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3:狂気のワルツ

 《続いてのニュースです》


テレビの画面いっぱいに、見慣れたドーム型の建物が映し出された。ヘイムダル学院、あの憧れの英雄学校の受験会場だった場所。画面の隅には"緊急特番"の文字が赤く点滅している。


「昨日午前、英雄学校ヘイムダル学院の入学試験会場で発生した、大規模テロ事件は史上最悪の厄災を彷彿とさせるものでした。現場からは、能力によるものと見られる灰色の結晶化が確認されており、警察は現在、『灰の怪物』による犯行と見て——」


ゼルは手にしていた黒いグローブを握りしめた。テレビの光が、グローブ越しでもわかるほど彼の顔を照らしていた。


『灰の怪物』。それが、一夜にして俺に与えられた新しい名前だった。


テーブルの中央には、くしゃりと潰れたタバコの吸い殻が一つ、無造作に置かれている。未成年が背伸びして買った、安っぽい銘柄だ。もちろん、火を点けることはない。口で加えることすらできないからだ。もしかしたら、部屋ごと灰の結晶に変えてしまうかもしれない。


 触れれば壊れる。触れれば、死。


だからこの世界を歩くには、この分厚い黒のローブと鎖が必須となる。まあ今は鎖を外しているが。


――あの時のことがフラッシュバックした。

 ――仕方がなかったんだ。必要なことだったんだ。だから悪くない。化物でもない。


あの日の行動を肯定する言葉を、何千回、何万回とゼルは頭の中で繰り返した。だが耳の奥にこびりついたリリアの涙と、灰になった受験者たちの姿は消えない。


ベランダから差し込む光に目を向けた。窓ガラス越しに見える庭。


かつては、明るい黄色に輝いていたヒマワリが、今では全て黒く枯れ果てている。

 

「……ヒマワリか、はっ」

ゼルは自嘲気味に笑った。


 いいさ。誰もが俺を『化物』と呼ぶなら、その『美学』を貫くまでだ。


椅子に座り、タバコを手にとった。そして、ライターに火を点けて先端に灯した。匂いだけと煙の先を嗅いだ。


「……」


……俺の美学は、「誰にも触れさせず、誰にも壊させず、そして誰にも屈しないこと」


彼はゆっくりと立ち上がると、無音でテレビの電源を切った。部屋の中は、無菌室のように物が少ない。伝播する能力から壊したくないから。



「……ヒーロー」


彼の喉から言葉が漏れる。ひまわりの花が少しだけ黄色に戻った気がした。彼は黒のローブと鎖を着た。


『灰の怪物』として再び世界へ出るための装備だった。



***



 通行人たちの眼差しは、不審や嫌悪とは違う、もっと明確な感情を帯びていた。それは、ニュースで報道されたあれに対する、剥き出しの恐怖。誰もが彼を一瞥すると、すぐに視線を外し囁き始めた。


「……あれか、あいつなのか」

「ニュースで言ってた灰の怪物じゃ?」

「なんだあいつ、気味が悪い」


ゼルは人々の反応を無視し、ただ前を見た。


――誰にも触れさせず、誰にも壊させず、そして誰にも屈しないこと――


 屈服すれば、それは敗北だ。


彼は何気なく、左斜め前にある店の窓に映った"自分の姿"を確認した。


その窓越しに、背後の路地裏を通り過ぎる高校生くらいの少年の姿が映っていた。少年は明らかに通行を装いながら、スマートフォンを腰よりも低い位置に構え、必死に画面を見つめている。


 録画か……。


ゼルは、その少年に何の反応も示さない。能力を使えばそれは負けを認めているようなものだ。


(無駄なことはしない)


しかしその時だった。背後から、ひときわ大きくひどく張り詰めた女性の声が響いた。


「ねえ!」


振り返ると声の主は40代半ばの女性だった。痩せこけていて、目の周りを濃い隈が覆っている。彼女の服装は正装だった。


ゼルは立ち止まった。


女性は周囲の視線も、恐怖も何もかもを無視して、ゼルに向かって歩み寄ってきた。その目はひどく黒ずんで絶望していた。


「あなたのせいよ!」


女性は甲高い声を上げた。喉が張り裂けんばかりに、彼女の言葉はその場にいる人々の注目をより引いた。


「アナタのせいで、うちの子は……!」

彼女の瞳から、大粒の涙が流れ落ちた。


「あの子は、ヒーローになるはずだったのよ!  誰かを救う、光になるはずだったのに……夢に、憧れにすら届かなかった!  なんであんたなんかに、うちの子の未来を壊されなきゃいけないのよ! なんであんたなんかが、今、生きてるのよ!」


