14話 奴隷剣闘士の転職相談会
風薫るさわやかな朝。
匠はだいぶ調子を取り戻していた。
先の試合で得たチップを、介助してもらったお礼と経費としてカルギスに渡したが、今度はそれが傷薬となって帰ってきてしまった。
彼の人の良さには本当に頭が下がる。
たっぷりの睡眠、確かな効果の傷薬と健康的な食事のおかげでヘリオンの傷は瞬く間に回復した。
少々異様な回復速度ではあったので、もしかしたらヘリオンの種族的な特徴が関係しているのかもしれない。
そして、匠にはさらに嬉しい出来事があった。
大怪我をして以来、見かけなかった『おはぎ』がまた姿を見せるようになったのだ。
彼は小さな体で、焼いたマグロの切れ端に挑むようにかぶりついている。
少し大きかったかもな、と匠は独りごちる。
おはぎとの心安らぐ時間を過ごしていると聞き慣れない足音が近づいてきた。
「少しは静養できたかね?ヘリオン君」
歳は30代後半くらいだろうか。
彼の柔らかな物腰と柔和な表情は闘技場と牢には似つかわしくない。
シュッとした佇まいは知性と気品を感じさせ、羽織っているトガはクリーニングから引き取ってきたばかりかと思うほど清潔だ。
仕事のできるエリート外交官。
そんな雰囲気の持ち主。
この人が『リヴィアス元老院議員』のようだ。
「元気そうで何よりだよ」
彼は完璧な笑顔を作り、ニコッと微笑む。
笑顔のよく似合うイケメンである。
「自己紹介が遅れてすまない。当闘技場の管理官を務める元老院議員のタルカス・リヴィアス・トピカだ。よろしく」
ニコッ。
またニコッされた。
何故だろう、彼を見ていると卑屈な気持ちになってしまう…
「ご丁寧な挨拶に感謝します、議員。私はヘリオン。休息の時間をいただき、重ねて感謝します」
自己紹介を返した俺に目を丸くして固まる議員。
まぁ、あれだけ野蛮な戦いをする奴隷が流暢に返答したら驚くのは当然か。
だからこそ、最初の挨拶と印象は大事だ。
まずはこちらに知性がある事を伝えるべき!
職場の労働環境改善と出世には、上司の覚えをめでたくしておく事が必須条件なのだから。
「失礼、想像以上に知的だな君は。話が早そうで助かるよ」
一瞬、彼はこちらを値踏みするように目を細めたが、すぐに柔和な笑顔へと戻っていた。
「さて、私がここを訪れたのは儀礼的な要件をいくつか君に伝えるためだ。君のこれからを左右する内容なので、よくよく耳を傾けてくれたまえ」
リヴィアス議員はそう言うと、物腰も柔らかに丁寧な説明を始めた。
ひとつ、
奴隷闘士ヘリオンは次の試合に勝つと奴隷ではなくなり、クロネリア帝国の無産市民(下層市民)として登録される。
奴隷闘士は、1試合ごとに報奨金として800セステ(現代の円に換算しておよそ24万円)が帳簿の上では支払われており、5勝する事で4000セステ(約120万円)を稼ぐ。
この金で自分という奴隷を購入する。
そんな理屈なんだとか。
ひとつ、
次の試合は前座ではなく、メインイベントとして行われる。
よって、試合は午前ではなく夕方に開始される。
奴隷闘士が5戦目にたどりつく事はなかなかに稀な機会であり、
(それはそうだろう…治療無しなんだから)
5勝したともなれば帝国に新たな市民を仲間として迎え入れる事になる。
これは、れっきとした儀式のひとつとして記録される。
「そうなれば、君はちょっとした英雄だろうね」とリヴィアス議員は微笑んだ。
ひとつ、
試合の前には沐浴をし、身を清め、清潔なチュニックを着て試合に臨む事。
「次の試合は闘技場の統治者であり、皇帝陛下の叔父でもあるフィルメヨール・クラウディ公閣下がご覧になります。
彼はインペリウム(強大な指揮権)を持つ強大な権力者であり、帝国の宰相を務める御方。
私の対面にも関るのでどうか粗相のないようお願いします」
おっと、弱みを見せてきたぞ。友人のように接してきたのはこれを言い含めるためだったようだ。
「以上。なにか質問はあるかね?」と、一通りの説明を終えた議員は締めに入る。
「ひとつだけよろしいでしょうか議員」
「気さくにリヴィアスと読んでくれたまえ」
ニッコリと微笑む議員。
これはあれだ。ここで調子に乗るのはまずいやつだ。くだけすぎないように少しだけ肩の力を抜く感じかな?
だがひとつ、どうしても聞いておきたい事がある。
「次の試合に勝利した場合、剣闘士を辞める事はできますか?」
「ふむ……」
少し考え込む議員。
想定外の質問だったか?
当然の疑問だと思うが。好き好んで殺し合いなんてしたくないだろ、普通。
「無産市民になれば、選択として剣闘士を辞める事は可能だ。ただし…」ただし?
「クロネリア帝国の有産市民(上位市民)は、多くが独立した自営農家だ。
そして商人と職人は、原則としてコレギウム(ギルド、組合の起源となる組織)に属している。これらの権利は主として長男が受け継ぎ、守っている」
ふむふむ。
「無産市民となり自由を手にした君に、強力なコネと金が無いものとして話すと、まず商人と職人の見習いはその職に就いている者の子や親族で埋まっている」
はい!
現代知識で商人として無双するルート消えました!
「次に自営農家の小作人だがこれは多くの場合、その家族と奴隷が担っている。土地の権利に関わる事なので、商人や職人以上に部外者が入り込むのは難しいだろう」
現代知識でスローライフ農業ルートも消えた!
「ほ、他に仕事はありませんか?」
どうしよう、聞くのが怖くなってきた…もはやリヴィアス議員がハローワークの職員にしか見えない。
「そうだな。あまりおすすめできないが、物乞いのコレギウムなら受け入れができる」
も、物乞いって…「ほ、他には?」
「うーむ。あとは、兵士くらいかな?」
兵士!いいじゃない!
「兵士はなにか問題がありますか?」
剣闘士としてのキャリアが役立ちそうだ。最初に紹介してくれればいいのに。
「ヘリオン君には収入の面で折り合いがつかないと思うが」
収入?そこのところ詳しくおなしやす!
「先ほど少し触れたが、剣闘士の収入は一試合ごとに支払われる。最低ランクの闘士として勝者には1000セステ以上」
剣闘士に比べて多少収入が落ちるとしても、兵士のほうが平穏に暮らせるんじゃないか?多分。
「そして、一般的な兵士の年収は800セステから1400セステだ」
え…「ね、年収ですか?」
「そう、年収」
「さ、参考にさせていただきます」
「参考にしてくれたまえ」
議員は得意のニコッで締めた。
帰り際、リヴィアス議員はひそひそ声で「実は、すっかり君のファンになってしまってね。君の剣闘をもっと観たいのさ」と言い残し、イタズラが成功した子供のように邪気のない笑顔を披露してくれた。
「あ、でもさっきの話は本当だ」
ううぅ…俺の異世界転生、難易度高すぎないか?