36話 誘拐
アウロ議員を誘拐するべく、成人男性が入るサイズの麻袋と荒縄を背負いウェスパシア訓練所へ潜入したヘリオン。
剣闘士訓練所である以上はブルトゥス訓練所同様、警備は厳重で、守りは強固だろうと覚悟して来たのだが……
石壁は分厚く、まさに堅牢そのもの。
門の鉄柵は二重になっており、厳しく来訪者を拒絶している。
だがそこに門番の姿はなく、扉も開いたままだ。
人さらいなどという物騒な用件で来訪しておきながら「不用心にもほどがあるだろ」などと、眉を潜めて呟いてしまう匠であった。
人気の無い通路を足音を殺して、そろそろと進む。
(ウェスパシア訓練所のオーナーかつ元老院議員がいるとすれば母屋の二階の執務室か、はなれにでも部屋を持っていると見た)
そんな風に当たりを付けて周囲を見渡していると、奥の方から歓声が上がるのを耳にした。
「な、なんだこの人だかりは!」
中央広場を埋め尽くす人、人、人。
老若男女入り交じり、お互いに押し合いへし合いして壇上に立つ者を凝視し、口々に声援を送っている。
「彼がスパルタクスなのか……?」
壇上から周囲に熱く語りかけているのは、立派な鎧を着けた三十前後の筋骨たくましい美丈夫だ。
日に焼けて健康的な小麦色の肌、茶髪、整った顔立ちは自信に満ち、まさに理想の指導者か、将軍の姿。
観衆の一人一人を見つめては頷きを返し、鼓舞している。
ふと、彼がこちらを向いて目が合ったような気がしたのだが……
前世でアイドルヲタクの友人が、
「ライブで◯◯ちゃんと目が合っちゃったよ!」
などと興奮の面持ちで報告してきた事を思い出して、ちょっと気恥ずかしくなった。
伝説の偉人に興味はあったが正直そんな余裕はない。
フーガから暴動が起きていると聞いてはいたが、暴徒どころか本格的なクーデターの発生現場に居合わせてしまったのだから。
(この責任をリヴィアスが負わされるとしたら、打ち首や晒し首のレベルなんじゃ……結構な瀬戸際だぞ。
アウロ議員にとって、スパルタクスに訓練所が占拠されたのは計算外のはず。まだ生きているとしたら、はなれの方だろうな)
中央広場、壇上の背には二階建ての母屋が建っている。
ここはおそらく、興行師の執務室や訓練士の部屋だろう。右手にある少し汚い長屋は奴隷の住居棟。
はなれがあるとすれば、ブルトゥス訓練所においては鍛冶工房か、カサンドラの野獣地区にあたる位置だろうか。
思考を巡らせ、匠は熱狂する人混みに紛れて移動を開始する。
幸いここには剣闘士も多く、ヘリオンの巨体もそれほど目立たない。
広場を挟んで反対側にゆっくりと回り込み、少しずつ喧騒から離れていけば、誰に咎められるでもなく、ウェスパシア訓練所の奥に入り込む事ができた。
美しい花々が配置され、丁寧に整備された玄関口。
最近積まれたであろう低めの石壁は、防衛目的ではなく箱庭を彩る装飾の一種とわかる。
他の建物とは一線を画す豪奢な新築の小宅。
剣闘士風ではなく、兵士然とした二人の門番。
間違いない。ここがアウロ議員の別宅だろう。
さてと、どうやって侵入するべきか……
(迷うほどの事ではない。雑兵二人程度、声を上げさせる間もなく始末してくれる)
久しぶりの荒事にヘリオンさんが盛り上がってしまっているようだ。
まぁ、アウロ議員を勢い余って殺されても困るので、ここはガス抜きのつもりでお任せする事にしよう。
(騒がれないように頼む。でもできれば殺さないでやってくれ)
(応!)
胸の内でヘリオンと会話を交わし、身体のコントロールを明け渡す。
途端、右足にグイッと力が入り、石壁に隠れるような低姿勢のまま、素早く壁に沿って移動する。
建物の側面、門番の少し後方まで来ると、一瞬頭を上げて辺りを警戒。
音も立てずに石壁を乗り越えた。
忍者というには少々体が大きい気もするが、身のこなしは隠密や泥棒としても十分にやっていけそうだ。
ヘリオンの身体能力に感嘆して、うっかりそんな事を考える匠だったが、
(気配を消さなくては森で獣を狩る事はできぬのだ。だからといって、盗人稼業などの為に私の体を使ってくれるなよ)
しっかりと釘をさされてしまった。
(も、もちろんそんな事に誇り高いヘリオンを使ったりはしないさ。当然だとも)
(うむ、信じているぞ)
ヘリオンの思考は蛮族に近いが、彼は誇り高い戦士なのだ。
冗談でも悪い事を考えるのはやめておこう。
友人の為とはいえ人さらいをするのはいいのか?
という疑問も考えないほうが良さそうである。
余計な雑念を払ったヘリオンは手頃な石を拾い上げ、気配を消して後ろから門番に近づく。
瞬時に目標を定め、サイドスローから放たれた石は離れた門番の喉を的確に潰し、流れるような動作で近くの門番の首を絞め上げて意識を刈り取る。
逃げ出そうとする喉の潰れた門番の足を払って転倒させ、後頭部に一撃。
ヘリオンは二人の門番を一言も発させる事なく軽々と制圧すると、小宅へと侵入した。
「このっ! このこのこのっ!」
精緻な細工の施された銀の尖筆を、執務机に幾度となく突き立ててアウロ議員は喚きちらす。
「栄誉ある元老院議員のこのアウロの城に、奴隷共が押し寄せて集会など許されるものか!」
溜まった鬱憤を晴らすのにちょうどいい女奴隷も、機嫌を取ってくれる側仕えも、もういない。
皆、隙を見て一目散にスパルタクスの下に逃げ出してしまったのだ。
リヴィアスを逮捕させ、興行師ロマレースを追い出し、悠々と馬車で入場したまではよかったのだが―――
まさか、反乱軍の首領であるスパルタクス本人が帝都に侵入するなんて。
まさか、そのスパルタクスが自らの根城であるウェスパシア訓練所を乗っ取るなんて。
悪い夢としか思えない。
「あ、あいつらがここを出ていくまでの辛抱だ。
シディウス様がクラッススを取り込んだおかげで元老院だけでなく軍部までも意のまま。
宿敵リヴィアスの奴も死に体とくれば……つまり、俺の時代が来るという事よ!
ヒッヒッヒ……あと少し、あと少しの辛抱だ。この局面さえ乗り切りさえすれば……」
尖筆同様、美しい細工の入った銀のスキュポス(ワイン用の酒杯)を手にとってワインを一気にあおり、怯えを抑え込む。
まさか、新たな凶事がすぐ背後に迫っているとも知らず……
「むががっ!! むご! むぐぐ……」
アウロが酒杯を執務机に戻したその時、彼の口には猿ぐつわがはめられ、同時に顔面を机に強打させられる。
「ごわっ!」
何が起こったのかも判らぬ内に、両手を後ろに回されて手首を荒縄で縛られる。
一切の抵抗も許されず、頭から麻袋をかけられたところで後頭部に衝撃が走り、アウロ元老院議員は意識を失ったのだった。
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次回は3月6日(金曜)です。
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