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汐見市生活課!  作者: ケン3
間話
69/96

釣り日和!

春。

 

冬の名残をようやく手放した潮風が、港の石畳を優しく撫でていく。

ふとした思いつきで釣竿を持ち出した海堂晴臣は、ゆるやかな坂道を下り、港へと向かっていた。

 

「……釣りなんて、久しぶりだな」

 

誰に聞かせるでもない独り言。

季節が変わったことを実感するように、大きく息を吸い込む。

 

道中、顔なじみの魚人が網を干している。

干物屋のお婆さんが、タライにイカをぶちまけながら晴臣に手を振ってきた。

 

「海堂くん、釣れたら持ってきな!」

「捌いてくれるなら」

「まかせとき!」

 

日常のやりとりが、なんだか心地いい。

港町の人々と軽く言葉を交わしながら、堤防の先まで歩を進めた。

 

少し欠けた手すりのあるお気に入りの場所に腰を下ろし、釣竿を海へと投げる。

 

海面に浮かぶウキ。

波に合わせて、ゆらり、ゆらりと揺れている。

 

晴臣は、ふぅ……とため息をついた。

 

「……釣れなくても、いいか」

 

穏やかな陽射し。心地よい海の匂い。

どこかで猫の鳴き声が聞こえる。

 

まぶたが――重い。

 

眠気が、潮風に乗ってやってくる。

首がカクンと揺れて、釣竿をかろうじて握りなおす。

 

意識がふわりと沈もうとした、そのとき――

 

視界の隅に、“何か”が動いた。

 

……ゆらり。

 

まるで陽炎のように、不確かな揺らぎ。

晴臣は瞬きをし、にじむ視界でそれを見つめた。

 

赤い……?

シャツ……?

上下に揺れて……なにか文字が見える。

 

ぼやけたままの目を凝らすと、白い紙のようなものが風にあおられてパタパタしている。

そして――そこに、何かが書いてある。

 

【ねむねむ可愛い】

【起きて♡晴臣たそ】

 

……は?

 

意識が半分飛んでいた晴臣の脳が、ようやく現実に戻る。

赤いチェック柄の布地。額にねじ込んだ鉢巻き。きらきらとした目に、丸メガネ。

 

近づいてくる。

 

しかし、彼は止まらない。

 

トオル・クゼ。

港町汐見の風景を瞬時に“地獄”へと塗り替える男。

 

赤いシャツを風にはためかせながら、今日も彼は元気にやってきたのだった。

晴臣は、思わず眉間に皺を寄せながら視線を向ける。

 

春の陽気とまったく似つかわしくない“過剰な人間”が、満面の笑みを浮かべて仁王立ちしていた。

 

「おほっ……!今日も、なかなか……絵になりますなぁ〜〜、晴臣たそぉ……!!」

 

ギラリと輝く丸メガネ。

額に巻かれた鉢巻きが、風に揺れている。

 

チェック柄のシャツの袖を肘までまくりあげ、手には手製の“推しうちわ”。

うちわの裏にはこう書かれていた。

 

「晴臣たそ今日もがんばっててエライ♡」

 

「……うわあ……」

晴臣は呆れと苦笑のちょうど中間みたいな表情を浮かべた。

 

「……トオルさん、なんでこんなところに?」

 

釣り糸の先では小魚が跳ねていたが、それどころではない。

港のど真ん中でテンション高めに接近してくる男に、晴臣はやや後ずさる。

 

すると、トオルは鼻を鳴らしながらメガネをくい、と持ち上げた。

 

「ふふ、晴臣たそはまさか知らなかったんですか……?」

「何をですか」

「一応――“ここ”はテリトリーですぞ!?」

「……へぇ」

 

トオルの「テリトリー宣言」が、何を意味するのかいまいちわからないまま、晴臣は軽く相槌を打つ。

「縄張り意識の強い猫かな」とぼんやり思いながら、納得してしまった。

 

(……テリトリーってことは……もしかしてこの人、漁港で働いてたりするのか……?いや、意外とちゃんとした人なのかも)

 

トオル・クゼに対する評価が、一瞬だけ「まとも寄り」へ傾きかけたその時――

 

「ちなみに今日の“観察ポイント”は、釣り座りVer.の晴臣たそですぞ!」

「やっぱ違うなこれ」

 

晴臣は首を振った。

この人は、ちゃんとしてない側の人だった。

 

* * *

 

「……ところで晴臣たそ」

隣で仁王立ちしていたトオルは不意に晴臣の釣り竿を眺めながら口を開く。

 

「魚が食べたい……とか、そういう欲求に目覚められたのですかな?」

「いや、そういうわけじゃないです」

 

晴臣はのんびりと答える。釣竿の先に大きな動きはない。

 

「まぁ……暇つぶしっていうか。釣れたらラッキーくらいで」

「……ふむ……」

 

トオルはなぜか深く頷き、真剣な顔で腕を組んだ。

なにか哲学的なテーマでも考え出したかのように、うんうん唸っている。

そして突然、メガネをギラリと光らせて身を乗り出した。

 

「……ならば!ここで我が推し活の真髄を披露する時が来たようですな!!」

「またなんか始まった……」

 

晴臣が呆れと警戒のちょうど中間くらいの目で見守る中、

トオルは「これぞ推し活ですぞ!」と叫び、海の縁に片膝をついてしゃがみ込む。

 

「……えっ」

晴臣が咄嗟に止めようとした時にはもう遅い。

 

トオルの右手が、海に触れた。

 

その瞬間。

 

バシャッ。

 

バシャバシャッ!!

