06話 強襲
古代ローマ帝国では1世紀頃からすでに窓ガラスが使用されていた。
最初期の窓には透明度の高い鉱石の薄板が嵌められていたが、後には一点物の鋳造ガラスが使用されていた形跡が残っているという。
リヴィアス議員の別邸に客分として住まいを与えられている属州パルテナスの大使パティアは、一階のリビングにはめ込まれた窓ガラスを通して、美しく手入れされた庭先を見つめていた。
別邸の中庭はリヴィアスの指示で、彼女の愛する故郷パルテナス風の設え。
『コラム』と呼ばれる白い大理石の独立した円柱には職人の手によって精緻な意匠が施されている。
コラムの上は花台になっており、季節の花々が退屈な時間に彩りを加えてくれるのだが、仲良く並んだ赤と白のアネモネが風に揺れては刹那の口づけを見せつけてくるのは、少々目の毒だ。
それを横目で見やり、接吻を交わすアネモネに己とヘリオンを重ねてしまえば、頬が熱を持ってくる。
熱を冷まそうとコラムから目を離し、庭の中央、パルテナスから取り寄せた小花で満ちた花畑に目を移す。
あぁ、花のベッドに寝転んで、お互いに思い思いの詩を口ずさむのも素敵ね。
彼の大きな腕に包まれて、そう、そのまま―――
秘密の花園と呼ぶに相応しい静謐な庭先でヘリオンを想い、一人顔を真っ赤にしてジタバタするパティア。
とめどなく溢れ出る妄想に振り回されるひととき。
だが、そんな幸せな時間は唐突に破られた。
―――ガシャン!
彼女に向かって何かが飛んできたと思った瞬間、窓ガラスが激しい音を立てて割れ落ちる。
「きゃあっ!」
床に伏した事で幸運にも怪我はなかったがパティアの受けた衝撃は大きい。
ここは帝都クロネリアの最富裕層地区に建つ、元老院議員の別邸である。
帝国においてこれ以上安全な場所はほとんどないだろう。
ガシャン! ガシャン!
何者かの投石によって次々と割られていく窓ガラス。粉々になったガラスを浴び、恐怖に震えながらパティアは状況の把握をしようと必死に心を落ち着かせようと取り繕った。
立て続けに窓ガラスが割られている事を考えれば故意である事は間違いない。
安全な場所を求めてテーブルの下になんとか非難したパティアは、思考を巡らせた先に違和感を覚えた。
議員の別邸に石を投げ込む……これは抗議の表明だろう。それなのに罵倒や嘲笑、野次が聞こえてこないのは何故?
息を殺して耳を澄ましてみると、複数の足音が館に押し入ろうとしていた。
リヴィアス議員か私を誘拐でもしようとしているのかしら……なんとかして逃げ出さないと!
パティアは勇気を振り絞って立ち上がり、割られた窓から中庭をこっそり覗き見る。
人影はない。
おそらく、投石は『スリング』と呼ばれる紐状の投石機で離れた場所から行われたのだろう。
中庭の窓ガラスを割って驚かせ、建物の出口へ追い立てようとしたのかもしれない。
「賊は玄関にいる。ここからなら中庭を抜けて裏口から逃げられるかもしれないわ。い、行ってみましょう」
パニックを鎮めるためにパティアは直近の目標を声にだして自らに言い聞かせるのだが、どうにも声が震えてしまう……
「ヘリオン様、どうか私に勇気を―――」
ヘリオンは彼女にとって、最も雄々しく勇敢で強き者だ。
リヴィアスに誘われ、付き合いで観覧した剣闘。
どうせなら推しの闘士を作るほうが楽しめるのでは、という軽い気持ちだったのだが……
彼の試合を観て、食事を共にし、会話を重ねる事で、気付けばパティアの胸中を大きく占めるまでになってしまっていた。
「投石止め!」
スリングを使い、邸宅に投石していた二人の男に静かな声で指示が下される。
男達はごろつき風でいかにも物騒な雰囲気ではあったが、リーダー格の男を中心にしっかりと統率されていた。
「二人は俺と一緒に玄関口からだ。残り二人は裏口を見つけて侵入しろ!」
「へい!」
「女一人さらうくらい余裕でさぁ!」
「なんでも議員の愛人らしいじゃねぇか。ひん剥いて少し楽しんでから帰りてぇな」
下卑た笑いを交わす部下にリーダーの激が飛ぶ。
「てめぇら、依頼内容が頭に入ってねぇのか? 目標は依頼主のお気に入りだ。女が欲しいなら分け前で自分で買いな」
ガチャリ、ガチャリ……
辺りを探るようにして、ガラス片を踏み砕く音が聞こえる。
「血の跡はないな……」
「寝室のほうか?」
「オメェは女の寝床に行きたいだけだろうが! 真面目に探せ!」
中庭に屹立するコラムの影に隠れたパティアは、侵入してきた男達の下世話な会話を耳にする。
ビクリと怖気が走るが、ここは踏ん張りどころである。
連中に捕まった日にはどんな目に遭わされる事か……想像すらしたくない。
慌てず、静かに、連中に見つからないよう……でも急いで裏口から脱出するのよ。
物音を立てないよう、そろりと足を動かそうとした瞬間、コラムの上の花台にかけていた手に力が入りすぎたのだろう。
パティアは花台が柱に固定されていると思っていたが、実際は上に設置されているだけだったのだ。
白い陶製の花台が、まるでスローモーションのようにゆっくりと地面に落下する様をパティアは呆然と見つめるしかなかった。
毎週、月・水・金の週3回17時30分投稿。
次回は12月26日(金曜)です。
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