混迷の街!
夕焼けの朱が街を染め、まるで血の色のように空を染めていた。
晴臣は舗装の剥げかけた道を一人、ゆっくりと歩いていた。
背後では扉が閉まり、カーテンが引かれ、家々が息を潜めるように灯りを灯していく。
(あと少し……)
目の前――視界の奥、建物と建物の隙間に沈みゆく太陽の輪郭が、最後の一条の光を残していた。
そして――その光が完全に消えた瞬間。
空気が変わった。音が消えた。
風も虫の声も、人の気配も一切ない。
まるで世界が息を止めたかのような、濃密な静寂。
晴臣が立ち止まる。
「……よこせ」
最初に聞こえたのは、左斜め後方からのかすれた声だった。
「よこせ……」
今度は右から。
「よこせ……よこせ……」
今度は前方からも、低くうわごとのような声が重なる。
晴臣の視界に、ぼんやりと浮かぶ人影が徐々に集まり出す。
懐中電灯のような光源もない、暗がりの中――
彼らは包丁、ハサミ、鎌、スパナ、木の棒――ありとあらゆる“身近な凶器”を手にしていた。
その数、十人、二十人……もっといる。
一歩一歩と近づいてくる。
口々に「よこせ」とつぶやきながら、焦点の合わない目で晴臣を見つめていた。
(予想通り、来たか)
晴臣は一切動じない。
逆に、深く息を吸い、静かに吐く。
そして右足を半歩引き、左手を下段、右手を中段に構える。
夜の闇に溶けるように、彼のシルエットが地面に馴染んだ。
“彼ら”が誰であろうと、何に操られていようと――晴臣はもう、戦う覚悟を決めていた。
最初の一人が攻撃圏内に踏み込んだ、まさにその瞬間だった。
――ゾクリ、と全身に走る嫌な感覚。
直感に従い、晴臣は首を傾け、身体をひねる。
「ッ……!」
右耳のすぐ脇で何かが弾けた。衝撃と熱が走り、耳の外側が削ぎ落ちたような痛みに顔が歪む。
次の瞬間――
パンッ!
鋭く乾いた発砲音が、周囲の空気を裂くように響き渡った。
だが晴臣は動きを止めない。首を伝い、右肩に血が滴ろうが構うものか。
目の前の一人――農作業用の鋭利な鎌を持った男の手首を刈り取るように叩き、その隙に武器を奪う。
その鎌の柄を即座に地面に叩きつけてへし折り、用意していた結束バンドを取り出し、両手の親指を巻き込むようにきつく縛った。
「っ……ぐぅ……!」
相手が呻くが、晴臣は情けなど一切かけない。
親指を縛れば多少手が使えない。 それだけで制圧には十分だった。
だが、油断はできない。
晴臣は即座に身を沈め、転がるように一歩引く。
――パンッ!
再び発砲音。今度は左側の地面に乾いた衝撃が走り、土がはねた。
高所か、あるいは隠れた建物の影からか。
だがこの発砲の規則性――
(猟師…汐見市に猟銃免許を持っている猟師はいない、他の所からも集まってる!)
晴臣の目に緊張が走る。
「よこせ……よこせぇ……」
呻きながら襲いかかってくる人影は、皆一様に焦点の合わない瞳をしていた。
それぞれが包丁、ハンマー、鉄パイプといった即席の武器を手にしている。
しかし晴臣は冷静だった。
迫る者の手を受け流し、武器を弾き飛ばし、空いた隙にバンドで親指を括る――。
まるで流れるような動きで、次々と制圧していく。
だが、その間にも発砲音は続いていた。
その瞬間、晴臣の視線がビルの屋上へ向く。
小さな閃光――そして、黒いシルエット。
(……いた)
群衆の背後から、一切の迷いなくこちらに向けて引き金を引き続けていた。
晴臣の背中に冷たい汗が伝う。
(この状況で、“敵”が複数いるってのかよ……)
それでも、彼は一歩も退かない。
暗がりの中、影を裂いて、次の襲撃者に向かって踏み込む。
* * *
次々と迫る人影。手に包丁、鎌、鋏。
まるで悪夢のような静寂と呟きが、街の夜に染みわたる。
晴臣は冷静に、だが確実に対応していく。
武器を弾き、結束バンドで親指を縛り、次々に動きを封じていく。
だが、いかに晴臣でも数が多すぎた。
正確な動きも疲労と出血で鈍り始め、気がつけば三方を囲まれていた。
パンッ!
また発砲音。乾いた音が響き、アスファルトに新たな火花が散る。
直感で身を伏せた瞬間、背後の地面に弾痕が走った。
(このままじゃ、ジリ貧だ……!)
その瞬間――真正面に、ぱっと空間が揺らいだ。
「遊びに来たよ! お兄ちゃん!」
無邪気な声。
夜の帳の中にそぐわない、ひときわ鮮やかな“黄色”が、目に飛び込んでくる。
黄色いパーカーを羽織った美少年。
ハクアだった。
彼はまるで公園で遊ぶように、笑みを浮かべながら晴臣に向かって駆け寄ってくる。
「ハ、ハクア……?」
あまりにも唐突で、現実味がなさすぎて、晴臣は言葉を詰まらせた。
そして――
パンッ!!
今度は真横。
視界の隅で火花とともに“弾丸”が飛び出したのが見えた。
走馬灯のようにスローモーションで流れる光景。
ハクアが、笑顔のまま晴臣に飛びつこうと腕を広げていた。
そして、その胸元へ――弾丸が一直線に向かっていた。
咄嗟に動こうとしたその時。
「邪魔だなぁ、これ。」
ハクアが、ふわりと息を吹きかけた。
ただ、それだけだった。
すると――
弾丸は、突風に煽られた紙くずのように軌道を逸れ、
きんっ、と乾いた音を立てながら遠くの電柱に当たり、跳ね返った。
晴臣は目を見開いたまま、言葉を失った。
「ふふっ、お兄ちゃんってば、今日も血だらけだねぇ」
ハクアはまるでそんなことは何もなかったかのように、ぴょんと晴臣に抱きついた。
その背後――
発砲していた猟師は明らかに動揺し、銃を構え直そうとするがハクアの視線を受けて、息を呑むように足を止めた。
静寂の中に、風だけが吹いていた。




