34話 コリーナ門の戦乙女
多くの神話が残る神秘の国パルテナス。
そこには当然、人知を超えた魔獣の伝承が、血塗られた真実として刻まれていた。
パルテナスの最高神ゼウスをも窮地に追い込んだ最大最強の怪物テュポーン。
その悍ましき血脈は絶えることなく、双頭の狼『オルトロス』となって帝都の門前に現れた。
紀元前700年頃、ヘシオドスが編纂した『神統記』において、牛の群れを守る番犬として記されたその伝説は今、クロネリア帝国の喉元を喰い破らんとする「生ける災害」へと姿を変えていた。
帝都クロネリア東部――コリーナ門。
全長5メートルを超す双頭の巨躯オルトロスと、それに付き従う銀毛の凶獣リュカオーン。
二頭の魔獣がもたらす暴力の前に、帝都の防衛線は文字通りの地獄と化していた。
「退避だ! 重装歩兵は門扉から離れろ! 圧死するぞ!」
「隊長、馬が……馬たちが狂いました! 騎馬隊は全滅、生き残りは徒で応戦していますが、盾ごと噛み砕かれて……!」
「軍医だ! 止血帯が足りん、早くしろ!」
「軍医長なら、さっきリュカオーンの顎の下に……ひ、うわあぁ!来るな、来るなああぁ!」
クロネリア帝国軍の軍制は、この時代において他を圧倒する先進性を誇っていた。
一軍団6000名には軍医長が配され、一大隊600名ごとに野戦病院設営能力を持つ衛生兵が随行する。
負傷者の生存率を高めるその組織力は、人間同士の戦争であれば無敵の持久力を生んだだろう。
だが、神話の魔獣を前にしては、医学も軍略も等しく無力と言う他なかった。
ドオンッ!
衝撃波が石畳を跳ね上げ、門扉の厚い木材が悲鳴を上げる。リュカオーンの突進は、かつて数多の蛮族を退けてきたコリーナ門の防衛機能を物理的に破壊していた。
鉄の補強材はひしゃげ、半ば食いちぎられた木材からは粘り気のある樹液が血のように流れ落ちる。
「……コルネリウス閣下からの増援はどうした! 我らだけでこの化け物を止めろというのか!」
部隊長は、血と泥にまみれたスパタ(長剣)を杖代わりに、辛うじて立ち上がった。
「はっ! 『イデアの勇者』がこちらへ向かっているとの報告ですが……現状、予備兵力の200名が全滅間際です!」
「陣形はどうなっている!」
「レギオン陣形、3列応対を倍の6列に増やして厚みを持たせましたが……オルトロスの二つ頭に左右から同時に食いつかれ、盾の重なり(テストゥド)が内側から弾け飛びました。
最前列は……もはや、肉の壁として時間を稼ぐのが精一杯です」
部隊長は戦慄した。帝国の誇るテストゥド(亀甲陣形)は、上空からの矢を凌ぐには最適だが、至近距離から「質量」で押し切る魔獣の暴力を防ぐには至らなかったようだ。
オルトロスの右の頭が兵士を盾ごと空中に放り投げ、空中で待機していた左の頭がその胴体を真っ二つに引き裂く。
撒き散らされる内臓と鉄の破片。雨ですら洗い流せぬ鉄錆の匂いが、戦場を支配していた。
「我らが食い尽くされるのが先か、勇者が来るのが先か……生と死を司る竜バースよ、どうか部下たちの魂をヴァルハラへ……」
絶望が部隊長の膝を折ろうとした、その瞬間だった。
「――eihwaz……」
「――vivificare」
コリーナ門の屋上、雨雲に届かんばかりの高さから、厳かな祝詞が降り注いだ。
古代クロネリア語で『再生』を意味する言葉。
半壊した門の縁に、一人の女が立っていた。
――――イデアの勇者、カサンドラ。
その手に握られた、極端なまでに反り返った鎌状の曲刀『ケペシュ』が、祝詞に反応して目に焼き付くほどの白銀の光を纏う。
「ずいぶんと派手にやったじゃないか。――qn(w)!(クネウ!)」
古代アイギュプト語で「勝利」を叫び、彼女は十数メートルの高さから躊躇なく飛び降りた。
ブルーブラックの髪が夜風にたなびき、戦乙女の輪郭を空に刻む。
その落下軌道上にいたのは、門を突き破らんとしていたリュカオーンだ。
巨獣が不穏な気配を察し、その銀色の眼を上空へ向けた時にはすでに、古の王の鎌がその喉元に届いていた。
「理屈は単純だろ? 速度で断ち切るのみ!」
カサンドラは空中で体を捻り、ケペシュの弓なりになった「内刃」をリュカオーンの太い首筋に引っ掛けた。
落下エネルギーのすべてが、鎌の鋭利な一点に集中する。
ザンッ!!
滑るような音と共に、ケペシュが魔獣の強靭な筋肉と頚椎の隙間を、熱いナイフでバターを斬るように通り抜けた。
一撃。
全長3メートルのリュカオーンの巨躯が、着地の衝撃を待たずして「胴体」と「頭部」に分断される。
ゴトリ……ブシュシュッ!!
石畳を叩く激しい血の雨。
数秒前まで死を撒き散らしていた破壊の権身が、ただの「肉塊」へと成り果てる。
静寂が戦場を包む。恐怖で硬直していた防衛隊の面々が、落ちた魔獣の首の前に、静かに着地したカサンドラの背中に目を奪われた。
「おぉ……」
「おおおお! 勇者だ! イデアの勇者が来たぞ!」
「miraculum(奇跡だ)……!」
湧き上がる歓喜の声。しかしカサンドラは、勝利に浸る間もなくケペシュを大きく一振り。
すると、刀身に付着した魔獣の返り血が、光の粒子へと変換され、周囲の兵士たちに降り注ぐ。
『ヴィヴィフィコ』――ケペシュにかけられた魔法の力が、兵たちの折れた骨を繋ぎ、裂けた傷口を瞬時に塞いでいった。
「ほんの少し、生命を取り返してきただけだ……」
彼女は振り返り、呆然とする部隊長を射抜くような鋭い視線で見据える。
その背後には、相棒を殺されて怒りに狂う、双頭の怪物オルトロスが牙を剥いて唸りをあげている。
「お前たちが門を守る戦士だと言うならば立て。死ぬのは、剣を置いてからにしろ」
その言葉は、どんな祝詞よりも重く、兵たちの魂に火を灯した。
恐怖は消えていない。
だが、彼女の背中がある限り、自分たちは「獲物」ではなく「兵士」でいられる。
「総員、構えろ! 俺たちがこの門を守らなくてどうする!」
「レギオン防御陣形! 3列応対、勇者の隙を作るぞ!」
「イデアの勇者に続け! 応ッ!!」
カサンドラは、咆哮を上げるオルトロスに向け、再びケペシュを正眼に構えた。
「二つの頭か。なら、二回斬る手間が増えるだけだな」
スパルタクス軍の軍師オエノマウスが仕掛けた奇策『コリーナ門急襲』
それは帝都を絶望の淵に追い込んだが、同時に「最凶の勇者」を戦場へ引きずり出すという、反乱軍にとって最大の誤算を生むこととなったのである。
閃光が奔り、鋼と牙が交錯する。
コリーナ門の真の戦いは、ここから始まった。
毎週、月・水・金の週3回17時30分投稿。
次回は3月2日(月曜)です。
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