 

「……あ?」

 

穏やかだった水面に、大量の魚影が浮かび上がる。

 

鯛、ヒラメ、イカ、アジ。

いや、それどころではない。

 

「……今、あれ……トビウオ……? いやカジキ……?」

 

晴臣の目に信じられない光景が映る。

この時期に絶対現れないはずの魚たちが、海面をぴちゃぴちゃと跳ねている。

 

しかもどれもこれも脂が乗っていて美味そうな個体ばかり。

 

「……これ、全部、トオルさんのせい?」

「ふふ……魚類の心に語りかけ、推しに最高の時間を提供する。これぞ……崇高なるオタクの業……!」

「いや普通のオタクそれできないし……」

 

晴臣は口を半開きにして呟いた。

 

「ていうか、これ漁業法的にアウトなやつじゃないの?」

「魚たちが勝手に来たのですぞ」

 

トオルは法の抜け道かのように無邪気に笑う。まるでペットに餌をやるかのような目で魚たちを見つめながら。

 

海面はまさに“宴”。

釣りどころではない密度の魚たちが集まりすぎて、釣竿を振らずとも釣れそうだった。

 

「……俺の暇つぶしが、なぜか……海の奇祭になってるんだが」

 

そう呟いた晴臣の釣竿に、ずん、と重みがかかる。

 

「……あ、釣れた」

「ふおぉ……っ! やはり晴臣たそは……自然界さえ味方につける……」

 

トオルの謎の信仰心がますます深まる中、晴臣が釣り上げた立派なクロダイを手に「これ夕飯にすっか」と呟いていたその時。

 

「なにこの騒ぎィィィィィ!!!」

港の脇の海から、魚人がずぶ濡れで飛び出してきた。

 

鱗に覆われたヒト型の異形。

フグと人間の悪魔合体のような顔面に、長いヒレ、そして怒り心頭の赤い目。

 

「誰のせい!? 誰がやったのこの魚寄せ!!? 魚界パニックなんですけど!!!」

 

魚人はヒレをバタバタさせながら海面に群れる魚たちを見て、大騒ぎで暴れ回る。

 

晴臣が「あー、あー……」と目を逸らしかけた、その瞬間だった。

魚人の目が、トオルを捉えた。

 

「……え……」

 

ぴたりと魚人の動きが止まる。

 

「な、な……な、な……」

 

見る間に顔面蒼白ならぬ灰白色に変色していく魚人。

その大きな目が、ぎょろりと見開かれたまま、震えだす。

 

「な……なんで……そ、そこに……」

 

魚人は喉を鳴らし、地団駄を踏み──

 

「か、神様ぁぁぁあああ!!」

突然地面にひれ伏した。

 

「視界に入らないで! お願い!! 気持ち悪いから! 信仰はしてるけど顔は見たくないんですううううう!!!」

「今、神様に直接『気持ち悪い』って言ったぞ……いいのかそれ……?」

 

晴臣は呆然とする中、トオルは腕を組んだまま、目を細めて魚人を見下ろす。

 

「……ふむ。なんと礼儀のない信者ですな」

「ご、ごごごごごごごめんなさいぃぃいぃいぃ!!!でも気持ち悪くてぇ」

魚人は土下座したまま、泣き出した。

 

しかし、トオルは怒っている様子もない。

どころか、手を軽く振って「ぷんすかぷんすか」と謎の擬音を口にしている。

 

「まったく……崇高な推し活が、これでは台無しですな……」

 

晴臣の方を向き、にこりと笑う。

 

「ま、今日のところはこのへんで……また来ますぞ? ぞ?」

「うん、えーと……気をつけて」

「ふおぉ……やはり優しい、晴臣たそ……」

 

魚人がまだ土下座したまま「無理キモい」と連呼する中、トオルはいつの間にか姿を消していた。

 

港には、まだぴちぴち跳ねる魚たちと、泣き崩れる魚人が取り残されていた。

 

「……いや、どうなってんの今日……」

 

晴臣は釣り竿を手に、また一つ世界の謎を深めてしまった気がした。

だいぶ気持ち悪いけど大丈夫そ?


覗き魔のアホ恋愛初心者邪神に言われたくないですぞ。


は?


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