09話 剣闘士の値段 前編
「い、1万セステ?!」
ブルトゥス訓練所の客間に通された匠は、驚きのあまり大声を出してしまった。
「いくらか、まかりませんか?」
「まかりません!」
リヴィアス議員の別邸でパティアと合流を果たした匠は、コルネリウス将軍を訪ねる道の途中でダモンへの報告の為にブルトゥス訓練所へ立ち寄っていた。
パティアはフットワークが軽いので、ついつい忘れそうになるが帝国属州パルテナスの大使だ。
歴とした貴人である。
匠がダモンに報告している間、訓練所の一番上等な客間で歓待されるようだ。
「ヘリオン様、お早いお戻りを…⋯」
一瞬ではあったが、さっと身を寄せられ、彼女の香が鼻孔をくすぐる。
上目遣いに憂いを帯びた表情を作り、名残惜しそうな様子を見せたものの、すぐに彼女は凛とした態度に戻り、侍女と共に客間へと去っていった。
なにせ、彼女はつい先ほど怖い目に遭ったばかり。少しでも寄り添い、力になりたいと思うがまずはやるべき事を済ませなくては―――
そんな事を考えていたのだが、ダモンさんから訓練所の一時閉鎖を告げられた俺は、魔獣と対峙した試合以上の衝撃を受けて頭が真っ白になってしまった。
(スポンサーのリヴィアスが逮捕されたと思ったら、次は職場が閉鎖だなんて―――俺の人生転落しすぎじゃないか?)
クロネリア市中に名声を轟かす剣闘士ヘリオンの中身、川瀬匠は元来ど安定志向である。
剣闘士などというリスキーな職に就いてはいるが、それも自分なりに安全マージンをとった上での事。
トントン拍子に平穏かつ富裕な生活を手に入れつつあった匠の人生設計は、本人の手の届かない所からガラガラと音を立てて崩れ始めてしまった。
「ヘリオンよ、今回の騒乱は剣闘士絡みだからな。訓練所の安全さえ危ういのだ。興行師と見るや、徒党を組んで襲いかかってくるような連中もいずれ現れるだろうよ」
興行師に恨みを持つ剣闘士は多いだろう。
匠自身、最初に出会った興行師には少なからぬ敵愾心を抱いたのだから。
「そこでな、嵐が過ぎ去るまで訓練所はがっちりと門戸を閉ざしておく事にした。お前もそのつもりで頼むぞ」
確かにその通り。
ごもっともではあるのだが―――
(半年も収入が途絶えるなんて、俺の精神と懐は耐えられるのか?この世界に失業保険なんてあるわけないよなぁ⋯⋯)
(スパルタクスは当初、ローマを目指していたんだ。場合によってはここまで来る可能性もある。それはそれとして市民と奴隷の対立は間違いなく起こるだろう。収入だけでなく安全も確保しておかないとオドリーが危険に晒されるだろう)
収入が途絶えた事の不安から家内の安全確保へと思考が移った匠は、以前から考えていた案をダモンに打ち明けてみる事にした。
魔獣戦で共に戦った奴隷闘士のティミドゥスを買い取ってオドリーの護衛役、自宅を守る衛兵にできないかと機会を伺っていたのである。
話を聞いたダモンはヘリオンたっての願いとあらば、と気前よく承諾してくれた。
細かな交渉はトリトスに相談するとよい。などと言われ、軽い気持ちでひょいひょいと足を運んでみたのだが―――
「まかりません」
―――そうだった。
訓練所の財布を握っているのは気前の良いダモンさんではなかった。
「そ、それにしても1万セステ(約300万円相当)というのは法外ではありませんか? 私の知っている奴隷の相場は500セステ(約15万円相当)くらいだと思いましたが」
オドリーは500から1000セステだったはずだ。
結局、ヘリオンの宝石ペリドットと交換する羽目になったが。
匠の反問に話にならないと首を振ると、いかにもトリトスさんらしく丁寧に説明してくれた。
「いいですかヘリオンさん? 500セステというのは家内奴隷の相場です。剣闘奴隷の相場は、1000セステから2万セステほどでしょう」
ブルトゥス家の二人はやりての商人だが嘘はつかないから相場は信じていい。攻めるとしたら相場の中でのティミドゥスの価値についてしかない。
「トリトスさんはティミドゥスをずいぶん高く買っているのですね。彼の戦績は0勝3敗だったはずでは?」
匠は以前、ティミドゥスから強くなりたいと相談された事があるので実情を知っている。
彼は元々、魔獣の生贄に選ばれるほど弱かったのだ。ここを突いて交渉を有利に進めたい!
「ではヘリオンさん。ティミドゥスの付加価値について公正にお伝えしましょう」
そう言うとトリトスは背筋を少し伸ばして慇懃に客観的なティミドゥスの価値について説明を始めた。
「現在のティミドゥスの戦績は4勝3敗。4連勝中の注目闘士です」
なんと! しばらく見ない間にティミドゥスはずいぶん勝ち星を上げたらしい。がんばったなティミドゥス!
今度お祝いしないと。
「ティミドゥスはザビア訓練士長から直々に指導を受け、長槍の名手として名実ともに登り調子。年齢も18歳とまだまだ若く伸び代も大きい」
そうそう、ハスタの訓練は俺が手配したんだった。彼の成長に一役買えたならこんなに嬉しい事はない。
「ティミドゥスの性格は温厚で命令にたいして誠実であり、護衛の経験もあります。市内の治安が悪化している現在、彼の性格と護衛経験は高く評価できるでしょう」
ティミドゥスは護衛任務を受けて、体を張ってオドリーを守ってくれた。
だからこそ俺も彼の役に立ちたいと思っている⋯…護衛経験は確かに付加価値だ。
「最後になりますが、彼は何と言っても魔獣戦に五体満足で生き残った希少な闘士です。
そんな彼の値段が1万セステというのは妥当だと思いませんか?」
「だ、妥当です―――」
完膚なきまでに納得してしまった。
説明を聞きながら、俺もうんうんと頷いてしまったしな…⋯
ご理解いただけて本当によかったです。と、トリトスさんは満面の笑みをこぼしていた。
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