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汐見市生活課!  作者: ケン3
間話
74/96

カミエの事情!

 春の午後、汐見市役所生活課。

 まどろみを誘うような陽気と、事務処理の単調なキーボード音に包まれたその空間に――突如として風が吹いた。

 

 長く艶やかな黒髪。

 しなやかなモードコートをまとい、毅然とした足取りで現れた女性は、まるで絵画から抜け出たような美貌を携えていた。

 

 「失礼。生活課の海堂晴臣さんはいらっしゃるかしら?相談事なんだけど」

 

 その声は柔らかく、しかし空気を裂くほどの威圧感を孕んでいた。

 その瞬間、職員たちの手が止まる。

 

「……だ、誰?」「モデル?」「え?え?え?」

 

 ざわつく事務室。なぜか関係のない課長まで背筋を伸ばして「ほぅ……」と眼鏡を持ち上げていた。

 

 そんな中、彼女は悠然と筆を取り、相談内容を書き始める。

 

「ありがとうございますね。」

 

 どこか笑みを浮かべながら、彼女はさらさらと筆を走らせる。

数十秒で記入を終え、受付嬢に手渡した。

 

 「ご確認を」

 

 受け取った書類をぱらりとめくり――

 

 次の瞬間、目を見開いて叫んだ。

 

 「……えっ!?78歳!?」

 

 職員全員がぴたりと動きを止める。

 

 「えっ、えっ……? 78って、七十八ですか!? この……このお美しい方が……!?」

 

 沙織は書類と女性の顔を交互に見比べる。

 何度も。何度も。

 

 「ご、ごめんなさいっ!あのっ、年齢欄、もしかしてお間違えで……!? えっ……78!? ホントに!? えっ……!!!」

 「そうよ」

 

 女性…カミエは微笑む。

 

 「でも、ほとんど数えるのはやめたわ。私は、昔から“変わらない人”なの」

 

 その言葉に、室内の温度が数度下がった気がした。

 人間の皮をかぶった、何か別のもの。そう、誰もがうすうす感じ始める。

 

 「――晴臣さん、いるかしら?」

 

 受付越しに問うその声に、奥から歩いてきた晴臣が応じた。

 

 「はい、こちらに」

 

 彼は彼女の姿を見ても、驚きもせず、ただひとつうなずいただけだった。

 

 「こちらにいらっしゃるなんて珍しいですね、カミエさん」

 「ふふ、せっかくだし会いに来たわ」

 

 晴臣とカミエが並んで歩き出す。

 

 その背中を、職員たちは呆然と見送っていた。

 

 美と神秘と、圧倒的な“異常”が、生活課の空気を変えた春の午後だった。

 

* * *

 

 晴臣はいつものように湯を沸かし、持参の湯呑みに番茶を注いだ。

 

 「どうぞ」

 「ありがとう。ふふ、優しいのね」

 

 カミエは湯呑みを受け取ると、しずかに香りを確かめてから口をつけた。

 

 晴臣はその向かいで、さきほど受付嬢から預かった相談票に目を落とす。

 几帳面な筆致で書かれている内容は、どこか格式張った文体で、それでも意味は明瞭だった。

 

 

【相談内容】

件名:再出現した怪異について

相談者:幽谷カミエ(78)

内容:数十年前、私に呪いをかけた存在が再び現れたことを確認。

当該怪異は未だ人間社会に潜伏しており、意図的な接触の兆候あり。

呪いの性質上、解除には当人の意思が不可欠。

状況次第では命の危険もあるため、汐見市役所生活課に協力を要請。

 

 

 ……呪い?

 晴臣は無表情で書類から目を上げ、紅茶の香りに目を細めるカミエの姿を見つめた。

 

 「カミエさん」

 「ん?」

 「普段から顔を合わせる機会があるのに、わざわざ生活課に“相談者”として来られた……ってことは、何か、理由があるんですよね?」

 

 ――直球だった。

 

 カミエの動きが、わずかに止まる。

 

 だが次の瞬間には、彼女は快活に笑っていた。

 

 「あっはっはっ!」

 「ふふっ、さすがね。言い逃れはできなさそう」

 

 そう言うと、カミエは笑いながら目元を指で押さえる。

 珍しく、涙ぐんでいた。

 

 「いやあ……ちょっとね。命の危険があるのよ、ほんと」

 「……そういうことですか」

 

 晴臣の声色は変わらない。ただ、茶を一口すすっただけだった。

 

 「この“呪い”っていうのが……その、年齢と姿が一致しないのと関係が?」

 

 そう問うと、カミエはくすくすと笑って首を振った。

 

 「それは乙女の秘密ってことで」

 「78歳が言う言葉としてはかなり強いですね」

 「こら」

 

 少し睨むような表情で、しかしどこか楽しそうに笑う。

 

