目をする人間がいるとは。
「ふざけるな。救世主? 俺は殺人犯だぞ。今や**『灰の怪物』**だ。そろそろ手配書が出回る頃だろう。それに――」
「ええ、見たわあなたの美徳。だって、片腕一つであんなに注目されてる人、初めて見たもの」
「ハッ、不公平な話だよなほんと……ははは……っお前、俺を利用しようとしているなら帰れよ」
「ふふふっ、ええ」
ウィズはゼルの正面まで近づいた。その距離はゼルの破壊衝動がいつ暴発してもおかしくない近さ。
「利用? 否定はしないわ。でもね、あなたはね、この世界の嘘を暴く本物なのよ。あなたが今、この世界で一番美しいものなの!」
「嘘発見器だとでも言うのか? 俺は壊すことでしか自由になれないただの怪物だ」
ゼルは鎖を地面に叩きつけた。
チッ、なんだあの女は……。
「あなたが創り上げたこの灰色のステージは、この街に蔓延していた嘘の美よりも、ずっと真実を語っている」
ウィズは、砕けた自販機の灰を踏みしめる。
「私はね、この世界がだいっ嫌いなの。薄っぺらい光と正義で飾り立てられた、底の浅い世界が。だから、その光を、その正義を、あなたが本当の美徳に変えるところが見たい!」
「勝手に解釈するな! 俺はただ自分自身のためにやっている!」
ゼルは肩をすくめながら振り返り、歩き出そうとした。だがその時、ゼルのポケットから英雄のキーホルダーが落ちてしまった。キーホルダーは靴にあたり、ウィズの足元に飛んでいった。
「あ――」
ウィズは、ゼルの足元に残されたリリアとのキーホルダーを、靴のかかとで強く踏みつけた。
「は? 何してんだよ!」
「あのっ女のっ憎悪はっ゙、ちっぽけなっ復讐心っでしかっなかったのッ!」
何度も何度も踏みつけられるキーホルダーは、手や足が引きちぎられ見るも無残な残骸と化した。
「馬鹿げているわ。友情? ヒーローの誓い? ふふっ、そんな子供だましであなたの本当の力を抑え込もうとした女なんて、どうでもいい。あなたはただ、私だけを見て……」
ウィズはキーホルダーの残骸を踏み潰し、きらびやかな表情で言った。
「利用。ええ、したいわ。あなたの美の隣に立たせて! 私はあなたをもっと知りたい! あなたが行く世界の先を見てみたい!」
彼女は手のひらをゼルに向けた。その掌には、微細な傷が幾つも確認できる。それはまるで、何らかの実験の痕のようだった。
「さあ、あなたはだあれ? 灰の怪物さん。私はね、あなたのその深い傷を治してあげられるわよ?」
ウィズは微笑んだ。
「俺の傷を癒やす? 心のか? ふざけるのも大概にしたらどうだ」
「ふざけてないわ。私たちが共犯者であることに変わりはないもの」
「共犯者? 協力するつもりはないぞ」
「いいえ。あなたが美とするものは、私の美徳であり正しさ――私はゼルのたった一人のファンですから」
***
ヘイムダル学院の地下深く、厳重に閉ざされた研究室に水色の髪を持つ少女、リリアがいた。白衣をまとった彼女の眼下には、複雑な回路が組み込まれた特殊な装置が置かれている。
「……ダメ、相変わらず解析不能」
リリアは苛立ち、実験台の上にあった注射器を壁に叩きつけた。注射器は甲高い音を立てて砕け散る。砕けた破片を、彼女は冷たい目で一瞥した。
彼女の手に残されたのは、小さなデータチップと灰の入った瓶。そこにはゼルが受験会場を灰に変えた際の、能力の痕跡が記録されている。
「灰の結晶化……触れた対象の『分子構造を一瞬で変異させる』。その伝播速度は、皮膚接触を起点にコンマ一秒。これで決着がつく」
瓶から灰を取り出した。それはゼルがあの日、結晶化させたもの。そこに一つのスポイトで黄色の液体を垂らした。
「私の十数年。お願い神様!」
心臓の音がうるさい。
「これが成功すればあいつを無力にできる」
……だが、液体は灰へ染み込んだだけで何も起きなかった。
「くそっ!」
心血を注いで作り上げたどんな治癒薬も、ゼルの能力による破壊の前では、一滴の水にも満たない。
リリアは唇を噛み締めた。その歯の根は、悔しさでギリギリと音を立てる。チップを握りしめたその圧力で、指の骨が軋む。しかし彼女の視線は実験台の隅に置かれたもう一つの薬瓶へと向かう。薬瓶のラベルには、彼女自身の筆跡で『毒薬』と記されている。
回復薬がダメだったのなら残るは毒。薬学は救うためだけにあるんじゃない。全てを終わらせるためにもある。
「よし、分子構造の変異ね……。必ず、揺らぎがあるはず。制御できない狂気の裏には、不安定な核がある。その揺らぎを突く毒を……」
リリアはモニターに向き直った。彼女の瞳は憎悪の炎と決意に満ちた、冷徹な科学者の光を宿していた。
ゼル、あんたを絶対に殺す。この手でね。
リリアの復讐は愛と憎悪、そして科学の冷徹さが混ざり合った、最も救いのない病気だった。




