感染処理!
河川敷での“もきゅ騒動”を収束させたのち、晴臣と真琴は生活課へ戻っていた。
夕暮れの庁舎。生活課のフロアでは、書類を抱えた職員たちが何やら慌ただしく動き回っている。
その中心にいるのは晴臣。対応に追われ、あちこちの机を回っている。
「“もきゅ”じゃない、“問題”……! ちがっ、報告書の“概要”の“が”が“も”になってる!」
晴臣は書類をめくりながら、うんざりした顔で言った。
周囲では複数の職員が、眉をひそめたり、言葉に詰まったりしている。
「海堂さん、これ“ツクモガミ”って読むんですか? “ぬるぬるした記号のかたまり”にしか見えないんですが……」
「それ、俺もさっきから読もうとしてるんだけど、読めない。“目がすべる”感じで……」
言語が、ゆっくりとズレ始めている。
もはや「ツクモガミ」や「もきゅ」といった単語は、九十九神と対面した経験者以外には知覚できなくなっていた。
そんな中――
「……くくっ、あはっ……くく……」
ひときわ不気味な笑い声が、部屋の隅から聞こえてくる。
晴臣がそちらを振り返ると、応接スペースのソファで真琴が脚を組んで座っていた。
晴臣や生活課の混乱に真琴は満足そうにニヤニヤと笑う。
職員たちが右往左往しているのを眺めながら、まるで観察者のような視線を向ける彼女。
「ふふふ……人の“言葉”って、こんなにも壊れやすいんだねぇ。ちょっとしたノイズで、ぐちゃぐちゃになって……それでも、通じてる“つもり”で会話を続けるんだ。あははっ、もうたまらないよねぇ」
「お前、ちょっとは手伝え」
晴臣がプリンタ用紙を抱えながらボヤくが、真琴はクッションに肘をつき、退屈そうにあくびするだけだった。
「わたし?この状況、結構気に入ってるの。人間って本当に面白いね。言葉が通じてるようで、通じてない。大事な言葉ほど、通じなくなる……その瞬間の顔、みんな似てるんだよ。あははっ」
「……」
晴臣は無言のまま書類の束を床に置き、静かにひとつため息をついた。
慌ただしい生活課の真ん中で、課長が頭を抱えて机に突っ伏していた。
「……はぁ……なんでこうなる……」
机の向こうに目をやれば、応接スペースで優雅に晴臣に隠れて煎餅を丸呑みする女の姿。
――虹川真琴。
彼女は相変わらずニヤニヤと笑みを浮かべては、ひとつ、またひとつと煎餅を喉に消していた。
全てを「無害な観察対象」として扱っているかのような、冷淡な目。
「……」
課長はその姿を見て、ぐわっと髪をかきむしった。
そして、晴臣をぎょろりと睨みつける。
「……おい、海堂……」
晴臣は書類をまとめながら、チラリと課長の視線を感じて顔を上げる。
「はい?」
「外勤、って言ったよな……“持ち帰り”は禁止だろうが」
「いや、あの、勝手についてきたんですよ」
「いつも!」
バン、と机を叩く課長。まるでそれだけで全職員の頭痛を代弁しているかのようだ。
その背後ではまたしても「もきゅ」と誤変換されたメールがプリンターから出力され、誰かの悲鳴が上がっていた。
「……ったくよ、俺がこの仕事やめるとしたら、お前と“そのバケモン”のせいだからな……」
課長はそう吐き捨てると、しゃがんで胸ポケットからウイスキーの小瓶を取り出し、机の下でちびりとやった。
真琴はその様子を眺めながら、煎餅の最後の一枚を喉に押し込み、口元を拭いながら満足げに笑った。
「……本当に、人間って面白い」