 「でもまあ……この呪いはね、“かけた本人にしか解けない”タイプなの。厄介なことに」

 

 晴臣は無言で頷く。

 

 その横顔を見ながら、カミエはふと目を細めた。

 

 「……ほんと、不思議ね。あなたって。」

 「よく言われます」

 「そうじゃなくて、普通は“呪い”って聞いただけでびびるのに。全然動じないのね、あなたは」

 「呪いをかけられても、だいたいどうにかしてきたので」

 「……ほんと、不思議」

 

 再び笑うカミエ。その目には、少しの疲れと、何かを託すような決意があった。

 

 「じゃあ、晴臣さん――手、貸してくれる?」

 「もちろんです。うちの仕事ですから」

 

 その即答に、カミエはふっと目を伏せて、湯呑みに口をつけた。

 

 ――そして、茶の香りの中で、静かな嵐が幕を開ける。

 

* * *

 

 市街地を外れ、車で数十分。

 さらに獣道のような山道を徒歩で進んだ先、そこには、荘厳な森が広がっていた。

 

 陽光は葉の隙間からまばらに射し込み、音もなく苔を撫でる。

 蝉の声も届かない、深い、深い静けさ――。

 

 「……滝の音がしますね」

 

 晴臣は立ち止まり、耳を澄ませる。

 

 ざああ……と、水の落ちる音。

 近い。もうすぐだ。

 

 その少し前を、カミエが淡々と歩いている。

 ヒールのような靴で、まるで道など見えているかのように迷わずに。

 

 「カミエさん。なぜ“そこ”にいるって分かったんです?」

 

 晴臣の問いに、カミエは一瞬、振り返った。

 

 「……昔、あの子が好きだった場所なの。わたしのことを“人間のくせに綺麗だ”って、そう言って呪ったあの子が」

 

 晴臣は少し眉を寄せた。

 

 「なるほど……それはまた、歪んだ告白ですね」

 「若気の至りってやつよ。」

 

 くす、と笑って歩を進めるカミエ。

 

 その先に、視界がひらける。

 木々の間から、滝が姿を現した。

 

 細く、しかし高い場所から落ちる水流。

 その周囲には人の気配などまるでなく、まるで時の止まった聖域のようだった。

 

 「……ここ」

 

 カミエは滝の前で立ち止まり、すっと髪をかきあげる。

 

 「来なさい、“あの頃”のままでいい。私はもう、逃げたりしない」

 

 そう呟いた瞬間――。

 

 空気が変わった。

 

 温度が下がり、空気がぴんと張り詰める。

 

 晴臣は思わず足を止める。

 

 「……来ますね」

 「ええ。」

 

 そして、滝の飛沫の向こう――

 そこに、人影のような、そうでないような“何か”が立っていた。

 

 ――ざわり、と空気が波打つ。

 

 滝壺の飛沫が、見えない重力に引かれるように後方へと流れる。

 視界の奥、霧の向こうから現れたのは……おどろおどろしい怪異だった。

 

 全身が歪んだ人型で、皮膚の代わりに苔と骨が剥き出しに這い、瞳はなかった。

 ただ、闇の奥から、執着だけが滲んでいた。

 

 「カミエエエ……やっと来たかァ……! やっと、やっと……」

 

 湿った声が滝壺に響き渡る。

 その姿に、晴臣の身体も自然と重心を落とし、戦闘の構えを取る。

 

 張り詰めた緊張があたりを支配し、まさに今、戦闘が始まろうというその時――

 

 「ちょっと、ごめんなさいね」

 

 カミエがすっと晴臣の腕に手を添え、

 そのまま――がっつりと腕を抱き寄せた。

 

 「あ、あの?」

 

 慌てて顔を向ける晴臣。

 彼の二の腕には、カミエの柔らかい感触が……はっきりと、伝わっている。

 

 「彼氏よ」

 

 カミエは堂々と、誇るように怪異に向かって告げた。

 笑顔。堂々とした、年齢詐称の塊のような美貌。

 

 「…………は?」

 

 さすがの晴臣も、声が裏返る。

 だが、当の怪異は――

 

 「はああああああ!? 何言ってんだババアァァァ!!」

 

 顔面というより頭部全体がぶわっと裂け、怒りが空間を震わせる。

 怪異の全身から黒い靄が吹き出し、木々の葉がざわざわと逆巻いた。

 

 「若い男なんて、貰えるわけねぇだろ! ざけんな! 嘘だ! それはアタシへの当てつけか!? わざとか!? バカにしてるのかァァァッ!」

 「バカにしてないわよ!」

 

 カミエも負けじと叫び返す。

 

 「アンタの呪いに負けなかったから、こうして縁を引き寄せたのよ! 晴臣くんはね、年齢じゃなくて中身を見てくれるの! わたし、勝ったの!」

 「負けてねぇ!! 認めねぇ!!!」

 

