作戦準備!
作業が終わり、畑には再び静けさが戻っていた。
土を洗い流した手をタオルで拭きながら、晴臣はまだ背後に注意を向けていた。
他の老人たちは「またな〜」と手を振りながら三々五々帰っていくが、あの老婆だけは立ち去らず、晴臣の傍に残っていた。
「晴臣くん……ちょっと、ええかな?」
老婆は穏やかな声音でそう言った。
声にも目にも、あの夜の狂気は微塵も感じられない。
しかし――晴臣は、構えを解かず慎重に返す。
「ええ、もちろん。生活課ですから、相談事があればお話伺いますよ」
老婆はにこりと笑い、腰に手を当てて言葉を続けた。
「どうにも、夜の記憶がね、ところどころ抜けとるんよ」
「抜けてる、ですか?」
「うん。昨日の夜、気づいたら朝になっとって体がものすごく痛いの」
「どこか怪我は? 医者には……」
「ううん、怪我じゃないの。なんちゅうか……全身が筋肉痛みたいな? でも、何をしたか全く思い出せん。夢を見たような気はするけど、それも覚えてないんよ」
老婆は眉をひそめ、不安げな表情を浮かべた。
その言葉に、晴臣の胸に冷たいものが走る。
昨夜のことを覚えていない――
つまり、ピッチフォークを振り回して襲ってきたあの行動自体、彼女の中には存在していないのだ。
(記憶が無い……? まさか――)
誰かに操られているのか。あるいは、夜にだけ何かに乗っ取られているのか。
意識を保ったままの晴臣だったからこそ、あの異常に気づけた。
だが、当人にはその自覚が全く無い。
「……わかりました。生活課の方でも調査してみます。無理はなさらずに、なるべく夜は……外に出ないようにしてください」
「ありがとうよぉ。ほんと、頼りになるねぇ。お母さんがね、晴臣くんみたいな子と――」
「それはまた今度聞かせてくださいね」
老婆の雑談をやんわりとかわしながら、晴臣は一礼してその場を離れた。
(もし彼女だけじゃないなら……この街には、昨夜の“あれ”を知らないまま、普段どおり生活してる人間が他にも――)
思考は止まらない。
それでも、晴臣の足は静かに生活課の建物へと向かっていた。
胸の中に広がるのは、不安というよりも――
見えざるものの気配に、触れてしまったという疑念だった。
* * *
生活課の事務所はいつも通り、涼やかな風鈴の音と紙の擦れる音が交じり合う、のどかな空気に包まれていた。
晴臣はあれから1週間ほど過ぎても、心のどこかに残るざわつきを拭いきれず、デスクにいてもどこか上の空だった。
そんな折、カウンターに相談者がぽつぽつとやってきた。
一人目は、近所に住む中年の男性。
用件は「最近、夜になると無性に外に出たくなって困っている」というものだった。
「寝ててもね、気づいたら玄関の前に立ってたりするんだよ。夢遊病ってやつかねぇ? でも、昔はこんなこと一度もなかったんだ」
そう語る男性の目は、疲労と困惑に曇っていた。
晴臣は相槌を打ちながら、次の相談者を目で追う。
続いて現れたのは、老婦人とその娘。
「母が夜中に急に起き出して、包丁を持って立っていたんです。でも朝になると、まったく覚えてないんです……」
娘の語る内容に、晴臣は内心の警戒を強めた。
――夜の間に、意識を保てずに何かに操られている。
自分が体験したあの夜の恐怖と、老婆の記憶の欠落。そして今、複数人から持ち込まれた“夜の不可解な行動”と“記憶の欠如”。
偶然ではない。
晴臣は心の中で、確信に変わった。
(これは……“現象”だ。しかも、街全体に及んでいる)
ふと、別の職員が晴臣の机に資料を置いていく。
内容は、最近報告された「夜間の転倒事故」や「家庭内での物音」「行方不明と見なされかけた一時的な所在不明」などのケースをまとめたものだった。
それらは全て、夜に起きて朝には収束している。
まるで、夜の間だけ別の“力”が街を支配しているかのように。
「……やっぱり、何かが夜に起きている」
晴臣は小さく呟いた。
声に出したことで、自分自身の中でそれはもう疑念ではなくなっていた。
椅子に深く腰を沈め、目を閉じる。
脳裏には、ユメが眠る空間に現れた隕石と、「夜に出歩かないこと」とだけ記された真琴の置き手紙。
(あの“隕石”……あれも関係しているのか?)
ただの比喩ではない。
それは、夜に“降ってくるもの”、あるいは“接近してくる何か”の象徴なのかもしれない。
晴臣は意を決して立ち上がった。
「……今夜、確かめる」
目に見えぬ脅威に、真正面から対峙する覚悟が、彼の中に芽生えていた。
* * *
夕暮れが街を茜に染める頃、生活課の一角、誰もいない器具置き場の裏で晴臣は静かに身体を動かしていた。
腕を振る。膝を屈伸する。背筋を伸ばし、深く息を吐く。
まるでこれから始まる“夜”に備えて、ひとり稽古をつける武道家のように、淡々と、しかしどこか切実に。
「……」
袖を捲り、左腕を見る。包帯はもう取れていた。
あれほど深々と裂けていた傷跡は、皮膚の内側にかすかな線を残す程度でほとんど塞がっていた。
(真琴が治してくれたのか、それともユメの……?)
分からない。ただ、確かなのは「自分はもう動ける」ということだけだった。
――ただし、“何と戦うのか”を、理解していないまま。
突き出す拳。跳ねる脚。軽く走る。
呼吸は乱れない。身体も軽い。だが、心の奥にはずっと重たいものが沈んでいた。
(操られている人間を、本当に“制圧”できるのか)
思い出すのは、あの夜――向かってきた老婆の姿。
目は虚ろで、動きに迷いがなかった。まるで何かの操り人形のようだった。
(もし相手が“人間”で、それを倒してしまったら……)
正当防衛だとしても、晴臣の良心はそれを許さないだろう。
だが、逆に迷って躊躇すれば、今度は自分が倒れる番だ。
(そもそも、あれは“人間”だったのか?)
包丁を振りかぶる老婆に、怒りも恐怖もなかった。
ただ、無表情に“動かされていた”。
「……操られているって、どういうことだ?」
自問する。
“物理的”に脳や神経を操られているのか、それとも“怪異”のような、非物質的な存在が人の意思を乗っ取っているのか。
晴臣は両拳を握る。
手のひらにじわりと汗が滲む。
もし前者なら、神経を遮断したり気絶させれば止まるかもしれない。
だが後者――幽霊や“何か”が中にいる場合は、話が変わる。
「殴っていいのかも、倒していいのかも、わからない」
それでも、やるしかない。
逃げていたら誰も助けられない。
ましてや、あの老婆も、昨日の“自分”も、誰かが止めなければ、取り返しがつかなくなる。
晴臣は深く息を吸った。
「やるしかない。……だから、動け、自分」
静かに夜が迫ってくる。
空の端がゆっくりと紫に染まり、街が息を潜め始めていた。




