ガラス越しの視線!
ハクアが晴臣に無邪気に飛びついた瞬間、
まるで魔法のように――それまで晴臣を取り囲んでいた“人々”が、ざわりと距離を取った。
包丁を持った男が数歩後退し、鋏を持つ女が視線を逸らし、
「よこせ……」と繰り返していた呻き声が、次第に掠れ、静まり始める。
その異様な変化に、晴臣は目を細めながら警戒を強める。
同時に、ハクアをそっと守るように自分の腕の中へと引き寄せた。
「お兄ちゃん大胆〜!」
首元に顔をうずめながら、ハクアは楽しげに笑う。
細い腕がするりと、晴臣の首に絡みつく。まるで子供のような甘え方――しかし違和感があった。
「……どうしてここに?」
周囲に目を配りながら問いかける。
黄色いパーカーのフードがわずかに揺れ、ハクアはくすっと笑う。
「だってお兄ちゃん、優しいでしょ? だからみんな甘えたいの。ずるいよ、独り占めするなんて」
「……それ、答えになってな」
そう言いかけた次の瞬間――
ギリッ……!
首に回されたハクアの腕が、強く締まる。
「っぐ……!」
晴臣はすぐに異変を察してもがいた。
だが、その細く華奢に見えた腕は、信じられないほどの力で彼の喉を締め付けていた。
ハクアはただ笑っていた。
晴臣は腕を剥がそうと必死に手を伸ばすが、体が段々と言うことをきかなくなる。
意識が遠のき、視界の縁が暗く染まっていく。
(ダメだ……このままじゃ――)
最後に見えたのは、ハクアの瞳。
夜空の星のように輝くそれが、どこか悲しそうに揺れていた。
そして、晴臣の身体は、力なく崩れ落ちた――。
「ボクらに優しくしたらダメだよ。どんなにキミがユメのお気に入りでもね?」
* * *
柔らかな布の感触が背中を支え、上から差し込む仄白い光が、閉じていたまぶたの裏を照らす。
晴臣は微かに眉をひそめ、目を開けた。
――そこは見知らぬ天井だった。
西洋風の天井飾り。漂う甘い香り。重厚な布のカーテンが風もないのに揺れていた。
体を起こそうとすると、微かな鈍痛が右肩と首元に走る。
「おはよう、お兄ちゃん」
視線を横に向けると、ベッド脇の椅子に腰掛けたハクアが、まるで朝を迎えた花のように無邪気な笑顔を浮かべていた。
「よく眠れた?」
いつものような明るい声。しかし、その瞳は晴臣の反応をじっと観察するように見つめていた。
「ここは……?」
「“ボクの場所”だよ。お兄ちゃん、昨日すごくボロボロだったからさ。ちゃんと“治療”してあげたんだよ」
ハクアはそう言いながら、晴臣の顔を覗き込むように身を乗り出す。
(……治療。右耳か)
晴臣は右耳に手を添えた。破れたはずの皮膚が、ぬるりと新しい肌のように再生している。血も、痛みももうなかった。
「ありがとう、助かったよ」
感謝を伝えると、ハクアはにこりと笑った。が、その表情のまま首をかしげるように言った。
「でも、お兄ちゃん……昨日はずいぶん好戦的だったね?」
「……え?」
「ユメに言われたの? 戦えって。」
無邪気な口調の中に、針のような問いが混ざっていた。
「いや……そんなことは――」
晴臣はそこで言葉を止めた。
ユメは確かに、「このうるさいの止めて。安眠できないの」と言った。だが“戦え”などとは言っていない。
(……俺は最初から、戦う気だった。原因を確かめる前から、攻撃して制圧することしか頭になかった……)
自分の内側に巣食っていた“好戦的な思考”に、晴臣は気づく。
あの夜、誰かに操られていたのは――本当に市民たちだけだったのか?
無意識のうちに、自分の心にも“何か”が入り込んでいたのではないか。
晴臣の目が曇り、深い思索へと沈むと、ハクアは楽しげに笑った。
「お兄ちゃんってば、ユメのこと大好きなんだね。あんな言葉だけで、あんなに頑張っちゃって。かわいいなぁ」
その声は、どこか嫉妬にも似た感情を隠していた。
そしてハクアは、まるで思い出したかのように手を叩くと、ベッド脇の床に置かれた布をめくり、奇妙な形の物体を取り出した。
それは大人の胴ほどもあるガラスの虫かごだった。
中で、ぐにゃりとした黒紫の虫のようなものが、ゆっくりと脚を這わせていた。異様に多い関節、粘膜のようにぬめる翅、3つの口。
かすかに“鳴く”ような振動音が、ガラス越しに耳を打つ。
晴臣は反射的に身を引き、警戒を強めた。
「……なんだ、それ」
ハクアは虫かごを両腕で抱え、まるで子猫でも見せるかのように嬉しそうに言った。
「耳の治療はついで。本命はこっちだよ」
そう言って、ハクアは悪びれもなく笑う。
「これ、お兄ちゃんの頭の中にいたの」
「……は?」
晴臣は凍りついた。
頭の中に――? どうやって? なぜ?
「なんてことないよ。お兄ちゃんを、みんなの前に引っ張り出そうとしてたから、ボクが止めたの。偉いでしょ?」
ハクアはムフフと笑い、かごの虫を指でコンコンとつつく。虫は僅かに跳ね、音のような振動を出した。
晴臣は思わず額を押さえる。めまいがする。
こんな生物が、自分の頭に? どうやって? どういう構造で……?
「……頭に“いた”って、脳や頭蓋より大きいじゃないか。どうやって――」
「ううん、これはね、大きさを変えられるんだよ。すごいでしょ?」
ハクアは無邪気にそう言う。
「人を操る時は小さくなって、神経の隙間に入っていくの。ねえ、虫が目の裏から見てるって想像すると、ゾクゾクしない?」
晴臣は思わず吐き気をこらえる。喉が焼けつくように乾いていた。
「でもお兄ちゃんは特別だからね。ユメのお気に入りだから、ちゃんと“本体”が入ってたんだよ。普通の人は影だけで済むけど」
晴臣はもう言葉を失っていた。
自分の行動、感情、判断。それらのいくつかがこの“虫”によって引き出されていたかもしれない。
戦いの意思、恐怖の鈍さ、好戦性、あの夜の異常な集中――それらはすべて、こいつの仕業なのか?
「……いつから、いたんだ」
晴臣がようやく絞り出した声に、ハクアは首をコテンと傾けて、いたずらを見つけた子供のように笑った。
「んー……心当たり、あるんじゃない? 隕石とか」
脳裏に走る映像。
――空から落ちてきた、隕石。
――その翌朝、誰も隕石のことを話題にしなかった、あの不自然な朝。
「あれはこれの船みたいなものだよ」
ハクアは、ガラスの虫かごを撫でながら、にこにこし続けていた。