 怪異が再び滝壺を揺らし、全身から黒い鞭のような腕をいくつも伸ばす。

 カミエはなおも晴臣の腕にぴったりくっついたまま――

 

 「さ、晴臣くん。じゃ、そろそろ“カレシ”として、頑張ってね♡」

 「ちょっ……勝手にテンション上げないでください!」

 「――……っ、ざけんな、ざけんなババアァァッ……!」

 

 おどろおどろしい怪異の怒声が滝壺に響く。

 

 黒い瘴気をまとったその女の怪異は、悔しさに声を震わせていた。

 その目は、カミエを――いや、カミエの美しさを、嫉妬に染まった執着で見つめている。

 

 「アンタだけは……アンタだけは、絶対に不幸になれ……そう思ったのに……!」

 

 地を這うような呪詛の声。

 

 怪異の体からは、まるで怨念がそのまま形になったような黒煙が吹き出していたが、それは晴臣の前に立つ幽谷カミエの笑みの前で、まるで春風に吹かれる霧のように掻き消えていく。

 

 「だから、わたしに“結婚できない呪い”なんて、かけたのねぇ」

 

 カミエは、くすりと笑った。

 

 「でも残念。わたし、男に困ったことって、一度もないのよ?」

 

 そう言って、再び晴臣の腕にぐいっとしがみつく。

 

 「……やめてくださいほんとに」

 

 小声で言いながら、晴臣は怪異とカミエを交互に見つめた。

 呪い。嫉妬。怨念。

 どうにも腑に落ちない感情が、胸の奥で燻っていた。

 

 (でも待てよ……)

 

 ふと思い出す。

 そういえば――カミエさんって、確か……

 

 「……あの、ひとつ、いいですか」

 「ん?」

 「その、“結婚できない呪い”って話の前に……香奈さん、孫じゃなかったでしたっけ?」

 

 カミエの腕の力がふと緩む。

 彼女はきょとんとした顔で、何かを思い出すように軽く顎に手を当ててから――

 

 「……あれ? 言ってなかったっけ?」

 「言ってないです。」

 「ああ、うんうん。でも香奈はね、亡くなった知り合いの子なのよ。親戚じゃないし、孫でもないわ」

 「あっけらかんと……!」

 

 晴臣は思わず声を荒げかけ、口を押さえた。

 

 カミエは続ける。

 

 「ちょっと気にかけてあげてたら、いつの間にか“おばあちゃん”って呼ばれるようになっててね。あの子も、どうせ私の素性なんて気にしてないでしょうし」

 「いや、こっちはめちゃくちゃ気になりますよ」

 

 なんなんだこの人は――。

 

 晴臣は額を押さえるが、カミエは笑顔のままだった。

 

 「香奈はね、とても真面目で、優しくて、ちょっと不器用な子だけど、ちゃんと“人間”してるの。……だから、とっても幸せなのよ。」

 

 滝の音だけが、周囲に残った。

 

 怪異はもう、声を発しない。

 嫉妬と呪いは、晴臣とカミエのやりとりの前に、滑稽なほどに力を失っていた。

 

「結婚もしてないのに……ま、孫? 若い彼氏? ……うそ……でしょ……」

 

 声が、虚ろになっていく。

 

 「……こんなの、負けた……負けたわよぉ……っ……」

 

 滝壺の風に溶けるように、怪異の姿はふっと掻き消えた。

 呪いも、怨念も、残さず――まるで最初から存在しなかったかのように。

 

 その場に静けさが戻る。

 

 しばし、沈黙。

 

 「……ふうっ」

 

 隣で、カミエが長い吐息をついた。

 肩の力が抜け、彼女の瞳がどこか安堵に滲んでいる。

 

 「ようやく……終わったわねぇ。長かったわ、ほんと」

 

 「……呪い、解けたんですね」

 

 晴臣はぽつりと呟いた。

 その声に、カミエが微笑む。

 

 「ええ。呪いってね、祈りと似てるのよ。言葉じゃなくて、肌でわかるの。重しが取れたような感じ……」

 「それは何よりです。……で、ですね」

 

 晴臣は自分の腕にカミエの胸元が密着していることに改めて気づき、そっと身を引こうとした。

 

 「そろそろ……腕、離してもらっていいですかね?」

 「……え? なんで?」

 「なんでって……」

 「せっかく呪いが解けたんだからさ、結婚でもしない?」

 「しません!!」

 

 カミエはニッコリと満面の笑顔。

 冗談に聞こえないくらいのトーンで言いながら、むしろ抱き寄せる力を強めてきた。

 

 晴臣は眉を引きつらせ、必死に逃げようとするが、カミエの力は妙に強い。

 

 「ちょ、やめてくださいって! あなた、何歳なんですか!? ほんとのところ!」

 「んー? 数えるのやめたの、明治の終わりくらいだったかな?」


割と本気だったんだけどなぁ。

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