まずい状況!
「……ん?」
晴臣が眉をひそめたのは、左腕に感じた、微かなくすぐったさのせいだった。何かが這うような、優しく撫でるような――その感覚に思わず視線を落とす。
「うおっ、真琴……!?」
いつの間にそこにいたのか、真琴が包帯の上から左腕を撫でていた。その表情は無垢とも無表情ともつかず、ただ淡々と指を這わせている。
「な、なんか……くすぐったいんだけど……?」
そう声をかけても、真琴は答えない。晴臣の言葉など聞こえていないように、あるいは無視しているかのように、指先で左腕をなぞり続ける。
店長が、くすりと笑った。
「出て行きますかー?」
その声には茶化しの色があり、意図すら感じられた。
だが、真琴はそちらに目を向けることもなく、短く首を振る。
「大丈夫だよ」
それだけ言って、また視線を晴臣の腕に戻す。
晴臣はますます居心地が悪くなり、視線を泳がせる。
指先の感触もだが、何より“視線が抜けているようで抜けていない”真琴の目が怖い。
やがて真琴は満足したのか、左腕から手を離した。そして何事もなかったかのように、テーブルの縁に腰掛ける。
その様子を見て、店長が笑顔のまま口を開いた。
「この状況に心当たりはー?」
その問いに、真琴はほんのわずかに首を傾げる。頬杖をついたまま、晴臣の左腕を見つめながら答えた。
「んー……無いね」
その言葉はあまりにも無責任に聞こえた。
だが、晴臣にはわかった。“その答え自体が嘘ではない”こと。
そして、同時に――“何かを隠している”こと。
真琴の視線は、まるで左腕を通してなにかを透かして見ているかのようだった。
晴臣の脳裏に、一瞬だけ蘇る。
この間の戦闘中に見えた、緑の光。
それを見た時に、美鈴が一瞬だけ見せた――あの、底知れぬ恐怖の表情。
そして真琴の笑みを。
(……真琴。お前、何を知ってるんだ)
その問いは口には出せなかった。
だが部屋の空気が、ゆっくりと、そして確かに“異質なもの”に変わりつつあることだけは、誰の目にも明らかだった。
「とりあえず……帰るよ、俺。考えをまとめたい」
晴臣が立ち上がりながら言うと、空気が少しだけ揺れたように感じた。
その直後、店長がいつもの調子で返す。
「無理かもですねー」
晴臣が振り返ると、店長はゆっくりとリモコンを操作して、従業員ルームの壁に設置された監視カメラの映像モニターをつけた。
「え?」
映し出されたのは、シオップの正面玄関――そこに異様な“人だかり”ができていた。
「……なんだこれ……」
ぎっしりと詰め込まれるように人がいる。老若男女、まるで誰かの命令に従っているかのように表情もなく、ただ無言で店の入り口に向かって押し寄せていた。
手には、草刈り鎌、包丁、金槌、薪割り斧、スコップ、ピッチフォーク……。
本来、日常の中で見るはずの農具や調理道具が、凶器のようにしか見えない。
「他のシオマートやシオップの店外には誰もいないのにー、ここだけありえないくらいの人が集まってるんですよー」
そう言って店長はケラケラと笑う。緊迫感がまるでない。
だが晴臣は、その言葉の意味を理解した瞬間、背筋が冷たくなるのを感じた。
(俺を……狙ってる?)
「ドアの方はー?」
店長がふと別の店員に確認すると、のんびりとした調子で報告した。
「封鎖しておきましたー。でもちょっと厳しいかもー」
モニターの別のカメラには、数人のシオップ店員が出入口にロッカーやレジ台を運んで積み上げている様子が映っていた。
淡々と、呑気に、それでいて確実に“包囲”に備えている。
晴臣は自分の胸の奥から、じわりと熱くなるものを感じた。
怒りではない、不安でもない――名状しがたい、強烈な「違和感」だった。
「……なんで俺なんだ?」
誰に問うでもなく、晴臣は呟いた。
真琴は椅子に座ったまま、相変わらず無表情でこちらを見ている。
そしてその視線が、時折、晴臣の左腕へと落ちているのに気づいた。
(あの“緑の光”……あれを見てから、何かが変わった……?)
この街で、何が始まろうとしているのか。
それとも――もうすでに、何かが始まってしまったのか。
ドアの向こうから、「よこせ……」「よこせ……」といううわ言のような声が、微かに店内へと漏れてきていた。
「じゃあ――私が手助け、してあげる」
声の主に視線を向けると、真琴がテーブルに腰かけたまま、まるで何でもないことのように口元だけで笑っていた。
「本当は、“処理”したいんだけどね」
その言葉に、晴臣はピクリとも反応しない。あまりにも自然に放たれたその言葉に、逆に場の空気が凍りつく。
「でも、晴臣くんは……きっと嫌がるでしょ? だから選ばせてあげる」
そう言って真琴はゆっくりと脚を組み替え、右手を軽く差し出した。
「――私が外に行って“処理”してくるか。
それとも、私の手を取って、“こっち”に来るか」
まるで選択肢を与えているような言い回しだったが、実際にはその声のトーンも、差し出された手の存在も、選ばないという選択肢をあらかじめ排除しているように感じられた。
(……ほぼ一択か)
だが、晴臣は戸惑わなかった。
恐怖も、不安も、まだ整理のつかない状況への混乱もあったが――考えるまでもなく、決まっていた。
「……ありがとうございます、手当てしてくれて。避難もさせてくれて」
晴臣はそう言って、店長に軽く頭を下げた。
のんびりとした声で返事がくる。
「いえいえー、またのご来店をー。って言っても、今はお外は大変ですけどねー」
冗談めかしたその声を背に、晴臣は一歩を踏み出す。
そして、真琴の手を取った。
ひんやりとして、柔らかく、けれど何か重さのある――それは、人間の手とは少し違う感触だった。
真琴は手を取られても、笑ったまま微動だにしない。
ただ、薄く口を開く。
「うん、偉いね。……じゃあ、行こっか」
そうして晴臣の手を引いた瞬間、空気が一変した。
店内の照明がわずかに瞬き、背後で店長がぼそりとつぶやく。
「――邪神様のお通りですねー」
淡々と、どこかうれしそうに。
晴臣の視界がふっと暗くなる。
そして眠りに落ちるように影に飲み込まれた。




