ユメで会おう!
真琴の手を握った瞬間だった。
晴臣の視界がすうっと暗くなっていく。まるで、深い水の底にゆっくりと沈んでいくような、そんな静かな感覚だった。
音も、光も、重力さえも遠ざかって――まるで夢の中に落ちていくように、晴臣は影へと飲み込まれた。
気づけば、足元が固い。目の前にあるのは――見覚えのある街並みだった。
“夢の街”
以前、あのユメという少女と出会った場所。
人も怪異も入り交じり、夜の中にひときわ鮮やかに灯りが揺れていた幻想の都市。
だが――今は違った。
街は静寂に包まれていた。
灯りはある。明滅するネオンサイン、空に浮かぶ歪な月もそのままだ。
けれど、賑わいはない。人影も、怪異の笑い声も、どこかに閉じ込められたかのように消えていた。
「しーっ。今はみんな、ここに入れないようにしてるんだよ」
真琴が、くすりと笑いながらそう言った。
晴臣の右手は、しっかりと彼女の手に握られていた。ふわりと軽く、指先はやや冷たい。
「だから……今はふたりきり、だね」
そう言って、真琴は足取り軽く、晴臣の手を引いて歩き出した。
その足取りはまるで――デートを楽しむ少女のようだった。
「うふふ、今日はどこ行こっかー。あ、あのアイス屋さん、まだあるかな? ねぇハルオミくん、この前連れて来れなかったから寄る?黒いソフトクリーム。すごーく苦いの」
懐かしげに話しながら、るんるんと歩く真琴。
だが、晴臣の視線は街並みの変化を見逃さなかった。
空き家のように暗くなった建物。
路地の奥で、動かずじっと佇む影。
月明かりの下にあるのに、どこか陰鬱で、息をひそめているような街の空気。
――ここは、本当に“夢”なのか?
そんな疑問が脳裏をよぎるが、晴臣の手を引く真琴の指がほんの少し強くなる。
「ね、せっかくだから楽しまないと」
真琴がこちらを振り返り、ふわりと微笑んだ。
その笑顔は美しく――そしてどこか、底が見えなかった。
真琴に手を引かれながら、晴臣は無言で街を歩いていた。
足元のタイルの模様が、どこか見覚えのあるものへと変わっていくのを視界の端で捉えながら、ふと――瞬きをした。
そのまぶたが再び開いたとき、そこはもう、夢の街の通りではなかった。
重厚な静寂に包まれた、古びた西洋風の室内。
天井は高く、繊細な漆喰細工が施されている。壁を覆うのは深緑の布張り。
大きな窓には厚手のカーテンが閉ざされていたが、何処からともなく、紫色の光が部屋の隅々にまで静かに染み渡っていた。
空気は澄んでいて、それでいて重い。
まるで深海に沈んだ館のような、静謐の中に時間が止まったかのような感覚。
その部屋の中心に――彼女はいた。
ユメ。
あのときと同じ、眠りについたままの姿で。
白いワンピースに身を包み、車椅子にそっと座っている。
手は膝の上で静かに組まれ、顔は伏せられたまま。胸がかすかに上下していることで、かろうじて生きているとわかる。
「……ユメ」
思わず名前を呼ぶ晴臣の声は、吸い込まれるように室内に沈んでいった。
返事はない。だが、彼女の周囲には確かに“存在の気配”があった。眠っていながらも、全てを見ているかのような、そんな気配。
「ここに連れてきたかったんだ」
背後で真琴が言った。いつのまにか、晴臣の手から離れていた。
「ここでユメはいつも、夢を見てる。ずっと昔から。いろんな世界の、いろんな人の、いろんな結末の、夢」
真琴は窓辺に立ち、カーテンの隙間から差し込む紫光を指先で弄ぶように触れながら続けた。
「晴臣くんが生まれたときにも、ユメはちゃんと見てたよ。“タネ”をあげたのもこの部屋。……そのときのユメ、すっごく嬉しそうだったんだよ」
静かな部屋の中で、ただユメの寝息のような音だけが流れていた。
その存在はまるで、時を越えてなお祈り続ける少女のようで。
――タネ。
――夢。
――そして、今、目の前にある静寂。
晴臣の胸に、言いようのない感情がゆっくりと芽吹いていく。
その時だった。
静かに眠っていたはずのユメの指が、ゆるやかに動いた。
まるで夢の中で誰かを探すように――そっと、晴臣の方へと手を伸ばしていた。
「……!」
反射のように、晴臣は駆け寄っていた。
音すら立てず片膝をつき、その手を優しく包み込む。
少女の手は、冷たくも熱くもなく、ただただ「静か」だった。
でも確かに、そこには何かがあった。
まるで絵画のような光景だった。
紫の光が差し込む西洋の部屋。
眠れる少女と、手を取る青年。
時が止まったような、幻の中の永遠の一瞬。
「へぇ……」
背後で真琴が、吐息まじりの感嘆を漏らした。
それは驚きでも嫉妬でもない、ただ純粋な美への感嘆。
晴臣の指先に、細く震えるような光が走る。
ユメの手から伝わるもの――言葉ではなく、音でもなく、それは感覚だった。
途端に、晴臣の視界が揺らぐ。
時間の感覚が曖昧になり、空間の境界が融けはじめる。
足元がゆらりと波打ち、空と床が混ざり合うような錯覚。
自分がここに“いる”のか、“いた”のかすら不確かになる。
何か深く、遠く、それでいて懐かしい場所に引きずり込まれていくような感覚。
だが、不思議と怖くはなかった。
目の前で眠るユメの存在が、全てを優しく包み込んでくれているようで――
「……ハルオミ」
誰かが呼んだ。
夢の奥で、なぜか昔から知っている声が、そっと彼の名を撫でた。




