20話 腹心オエノマウス
スパルタクス、クリクススと共にコピルのバティアドゥ訓練所の炊事場で、包丁を手に脱走したあの日から既に半年。
八十人からの剣闘士と共に通りかかった武器商人の荷馬車を襲って武器を揃え、皆でリーダーを決めた。それほど前の事ではないのだが、今では遠い昔のように感じる。
貴族の避暑地として有名なカンパニア地域を襲撃した際には、逃げ惑う貴族の側仕えたちが、我々を見るや目の色を変えて突如反旗を翻し、手近な壺や箒の柄で主人に襲いかかる姿を何度も見てきた。
あれは本当に痛快としか言いようがなかった。
思えばあの頃が一番良い時期だったのかもしれないと、オエノマウスは心中で懐かしさに浸っていた。
反乱軍が五千人近くになった頃だろうか、ヴェスビオ山の麓、ポンペイの町に陣を張り、最初の鎮圧軍二千を圧倒した夜の事だ。
そう、反乱軍初の大勝利に皆が正義を叫び、勝利に浮かれた夜の事。
スパルタクスの腹心として個人の天幕が用意されていたオエノマウスの寝所に、その女は現れた。
夜を溶かしこんだような漆黒の長い髪は流れる河のように艶めき、白く透き通る肌、形の良い胸乳は周囲の奴隷女のそれとは明らかに違う、
オエノマウスにとって完璧としか形容しようのない美しい女だった。
最初はスパルタクスの寝所と間違えて迷い込んだ貴族の元側仕えかと思った。
スパルタクスは弁舌が達者な上に、なかなかの美男だ。女達が放ってはおかないのも無理はない。
それに比べて俺は、鎮圧軍の矢を受けて左目を失ったばかり。
口を開けば皆心配はしてくれるが、寝所に女が潜んでくるような事はない……そう思っていたのだが。
「反乱軍の腹心、オエノマウス様……」
彼の出身地であるパルテナスの巫女に似た衣装に身を包んだその若い女は、すがるようにするりと身を寄せてきた。
香を焚きこめたのだろう、彼女から立ち昇る甘い香りが、争いで猛り、勝利の美酒に酔った頭を冒していく。
「お前は……この顔が怖くないのか?」
「何を仰せられます。貴族の顔色を伺って恐恐と暮らしていた我々……いえ、私を守ってくださったお強い御方。
そのお顔は正義と勇敢さの証にございましょう。心底から愛おしい―――」
息がかかる程に顔を近づけて彼女は囁き、甘い吐息を漏らして唇を合わせる。
上目遣いでうっとりと瞳を潤ませる彼女はまるで月の女神のようだ。
蛇を思わせる動きで口内に侵入した彼女の舌は思いのほか荒々しく絡みついて……彼の理性が働いたのはそこまでだった。
その夜、寝所に現れた月の女神は、彼の望む通りに豊かな胸と腰とを与え、彼の望み通りの嬌声を上げてオエノマウスの猛りを鎮め、全ての欲望を満たした。
「その……なんだ、名を聞かせてもらってもよいか?」
シーツを身に纏い、傍らに寄り添う女を抱き寄せてオエノマウスは女の名前を聞いた。
こんな事になってしまって今更という気恥ずかしさもあったが、身なりからして売春婦とも思えない。
彼女となら良い人生を送れるかも知れない……などと、少々都合の良い妄想がオエノマウスの頭をよぎる。
「反乱軍の智将、オエノマウス閣下。私の端ない行いも優しく受け止めてくださる優しい御方……」
彼女の言葉は全てが好ましい。
多くの仲間はスパルタクス軍と呼ぶが、彼女は反乱軍と呼ぶ。
智将だとか、閣下だとか、少々大げさとは思うが、他者のつまらない阿諛追従と違い、彼の自尊心を甘やかにくすぐり、自信を与えてくれるのだ。
「私の名はマルスと申します。勝利と武勇を司る竜、ケイオス様の巫女ですわ」
「そうか……月の女神ではなく、勝利の女神であったか」
マルスはそれ以来、夜ごとにオエノマウスの寝所へと現れるようになり、
「反乱軍は閣下の思惑次第で動く事でしょう」
「閣下には私の祝福がついております……さぁ」
そう言ってマルスに手を引かれ、オエノマウスは幾度となく彼女の体を貪り、愛を囁きあった。
ある晩の事。
「閣下、この巻物を読み上げてお使いくださいませ。この祝詞にはケイオス様の祝福が授けられておりますのよ」
何枚もの羊皮紙をマルスから手渡されたオエノマウスは、少し奇妙なプレゼントを微笑みと共に受け取る。
「まじないと言えど、勝利の巫女からの贈り物だ。ありがたく頂くとしようか」
「この祝詞は、スパルタクス様が聴衆へと呼びかけている時に唱えれば、人はその話を信じ、戦の時に唱えれば、兵は命がけで戦い続ける事でしょう。言葉の通じぬ獣でさえ抗えませぬ」
スパルタクスの名が出て少し機嫌を損ねたオエノマウスであったが、愛しいマルスからの贈り物だ。
無下にはできない。
なにより睦み合う前である。
彼女の機嫌を損なっては……
オエノマウスが精も魂も尽き果てて深い眠りについたのを確認すると、マルスはスルスルと彼の腕から抜け出し、寝所を後にした。
「盛りのついた獣め。幻とはいえ、いつまで私に絡みついているのやら……怖気が走るわ」
男には決して見せる事のない苦々しい表情で口を拭い毒づく。
「人の争いが、流れ出る血こそが、ケイオス様の糧となる。いずれは混乱の支配する時が来よう……フフフッ」
寝静まる反乱軍の陣を横目に闇へと溶けて、混沌と争いの竜ケイオスの巫女マルスは姿を消したのだった。
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