9 聖女セイナの腹の底(1)
フリートが去って5日ほどが経った。
ここ数日を思い出して、セイナ・フォン・クロイベリーは聖女にあるまじき暗黒面に呑まれていた。
(もういっそ殺しちまえよ。あのクズ勇者ァ)
内なるもう一人の自分がそうささやく。
思わず、うんと頷きそうになり、セイナはぶるぶると頭を振った。
ゴブリンの襲撃を辛くも脱した勇者パーティーは、その後、マルベイクという町の高級宿屋に身を寄せていた。
そして、それ以来、一歩も宿の外に出ていない。
勇者ユークは最上級の一室に閉じこもり、窓もカーテンも閉ざして、布団の中でガタガタと震える日々を過ごしている。
ゴブリンに腕をへし折られたことがよほどショックだったらしい。
当日のうちにセイナの治癒魔法で骨折は癒えた。
だが、心には深い傷が残っているらしく、ユークはひどい夜泣きを繰り返していた。
おまけに、時折、癇癪を起しては物を投げ、狂ったように聖剣を振り回す。
すでに鏡などは3枚も割られ、カーテンやシーツもずたずたに引き裂かれてしまっていた。
部屋の掃除に入った使用人があわや斬り殺されそうになったこともある。
その都度、頭を下げて回るハメになったのは、誰あろうセイナであった。
ここまでの旅路、ユークはフリートの類まれなる才能によって手厚く庇護されていた。
身体能力を知らぬ間に強化され、飛んでくる矢を弾いてもらい、見せ場を譲られ、些細なことでも針小棒大で褒めそやされる。
特大のゲタを履かされ続けた馬鹿は今、等身大の自分と否応なく向き合うこととなり、そして、荒れに荒れているのだ。
世間が言うような百戦錬磨の英雄『勇者』ユークなど最初から存在しない。
すべては、まやかし。
自分の実力がゴブリンにも劣るという現実を、果たして、ユークは受け止めきれるのだろうか。
受け止めてもらわなければ困る。
部屋の中で奇声を轟かせながら暴れ狂うユークの相手をするのは、もうこりごりだった。
「はあ……」
セイナは積もり積もった心労をため息にして吐き出した。
(あんな奴見捨ててよォ、フリート様のところに行こうぜェ? マイヤがいるじゃねえか。あいつに全部押し付けてよォ)
「ダメです。そんなひどいこと」
セイナは大きく張り出した自分の胸を叱りつけた。
この胸の中、そのさらに深い腹の底には、もう一人のセイナが住んでいる。
幼少の頃より、一切の穢れさえも許されない厳格な聖女修行を受けて育った彼女は、自らの身のうちに潜む悪心を追い出そうと切に努めた。
その結果、ぱっくりと人格の片側が割れて、内なるもう一人の自分が生まれたのだった。
もう一人のセイナは邪悪にして狡猾、欲深く酷薄で、まるで絵本に出てくる悪魔のようだった。
セイナは邪悪な片割れを「ジャアナ」と呼んでいた。
邪悪なセイナだから、ジャアナだった。
誰に聞かせる名前でもないので、安直なのは気にもとめなかった。
(おいよォ、毒盛っちまえよ。紅茶を差し入れるのさ。でも、アツアツの紅茶を頭からぶっかけてやるのも愉快だなァ)
どこまでも真っ直ぐに黒い感情をぶつけてくるジャアナが、いっそまぶしくもあった。
もしジャアナの言う通りにしたら、どうなるだろう。
気づけば、ティーポットを手に取っていた。
フリートが魔法を施した手製の品であり、魔力を注ぎ込むだけで沸騰した湯を作り出す魔道具だった。
ボコボコと激しい音を立て、高温の蒸気を噴き上げるティーポットが、まるで悪魔が与えたもうた呪具のように思えてきた。
これを頭から浴びせかけた日には積年の恨みも秋の空のように晴れ渡るに違いなかった。
(おい、てめえ! 何やってんだァ! この馬鹿セイナ!)
ジャアナが慌てた様子で喝破した。
(フリート様が作ってくださったありがてェ魔道具を犯行に使うなんて信じらんねえぜ。てめェ、最低だなァ)
そう言われて、ハッとした。
自分がしようとしていたことの恐ろしさで手が震えた。
「ごめんなさい。わたくし、だいぶ疲れているみたいですわ。こんなこと二度としませんから」
セイナは猛省した。
よもや、心に巣食う魔の声に諭されようとは。
いささか修行が足りないようであった。
(しねえだとォ? はァ? なんでそうなるんだよ。やれよオラ。宿の主人から普通のポットを借りてくりゃいいじゃねえか。馬鹿だなァ)
「……ぇ?」
ジャアナはあくまでも犯行に及ぶ気満々らしい。
ただ、フリート謹製のティーポットを使ってほしくないだけのことだった。
セイナとジャアナ。
光と闇のごとく相反する二人だが、フリートに惹かれているのはどうやら同じらしかった。
そこは、片割れだからだろう。
ガチャリとドアが開く。
二人部屋のもう一人の主、弓聖マイヤが戻ってきた。
マイヤもまたユークに振り回されていた。
あれが食べたい、これが欲しい、それは嫌だと駄々をこねられ、東奔西走、パシりの真似事をさせられていた。
日に日に乱れていく髪が苦労の度合いを物語っている。
「おかえりなさい、マイヤ様」
「あー、ただいまぁ……。セイナ、ユークの奴がようやく部屋から出る気になったわ」
それが朗報ではないことは、マイヤの仏頂面を見れば明らかだった。
トラブルメーカーが元気になったわけである。
それは、トラブルの生産能力が向上したことを意味していた。
部屋の一室ですんでいた問題が、これから町へと波及していくのだ。
そして、それを止める方法は存在しない。
(あるじゃねえか、ひとつだけよォ)
心のすべてを見透かしたうえで、ジャアナは言った。
(殺っちまうのさァ)
ダメです、と強く拒絶したが、心の声は止まらない。
(無能な味方は賢い敵よりたちが悪いぜェ。きっとあいつァ、いずれ多くの人を不幸にする。その前に、な?)
黒いささやきを無視して、セイナはマイヤとともに部屋を出た。
最上階に上がり、上等な樫の木の扉を押し開ける。
「ユーク殿下、元気になられたようでよかったですわ」
セイナは女神の微笑みをたたえた。
しかし、心の中では誰のものとも知れない大きな舌打ちが響いていた。
もういっそ永遠にベッドのシミをやっていてほしかった。
ふと、そう思った。
これは、どっちの想いなのだろう。
光と闇の混じり合った部分が、セイナには、たまらなく恐ろしかった。




