お願いごと!
どこまでも広がる、果てのない空間だった。
上下も、左右も、重力すらも感じない――まるで宇宙の中心に佇んでいるかのような感覚。
晴臣の身体はそこに在りながら、意識だけが漂っているようだった。
そしてその中心で、彼は見つけた。
銀色の星屑が舞い散る虚空のなか、ユメがいた。
まどろむように目を閉じ、深く穏やかな呼吸を繰り返している。
その姿は、まるで重力からも運命からも解き放たれた、無垢なる者の寝顔だった。
……しかし。
ユメの眠る空間の遠くから、小さな光点が浮かび上がる。
いや、それは光ではない。
不規則に揺らめき、尾を引きながらユメに向かって飛来する――隕石だった。
けれどユメは目を覚まさない。
それでも、まるで本能でかわすように、ふわりと身をよじって避ける。
一度。
二度。
三度。
隕石は通り過ぎ、ユメには当たらない。
けれど……それで終わりではなかった。
飛来してきた隕石は進路を変え、まるで引力に引き寄せられるようにユメの周囲を回り始める。
その数はひとつ、またひとつと増え続け、やがて無数の隕石がユメのまどろみの周囲を軌道上で泳ぐようになっていた。
彼女の眠りを乱すことなく、しかし確実に、彼女の空間を侵していく異物たち。
晴臣は何もできずに、それを見つめていた。
手を伸ばそうとしても、自分の腕すら霞のようにぼやけて届かない。
すると、ユメがふと、眉をひそめた。
眠りの中で、ほんのわずかに、鬱陶しげに顔をしかめる。
それは怒りでも悲しみでもなく、
ただ深い眠りを邪魔された者の、微かな不満の表情。
晴臣の胸の奥に、鋭い痛みが走った。
彼はただ、見ていることしかできなかった。
何もできない。
ただ、ユメの眠りが侵されていくのを――見届けることしか。
――ふわり、と。
まるで重力の存在を忘れたような動きで、誰かが隣に現れた。
音もなく、気配もなく、しかし確かに晴臣のすぐ隣にユメが立っていた。
彼女はさっきまで、あの隕石の渦の中心で眠っていたはずだった。
けれど今ここで、淡い光に縁取られるような薄衣のワンピース姿で、晴臣と並んで宙に浮かんでいた。
半分眠っているような、夢見心地の瞳。
まぶたは重たげに下がり、口元には眠気の残る柔らかい影がある。
「ねえ、ハルオミ……」
その声は、耳ではなく心に直接届くような囁きだった。
「あれ、止めてくれる……?」
ユメは晴臣の視線を追うように、指をすっと前に伸ばす。
そこには――先ほどまで彼女がいた場所。
いまもなお、無数の隕石が軌道を描きながらユメの不在の空間を取り囲み、泳ぎ回っていた。
「うるさくて……安眠できないの」
ぼやくような口調。
不機嫌というよりは、眠気を邪魔された子どものような、どこか甘えの滲んだ声。
「せっかく……ハルオミにタネをあげたのに……これじゃあ、芽も出ないよ……」
その小さな呟きに、晴臣の胸の奥が静かに波打つ。
“タネ”――ユメが言うそれがなんなのか、晴臣にはまだわからない。
けれどきっと、世界の理さえ曲げてしまうような、何か大きな意志の欠片。
「だから……お願い」
ユメがもう一度、晴臣の腕にそっと手を重ねてくる。
あたたかくも、儚い温もり。
「ハルオミが、なんとかして。」
眠たげな声。
けれど、その奥には確かな願いが宿っていた。
晴臣は――その言葉を、無視することなどできなかった。
宙に浮かぶ、やわらかな紫の世界の中。
晴臣はユメの言葉に問いを投げかけた。
「……ユメ、“タネ”って、何なんだ? あの緑の光と、関係があるのか?」
一瞬、ユメのまつげが静かに揺れる。
けれど彼女は何も答えず、ただ優しく微笑んだ。
そして――そっと晴臣の頭を抱き寄せる。
その腕の感触はあたたかく、柔らかく、
母が赤子をあやすような穏やかな動きで、彼の頭を撫でた。
「かわいいハルオミ――」
その声は、星々の光が奏でる子守唄のようだった。
「あなたは……私の星の光」
その瞬間――
ぱちり、と。
晴臣の瞳が開いた。
眩しさと共に視界が広がり、静寂が耳に戻る。
……天井。見慣れた部屋の灯り。
湿気を含んだ夏の空気と、微かな布団の匂い。
「……戻ってきた?」
晴臣はすぐに身を起こすが、混乱の渦は静かに彼を包んでいた。
夢だったのか、それとも――現実と地続きの何かだったのか。
時の流れが、まるで歪んでいたかのように思える。
だが、ふとテーブルに目をやると、そこに一枚の紙があった。
丁寧な字で書かれた、短いメッセージ。
⸻
『夜に出歩かないこと。それさえ守れば、普通に過ごせるよ。』
――真琴
⸻
晴臣はその文面をじっと見つめる。
あの真琴のことだ、冗談か本気か分かりにくいが――
今の状況では、冗談では済まされない。
深く、肺の奥まで息を吸ってから吐き出すと、晴臣は再び視線を置き手紙に戻す。
そして、小さく呟いた。
「“普通に”って、どんな日常だよ……」
部屋の外ではまだ、セミの鳴き声が変わらず響いていた。




