感染源!
汐見市北部の河川敷――。
このあたりは平時なら散歩コースとして、老若男女に親しまれている場所だ。
だが今は違った。
「……これは、完全にやられてるな」
川の土手を歩きながら、晴臣は眉間に皺を寄せる。
近づくにつれて、周囲の空気に異様な“気配”が満ちてくる。
目に映る市民たち――川辺で釣りをする老人、ランニング中の青年、遊ぶ子供たち。
誰も彼もが、口を開けばこうだ。
「もきゅ!」「もきゅもきゅ」「もーきゅー♪」
それ以外の語彙がすっかり消失している。
言語体系の崩壊。
これはもはや軽度の概念汚染だ。
「うっぷ……だぁっはっはっはっは!!」
だが、隣で腹を抱えている存在は一人。
「笑いすぎだ。こっちはわりとシャレにならない状況なんだが」
「だっ、だって、見てよ晴臣くん!釣りしてる少年が『もきゅ』って言いながら魚と会話してるの……無理……無理……ぷぷっ、死ぬ……っ!」
真琴は地面にしゃがみ込み、足をバタバタさせながら笑い転げていた。
完全にツボに入っているらしい。
「……あれは老人だし、壊れた時のお前が一番怖い」
晴臣はため息をつき、土手を下って河川敷の広場へと進む。
中央には、木造の小さな社のようなものがぽつんと建っていた。
だがそれは祠ではない。近づいてみると、まるで昔のランドセルを模したようなフォルムの、無機質な箱のような存在――それがぴょこぴょこと浮いていた。
異様な“存在感”。それは確かに、物に魂が宿った「九十九神」の気配だった。
「もきゅ……もきゅもきゅ……!」
木製のランドセル型九十九神が、空中に浮かびながら「もきゅ」言語を撒き続けている。
その周囲、半径数メートルにわたって、子供たち数人がぐるりと輪を作って取り囲んでいた。
みな近所の小学生のようだが――異様だったのは、彼らもまた「もきゅ」しか喋れなくなっていること。
「もきゅー! も、もきゅっ!」
「あっ、もきゅ! もきゅ、もきゅも!」
どの子供も、懸命に身振り手振りで意思を伝えようとするものの、言葉はすべて“もきゅ”に置き換えられている。
もはや言語機能そのものが、フィルターのように“もきゅ”に変換されているのだ。
「これは……完全に感染してるな。子供たちまで……」
晴臣がため息をつくと、笑い涙を浮かべた真琴が少し前に歩き出し、最も小柄な男の子にしゃがんで目線を合わせた。
「ねぇ少年、“話す”のできなくなっちゃったかい?」
「……も、もきゅ……」
小さく頷く少年。
次の瞬間、少年は思い出したようにポケットからぐしゃぐしゃになった紙を取り出した。
「……もきゅ」
それを真琴に手渡すと、真琴は受け取って開き――「ふふっ」と笑みを浮かべながら晴臣に渡した。
「……やっぱ、これが原因」
紙には、小学生の拙い文字でこう書かれていた。
⸻
【もきゅ大さくせん】
・ことばをおしえてあげた
・もきゅ、って言ったらうれしそうだった
・ぼくたちもいっしょに もきゅ って言ってたら すごいことになった
・ぜったい にんきになる
・もきゅを りゅうこうごたいしょう にする!
⸻
「……子供ってのは、時に最も恐ろしい“発生源”になるんだよな」
紙を手に取った晴臣が頭を抱えて苦笑しながら呟いた。
「こいつらが九十九神に“言葉”を教えたまではよかった。でも、使い方を間違えた。繰り返し“もきゅ”って言ってるうちに、こいつの中で“言語=もきゅ”になった。で周囲もろとも、概念として書き換え始めた……」
真琴は紙の文字を指差しながら、笑いをこらえるように肩を震わせていた。
「“流行語大賞にする”って……これある意味すごくない? 文化汚染の第一歩じゃん。今度使お」
「笑いごとじゃないぞ……あと少しで市内放送も“もきゅ”になりかけてた。行政機能が“もきゅ”で回り始めたらもう終わりだ」
「“市役所もきゅ課”ができる世界線、見てみたいけどね〜」
「絶対イヤだ、それに何を企んでる!」
晴臣は紙を折りたたみながら、九十九神――“もきゅ様”に目を向けた。
「で、お前は今、話すことも書くこともできないってわけだな。“もきゅ”以外が使えない」
ランドセル神は「もきゅ……」と弱々しく返し、くるりと宙で回転した。
どうやら頷いているらしい。
「情報固定が進みすぎて、“自分”か“もきゅ”以外を認識できない状態なんだろうな。厄介だが……対応策は見えてきた」
晴臣が、風に揺れる紙を見つめながら呟いた。
「まずは、“新しい言葉”を教えさせる。九十九神に“もきゅ”以外の言語を再教育だ。強制リブートさせる」
「つまり、“流行語の上書き”かぁ。晴臣、そういうとこだけは頭いいよね」
「“だけ”とはなんだ」
晴臣と真琴のやりとりを、ジッと見守る子供たちの目が輝いていた。
彼らもまた、ほんの少しずつ――“もきゅ”以外の言葉を取り戻せるような、そんな空気が、確かに生まれつつあった。
「……とりあえず、お前は回収だな。言語汚染が広がる前に、生活課が対処しておく」
「おぉっ、ナイスアイデア!かっこいい!」
真琴がパチパチと拍手をしながら近づいてくるが、すかさず晴臣が冷静に言い放つ。
「……で、お前はその間、煎餅を食べるのを我慢できるか?」
「えっ」
「丸呑みは絶対禁止。次やったら口に手を突っ込んででも取り出す」
「…いや、それはちょっと……あの……大胆だね」
真琴が妙にしおらしくなるが、すぐにぴょこっと手を挙げる。
「……じゃあ、小さく割ってから食べる」
「よろしい」
こうして、煎餅と“もきゅ”の支配から汐見市を守る、ほんの一歩が踏み出されたのだった――。