それぞれの視線!
遠く、人気のない屋上の縁に腰を下ろし、ハクアは足をぶらぶらと揺らしていた。
夜風がそっと髪を撫で、彼の白い頬を撫でてゆく。
下の景色――晴臣を強く抱きしめる真琴の姿、そしてそれを遠巻きに見つめていた姫野の消える様子――を、ハクアはじっと見下ろしていた。
その瞳はどこか遠くを見ているようで、それでいて、誰よりも近くにいるような不思議な光をたたえていた。
「ふーん……」
小さなため息とともに、ハクアは唇を尖らせる。
まるでおもちゃを取り上げられた子どものように、つまらなそうに、ふくれっ面を作る。
「せっかくお兄ちゃんと、ずーっと遊べると思ったのに……」
その声は誰に聞かせるわけでもなく、風に混じって夜空へ溶けていった。
しばしの沈黙のあと、ハクアはふっと笑った。
「ま、今のままでもいっか……まだ、ね」
どこか含みを持たせたその言葉を最後に、ハクアはすっと立ち上がる。
そして、吹き抜けた風にそのまま身を委ねるようにして、ふわり――と。
影のように揺らめき、音もなく、夜の帳に溶けるようにして、ハクアの姿は掻き消えた。
まるで最初から、そこにいなかったかのように。
* * *
ビルの屋上、換気設備の陰に身を潜めながら、幸太郎は双眼鏡越しに下界の出来事を逐一観察していた。
真琴と晴臣、そして離れた場所でそれを見守って消えた姫野、さらに最後に現れて消えていったハクア
どれも常識ではありえない超常の存在たち。
幸太郎は冷や汗を額に浮かべながら、小さなノートパソコンに向かってキーボードを叩き続けていた。
「やばいって……神格、神格、また神格……。数、増えすぎ。バランス崩壊もいいとこだって……」
ぶつぶつと独り言を漏らしながら、彼は画面に高速で打ち込む。
「あの虫の正体も未確定のまま……対応プロトコルがまったく間に合ってない……。はぁ……」
項垂れるようにため息をつきながら、手元の資料を確認しつつつぶやいた。
「せめてミイナがいてくれたら、多少は楽になるのに……」
その言葉に、唐突に小さな声が返ってくる。
「ミイナって、甲殻類のこと?」
背筋に冷たいものが走り、幸太郎は即座に手元の携帯型武器を抜いて後方へ振り向く。
そこには、さっき消えたはずのハクアが、いつの間にか彼のノートパソコンをいじっていた。
カチカチと無邪気にキーボードを叩きながら、首だけこちらへ傾けて、無邪気に笑っている。
「うわ、パスワード弱っ。一発だったよ?」
「お、お前……!」
幸太郎の声は震えながらも警戒を滲ませるが、ハクアはそれをまるで気にも留めず、くるりと椅子を回してこちらを向く。
「ふふ、君のこと気になるなぁ」
不敵な笑みを浮かべるその姿は、まるで彼自身が人間の言葉を遊び道具にしているかのようだった――。
* * *
深夜、機密保護された防音の執務室にただ一人。
カミエは重厚な机の前でモニターの光に照らされながら、腕を組み、届いたばかりの報告メールを無言で読み進めていた。
差出人は幸太郎。
件名には【緊急・汐見市状況報告】とある。
モニターには膨大なログと映像、断片的なオーディオ記録、さらに市内外から集めた情報が幾重にも重なっていた。
夜間にのみ活性化する“無自覚の暴動”
隕石の飛来地点近くの住民が汐見市に集中している
精霊的存在による毎夜の武装解除
晴臣が“緑の光”を発現。
虫のような存在による意識操作が疑われる。ミイナの旧報告と一致
市民の多くは現状に気づいていない。精神干渉の兆候あり
スクロールする指が止まり、カミエの目が細くなる。
「虫、そして“緑の光”……」
読み終えた瞬間、カミエは背もたれに深くもたれ、眉間を指で押さえた。
報告の一つひとつが常識外れで、どれか一つだけでも組織が動くレベルだ。それが複数、同時に、汐見市で起きている。
机に手を置くと、迷うように、だが確実に指先が組織の通信ラインを開く。
「…虫型意識干渉体の捕獲を、可能なら“それ”を解剖したい。それから、ミイナの“隔離強化”を急務に。」
通信を終えたあと、少しだけ沈黙の後、カミエは静かに呟いた。
「…ホント、こうしてみるとウブな2人」
画面の端で、真琴と晴臣の映像が一時停止していた。
ぎこちなく手を重ねる二人。
まるで希望にも絶望にも見えた。




