表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
汐見市生活課!  作者: ケン3
汐見市動乱編
87/96

作戦準備!

作業が終わり、畑には再び静けさが戻っていた。

土を洗い流した手をタオルで拭きながら、晴臣はまだ背後に注意を向けていた。

他の老人たちは「またな〜」と手を振りながら三々五々帰っていくが、あの老婆だけは立ち去らず、晴臣の傍に残っていた。

 

「晴臣くん……ちょっと、ええかな?」

 

老婆は穏やかな声音でそう言った。

声にも目にも、あの夜の狂気は微塵も感じられない。

 

しかし――晴臣は、構えを解かず慎重に返す。

 

「ええ、もちろん。生活課ですから、相談事があればお話伺いますよ」

 

老婆はにこりと笑い、腰に手を当てて言葉を続けた。

 

「どうにも、夜の記憶がね、ところどころ抜けとるんよ」

「抜けてる、ですか?」

 

「うん。昨日の夜、気づいたら朝になっとって体がものすごく痛いの」

「どこか怪我は? 医者には……」

 

「ううん、怪我じゃないの。なんちゅうか……全身が筋肉痛みたいな? でも、何をしたか全く思い出せん。夢を見たような気はするけど、それも覚えてないんよ」

 

老婆は眉をひそめ、不安げな表情を浮かべた。

 

その言葉に、晴臣の胸に冷たいものが走る。

昨夜のことを覚えていない――

つまり、ピッチフォークを振り回して襲ってきたあの行動自体、彼女の中には存在していないのだ。

 

(記憶が無い……? まさか――)

 

誰かに操られているのか。あるいは、夜にだけ何かに乗っ取られているのか。

意識を保ったままの晴臣だったからこそ、あの異常に気づけた。

だが、当人にはその自覚が全く無い。

 

「……わかりました。生活課の方でも調査してみます。無理はなさらずに、なるべく夜は……外に出ないようにしてください」

 

「ありがとうよぉ。ほんと、頼りになるねぇ。お母さんがね、晴臣くんみたいな子と――」

 

「それはまた今度聞かせてくださいね」

老婆の雑談をやんわりとかわしながら、晴臣は一礼してその場を離れた。

 

(もし彼女だけじゃないなら……この街には、昨夜の“あれ”を知らないまま、普段どおり生活してる人間が他にも――)

 

思考は止まらない。

それでも、晴臣の足は静かに生活課の建物へと向かっていた。

 

胸の中に広がるのは、不安というよりも――

見えざるものの気配に、触れてしまったという疑念だった。

 

* * *

 

生活課の事務所はいつも通り、涼やかな風鈴の音と紙の擦れる音が交じり合う、のどかな空気に包まれていた。

晴臣はあれから1週間ほど過ぎても、心のどこかに残るざわつきを拭いきれず、デスクにいてもどこか上の空だった。

 

そんな折、カウンターに相談者がぽつぽつとやってきた。

一人目は、近所に住む中年の男性。

用件は「最近、夜になると無性に外に出たくなって困っている」というものだった。

 

「寝ててもね、気づいたら玄関の前に立ってたりするんだよ。夢遊病ってやつかねぇ? でも、昔はこんなこと一度もなかったんだ」

 

そう語る男性の目は、疲労と困惑に曇っていた。

晴臣は相槌を打ちながら、次の相談者を目で追う。

 

続いて現れたのは、老婦人とその娘。

「母が夜中に急に起き出して、包丁を持って立っていたんです。でも朝になると、まったく覚えてないんです……」

娘の語る内容に、晴臣は内心の警戒を強めた。

 

――夜の間に、意識を保てずに何かに操られている。

自分が体験したあの夜の恐怖と、老婆の記憶の欠落。そして今、複数人から持ち込まれた“夜の不可解な行動”と“記憶の欠如”。

 

偶然ではない。

 

晴臣は心の中で、確信に変わった。

 

(これは……“現象”だ。しかも、街全体に及んでいる)

 

ふと、別の職員が晴臣の机に資料を置いていく。

内容は、最近報告された「夜間の転倒事故」や「家庭内での物音」「行方不明と見なされかけた一時的な所在不明」などのケースをまとめたものだった。

 

それらは全て、夜に起きて朝には収束している。

まるで、夜の間だけ別の“力”が街を支配しているかのように。

 

「……やっぱり、何かが夜に起きている」

 

晴臣は小さく呟いた。

声に出したことで、自分自身の中でそれはもう疑念ではなくなっていた。

 

椅子に深く腰を沈め、目を閉じる。

脳裏には、ユメが眠る空間に現れた隕石と、「夜に出歩かないこと」とだけ記された真琴の置き手紙。

 

(あの“隕石”……あれも関係しているのか?)

 

ただの比喩ではない。

それは、夜に“降ってくるもの”、あるいは“接近してくる何か”の象徴なのかもしれない。

 

晴臣は意を決して立ち上がった。

 

「……今夜、確かめる」

 

目に見えぬ脅威に、真正面から対峙する覚悟が、彼の中に芽生えていた。

 

* * *

 

夕暮れが街を茜に染める頃、生活課の一角、誰もいない器具置き場の裏で晴臣は静かに身体を動かしていた。

腕を振る。膝を屈伸する。背筋を伸ばし、深く息を吐く。

まるでこれから始まる“夜”に備えて、ひとり稽古をつける武道家のように、淡々と、しかしどこか切実に。

 

「……」

 

袖を捲り、左腕を見る。包帯はもう取れていた。

あれほど深々と裂けていた傷跡は、皮膚の内側にかすかな線を残す程度でほとんど塞がっていた。

 

(真琴が治してくれたのか、それともユメの……?)

 

分からない。ただ、確かなのは「自分はもう動ける」ということだけだった。

 

――ただし、“何と戦うのか”を、理解していないまま。

 

突き出す拳。跳ねる脚。軽く走る。

呼吸は乱れない。身体も軽い。だが、心の奥にはずっと重たいものが沈んでいた。

 

(操られている人間を、本当に“制圧”できるのか)

 

思い出すのは、あの夜――向かってきた老婆の姿。

目は虚ろで、動きに迷いがなかった。まるで何かの操り人形のようだった。

 

(もし相手が“人間”で、それを倒してしまったら……)

 

正当防衛だとしても、晴臣の良心はそれを許さないだろう。

だが、逆に迷って躊躇すれば、今度は自分が倒れる番だ。

 

(そもそも、あれは“人間”だったのか?)

 

包丁を振りかぶる老婆に、怒りも恐怖もなかった。

ただ、無表情に“動かされていた”。

 

「……操られているって、どういうことだ?」

 

自問する。

“物理的”に脳や神経を操られているのか、それとも“怪異”のような、非物質的な存在が人の意思を乗っ取っているのか。

 

晴臣は両拳を握る。

手のひらにじわりと汗が滲む。

もし前者なら、神経を遮断したり気絶させれば止まるかもしれない。

だが後者――幽霊や“何か”が中にいる場合は、話が変わる。

 

「殴っていいのかも、倒していいのかも、わからない」

 

それでも、やるしかない。

逃げていたら誰も助けられない。

ましてや、あの老婆も、昨日の“自分”も、誰かが止めなければ、取り返しがつかなくなる。

 

晴臣は深く息を吸った。

 

「やるしかない。……だから、動け、自分」

 

静かに夜が迫ってくる。

空の端がゆっくりと紫に染まり、街が息を潜め始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