女性は怒りに狂っていた。彼女は最後の力を振り絞るように、ゼルの着る黒いローブの背中へ手を伸ばした。


そして、その厚い布地を掴むと、力任せにグッと引き寄せた。


「なによこの服! なんなのよ!」


怒りに燃える手がローブ越しにゼルの皮膚――鎖とグローブで覆われていない、わずかな隙間に、触れた。


「やめろ、やめろっ!」


シャリン……


その瞬間、女性の叫び声は、音を伴わない。静かな灰色の結晶に変わった。


指先から、掌、腕、そして体全体へ。一瞬だった。それは、生きている人間の形を保ったまま、灰色の結晶へと変わる、静かで美しい現象だった。


女性の顔は憎しみに歪んだ表情をそのままに、完全に灰のオブジェとなった。悲鳴を上げようとした口は開いたまま、空気の振動を発することすら許されない。


 触れれば壊れる。触れれば、死。


ゼルは、触れられた部分に微かな熱を感じながら、無言で立ち尽くした。自分の吐息だけがひどく大きく聞こえる。


周囲の通行人たちは、一瞬の静まりの後、一斉に狂ったように逃げ出した。


「怪物! 灰の怪物だ!」


泣き叫びながら、転倒しながら人々は命乞いをするようにゼルから距離を取った。


ゼルはゆっくりと、女性のオブジェからローブを離した。彼は灰の塊を、何の感情も浮かべずに通り過ぎた。


――仕方がなかったんだ。必要なことだったんだ。だから悪くない。化物でもない。


頭の中で繰り返す肯定の言葉は、もはや慰めではない。それはノイズだ。耳鳴りだ。


「ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁぁ……ッ! 畜生……!」

ゼルは立ち止まる。 彼の足元には灰となった子供のオブジェ。


「フザケルナ……!」


彼の右手が、グローブの中で激しく痙攣した。


「ナンデ、アンタナンカ、イマ、イキテルノヨ!」


その叫びが、脳内で何度も聞こえてくる。


「知らぁねえよ! 全部、俺のせいなんだろ? そうなんだろぉ? ハハ……ハッ、あああああ!」


彼の口から、乾いた笑いが漏れる。それは笑いというよりは、肺の奥から絞り出される悲鳴に近かった。しかし、その笑いは次第に大きくなり、歓喜へと変わっていく。


「ハハッ、そう、そうだ! 全部、俺のせいだ!」


 リリアの憎悪も母を殺した悪夢も、そしてヒーローになりたいという偽善も。この世界が押し付けてきたすべての枷は、この手で壊せる。 全てが灰となればいい!


ゼルは人通りの途絶えた大通りで、まるで舞台に立つかのように、スキップを始めた。


シャラリ、シャラン、シャララ!


鎖の音はもはや不気味な呪いの音ではない。これはワルツだ。


彼は、脇に置かれていたアルミ製の消火栓に、グローブを外した素の右手で、優しいキスをするように触れた。


シャリン。


消火栓と周りの外装は灰色のオブジェと化し、軽い力を欠けただけで崩壊した。それを前にゼルは笑いながら、泣いていた。


「ハハハ... ハッ、そうだ! 全部、俺のせいだ! 知るか! 何が光だ、何が未来だ! 誰も壊さない世界? ……いいや、誰もいない世界だ! 壊すことでしか、俺は自由になれない!」


その足は止まらない。彼は踊り、次に立ち並ぶ駐車場の自動販売機に、浴びせるように抱きついた。


シャリン。


自販機は一瞬で結晶化した。


「んー」


ドンッと強く蹴ってみるとすぐに崩れ落ちた。


彼は、破壊という名の解放の中で、自己を正当化する狂気の舞いを続けた。彼のひどい嗚咽と笑い声が、誰もいなくなった街路に響き渡る。


その姿はまるで――悪役。ついに正当な役を得たかのような、歪んだ歓喜に満ちていた。


そして、その破壊の舞いの最中、ゼルはぴたりと足を止めた。


彼の背後、崩壊した自販機の灰色の山を前に、一つの人影が立っていた。その人は、静かにそして冷酷に、ゼルの怪物の美学を見つめていた。

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