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汐見市生活課!  作者: ケン3
間話
76/96

目覚め!

 ――ほのかに香るコーヒーの匂い。それが最初に戻ってきた感覚だった。

 

 「ん……っ……ここは……?」

 

 姫野は薄く目を開ける。視界に映ったのは、白い天井と見慣れたランプシェード。そして少し古めかしいウッド調の内装。

 

 見覚えのある空間。

 

 (……カフェ・リュンヌの、店長室……?)

 

 けれど、何かがおかしい。

 

 体が――動かない。

 

 「……は?」

 

 身体が、椅子にくくりつけられていた。腰と両腕、そして足首まで。赤いロープでやたら丁寧に縛られている。

 

 「ちょ、ちょっと!? なにこれ、私なにされたの!? 誰が!? なんで――」

 

 そのとき。

 

 「おはよう、火の精霊ちゃん」

 

 耳元で響いた、異様に明るく、そして凄まじく“底が知れない”声。

 

 ビクリと姫野の肩が跳ね上がる。

 

 「ひ……っ!?」

 

 背後の影が、優雅に、にこやかに視界へ回り込んでくる。三十代後半と思しき美しい女性――海堂美鈴。

 

 晴臣のイカれた母親だ。

 

 「ひ……ひぃ……ぃいいぃ……」

 

 姫野は、髪と共に頭を震わせた。普段なら冗談めかして軽口を叩いているはずの口が、緊張で縫い合わされたように動かない。

 

 

 「ねえ、火の精霊ちゃん。あなた、晴臣のこと――ちゃんとお世話してくれてるんでしょ?」

 

 「……え、ええと、はい……その、た、多分……?」

 

 「そっかぁ。じゃあ、なんでいちゃついてんの?」

 

 笑顔のまま、美鈴は首を傾げた。

 

 その瞬間、店長室の空気が変わった。気温が下がるわけでも、霊気が満ちるわけでもない。ただ、「理不尽」の濃度だけが高まった。

 

 「そ、それは……その……」

 

 姫野の脳裏をよぎる、走馬灯。

 

 美鈴は、足音ひとつ立てずに姫野の目の前まで歩くと、しゃがみ込んで視線を合わせた。

 

 「火の精霊ちゃん。あなたね、私が“あの子の面倒を見て”って頼んだのは、お色気作戦で誘惑していいって意味じゃないのよ?」

 

 「い、いやその、誘惑してるとかじゃなくて! お互いちょっと変な距離感っていうか、むしろ私が押され気味で……っち、違うのよぉぉぉおおお!! あれは!変な意図はなくて!! 本当に!!」

 

 「ふうん……そっか……」

 

 美鈴の笑顔が、一段階深まった。

 

 「――でも、アウトよ?」

 「ひぃいいい!!」

 

 

 

 その後しばらく、姫野ルイは保護者からお小言という名の地獄の説法を受け続けた。

 

 

 

 数時間後――

 

 カフェ・リュンヌの控室には、ぐったりとソファにうつ伏せる姫野ルイと、紅茶を優雅にすする海堂美鈴の姿があった。

 

 「……晴臣のこと面倒みやすいって自分から男になったのに、好きなるってちょっとお姉さん心配よ。」

 

 「……お、お姉さん……はい……」

 

 姫野の瞳から、うっすらと魂が抜けていた。

 

* * *

 

 

 晴臣が目を覚ましたとき、部屋には静寂が満ちていた。窓からは朝日が差し込んでおり、鳥の声と、カーテンが揺れるかすかな音だけが世界の輪郭を作っている。

 

「……ここ、俺の部屋……」

 

 額に浮いた冷や汗を拭いながら、晴臣はゆっくりと身を起こす。

最後の記憶、突如現れた母の乱入、金的からの意識の喪失——あの記憶が全て夢だったらどんなに幸せかと、一瞬でも思ってしまった自分を彼は恥じた。

 

 頭を振って現実に意識を戻す。そしてふと、視線の先に“違和感”を覚える。

 

 ——自室の隅の座椅子に、

 明らかに身長200cm超の大柄な男が、正座してちょこんと座っていた。

 

「……父さん」

 

 特に驚いた様子も見せず、晴臣はそう呼びかける。慣れた手つきでコーヒー豆の瓶を取ろうとしたところで、父親の大きな手がすっと肩に触れ、動きを止める。晴臣はその手の圧に逆らわず、素直にソファへ座らされる。

 無言のまま、父はコーヒーメーカーの前に立ち、豆を挽き、静かに湯を注ぎ始める。

 

 父・海堂義勝かいどう・よしかつ

 無口で、晴臣は物心ついた頃からその声を一度も聞いたことがない。だが、何も言わずともその行動には一貫した「優しさ」と「人柄」があり、晴臣は父をとても尊敬していた。

 

 香ばしいコーヒーの香りが部屋に広がる。

 晴臣はふと、問いかけた。

 

「……父さん。母さんと2人で何しに来たんですか?」

 

 返事はない。ただ、義勝は微かに肩をすくめて、やれやれとでも言いたげに首を振る。

 それだけで、息子には十分だった。

 

「うん……まぁ、俺が悪かったってことで」

 

 ほどなくして、湯気の立つコーヒーカップが差し出される。晴臣が受け取ると、義勝も自分のカップを手にして、隣に座る。言葉はない。だが、それがこの父と子の、何よりも濃密な会話だった。

 

 ——そして、この静かな朝が嵐の前の静けさであることを、晴臣はまだ知らない。

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